「波を織る」

   「波を織る」

 それは遠い遠い音だった。
岸近く、砂の捩れる音すら聞こえそうな浜辺の家に住む者も、山に寄って坂道を辿り、蒼の重なりを見下ろして暮らす者たちも、一様にその身に刻んだ音だ。
きっと生まれる前から聞こえていたのだろうけれど、誰もそんなことは考えない。そうして刷り込まれた島の鼓動は、そこに住む者の胸の底で同じ拍を刻んで一生を綴る。

 機屋(はたや)の家は浜辺にある。東に造られた戸口に寄りかかって、ユナギは機を織るミオリを眺めていた。決まった動きが目の中で繰り返され、決まった音が繰り返される。それを見、聴きしていると、穏やかになれた。波の音と一緒だ、と思う。
 ミオリの手が刻む動きとは別の拍子で機(はた)が音を立てる。ぎぎ、と詰まるような軋みだ。もうずいぶん前から、この軋みはあった。少しずつ大きくなって、時に調子を狂わせることさえある。この機は壊れかけているのだ。ミオリは唇を固く閉じている。頬の端の辺りが微かに震えた。奥歯を嚙みしめているのだろう。分かっていても、何をどうすればいいかが分からないのだ。誰かにそれを伝えることも容易ではない。
ミオリは口が利けない。口が利けないのは、大抵耳が聞こえないからで、聞こえないから声を出すということが分からないのだと言われていた。だが、ミオリはそうではなかった。耳は聞こえる。ただ、自分の言いたいことを伝えることができないのだ。ユナギが時折この家にやってくるのは、ミオリの気持ちを読めるからだった。

ユナギは島の井戸を守る水守(みもり)だ。その家に生まれた女は代々水守になる。それはその家に生まれた女たちが、なぜか不思議な力を持っていたからだった。まだ起こっていないことを知り、凶事があればそれに備える。その年に雨は多く降るのか否か、井戸の水が保たれるよう、どうすればよいか。それらを知り、導くことが水守の勤めだった。
母親はようやく乳離れしたばかりのユナギと双子の兄のイサを残して亡くなっていた。二人は祖父のトナミに託されたが、漁しか知らぬ男一人では幼い子供の世話は何もできず、近くに住む島(しま)長(おさ)の家に何から何まで頼んでいたから、祖父にというより、島長の女房であるキセに育てられたといってよかった。島長は偏屈な老人で、いつも訝るような目でユナギを見ていた。何かを窺うようなその目つきは幼いユナギを不安にさせた。

ぎぎ、とまた機が軋む。ずいぶん前から響いていた音だ。それは波音に交じって、もしかしたら、もっともっと昔から鳴っていたのかもしれない。

亡くなった母は先を見る力を持っていた、という。そうしたものが水守の力だと。ただ、自分とイサは余所者の子なのだと島(しま)長(おさ)は言った。
「じゃから、おまえにはそれがないやもしれん」
 それ、が何なのかはよくわからなかったが、それでもその言葉は幼いユナギの内で釣り針のように引っかかった。水守の力。それが無ければ、水守にはなれない。それは良いことなのか、そうでないのか。
 島長の眼には、ぐしゃぐしゃに縺れた思いが見えた。絡まり合った網のようだとユナギは思った。キセの頭の中はぼんやりしている。温い湯に触れるようだった。
 余所者とは何なのか。イサはそのことの方が気にかかっていたようだった。それは、いずれ誰かが教えてくれる。おじいか、そうでなければ島の誰かの口から、それは否応なく聞こえてくるだろう。それも、何とはなしに分かっていた。
 ざん、と、時に大きな音を立てて波が浜に食らいつく。そんな浜辺を歩いていると色々な声が聞こえてきた。浜に座り込んで網を繕う者たちが自分を見る瞼の裏の声。海栗を割り、牡蠣の身を抉りながらこちらを窺う瞳の奥の声。
 —―ああ、水守じゃ。
――ミナギにそっくりじゃ。
――生まれ変わりじゃろう。
 潮に洗われた掠れ声が、幾つも重なってごそごそと鳴った。貝殻を擦る音に似ていた。
「おかあに、そっくりじゃと……」
 ある日、聴こえたことを呟くと、イサは目を見開き、しみじみとユナギの顏に見入った。たぶん、覚えていない母の顏を探したのだ。しかし、トナミはその言葉を聞き咎めた。
「誰がお前に言(ゆ)うたんじゃ」
「……言うたんじゃねえ」 
「なら、なんでじゃ」
 口にされずとも解るのだと言うしかなかった。トナミは眉を寄せた。

 島長もまた同じように眉を寄せ目の周りの皺を深く絞ったが、黙り込んだまま、その時は何も告げはしなかった。
だが、ユナギが十を過ぎる頃には、聴こえるのは人の胸の内ばかりではなくなった。
浜辺にある一軒の家が夜半に火事を出し、ほとんどが焼け落ちてしまったことがあった。その三日前、ユナギは夢を見たのだ。ただ、そのことはイサにしか話さなかった。イサは、もっと早くに言ってやれば、と言ったが、ユナギは首を振った。言ったって、それは避けられないことなのだ。しかし、イサにはそれはわからなかった。
蛇が、と口走って跳ね起きた時、ユナギは夏の日中にうたた寝をしていた。
「蛇が、どした」
 イサは可笑しそうに訊いた。寝惚けていると思ったのだろう。
「島長が、咬まれた。……咬まれる」
 へえ、と言って笑いかけた顔は、途中で緩みを止めた。手にしていた釣具を放り出し、イサはすぐに島長の家に出かけた。
 翌日、島長は家の中に入って来た毒蛇に咬まれた。用心して叢(くさむら)は避けていたのに、やはりそれは起こった。ただ、念のため手元に紐を備えていたから、それで死ぬことはなかった。ユナギが様子を見に行った時、島長は紐で左足を縛り上げており、その下でキセが蛭のように口を付け、忙しなく毒を吸い出していた。いつもはおっとりしたキセの動きが、その日は違っていた。指で押し、口で噛みしだくようにして、鈍い音を立てながら吸い出しては吐き捨てる。皺の寄ったその唇から、毒と一緒に血と唾液が糸を引いて垂れていた。戸口に立つユナギを、島長は脂汗の浮かんだ顔で目を眇めて見、ゆらゆらと頷いた。戸口の傍の土間には、鎌と断ち切られた蛇が血溜まりに投げ出されたままになっていた。

ユナギが水守を継ぐのだと島長が決めた時、トナミはイサを養子に出した。
 こがん小せえ島で――、と呟いた島長の声が耳に残っていた。島長が何を考えていたのか、祖父が何を考えていたのか、長じるにつれ、それは蛸の墨のように胸に拡がり、やがて澱んだ。トキ島は小さい。それでも、トナミはイサとユナギを引き離したのだ。
 井戸が枯れるようなことがあったら早くに言うのだ、と島長はユナギに言った。
 ずっと前に聞いた同じ言葉が、身の内に谺した。自分が聞いたのか、それとも他の誰かだったのか。どこで聞こえているのかもわからない、そんな記憶が何度も何度も押し寄せて、ユナギは夜半に飛び起きた。目覚めても、イサは隣にいなかった。だくだくと涙が溢れて止まらなかった。小さい島の裏側のことだ。いつでも会える、とイサは笑った。そのはずだ。それなのに、その決別は途方もないものに思えた。陽の光のようなイサ――。

 日ごとに強くなる幾つもの記憶はユナギを揺さぶり続けた。母だった。母のミナギもまた、こうして先の世と前の世の記憶に揺さぶられながら生きたのだ。自分は誰なのか。ユナギなのか、母なのか。
 家を飛び出して西寄りの崖に走った。その突端に石塚がある。何かの墓だと思われているそれが、昔やって来た海賊と立ち向かった時の碑なのだと、母は島長に聞いていた。おぞましい暴虐であったのだと。そして薄まった血と、わざと濃く残された血の話も耳に蘇った。水守が先読みの力を得るために、血の近しい者と夫婦になっていたのだと。
 いつ聞いた誰の記憶か。響き合う記憶に狂いそうになって、崖の上からユナギは叫んだ。

 誰にも話さないそんな話も、ミオリにはぽつぽつと話して聞かせた。
 いつまでも戸口に立って聞くともなく機織る音を聞いているユナギを、ミオリはちらと見遣っただけで延々と手足を動かし続けていた。用は、ないのか。
水守となる子は遠巻きにされ、あまり他の子供たちと遊ばせてもらえない。口の利けないミオリもまた、いつも独りでいた。もっと幼い頃は喋れたので、わざと黙っているのだと言われ、疎まれたのだ。ミオリの心を読んで慰めたのはユナギだった。ミオリが誰かに何か告げたいことがあるから来てやるのだ。そう思っていた。でも、言いたいことを持っていたのは自分の方かもしれない。
 ぎぎぎ、と軋む音が、ひどく撓(たわ)んだ。応えるように波の音がざざと響く。
 ミオリは震えるように小刻みな瞬きをして小さく舌打ちをした。緯(よこ)糸を滑らせる拍子が崩れるのが嫌なのだ。そこで、どうしても意に添わぬ緩みが起こって布目が乱れる。糺(ただ)そうとして糸を引きすぎると、それはそれで攣れてしまい、やはり布目は乱れてしまう。

この織屋が島では一番古い。あともう二つ、島には織機があるはずだったが、あまり使われていない。一つは島長の家にあった。昔はキセが織っていたが、今は目が薄くなり、できなくなったのだ。
いま一つは北浦にあった。祖父の弟の家だ。イサは子のいないその家に貰われたのだった。ただ、機のある家は織手を欲しがる。今はまだそこに養い親の女房がいて、なんとか織機を踏んでいたが、跡継ぎの女子(おなご)がいない。本当はユナギを欲しがったのだが、トナミは首を振った。水守に代わりはいなかったのだ。
絶やせばいい。それも熾火のように胸の内にある母の声だった。波の音は繰り返す。その音に浸れば、まだ見ぬ遠い島々の声もする。機も、その昔、余所の島から来たのであろうに、そこへ通じることは未だない。もっと、もっと先の世だ。

「直せる者はおらんのじゃろう」
 訊くでもないような訊き方だったが、ミオリは瞬きしただけで頷いた。
「イサなら……、器用じゃから、直せるやもしれん」
 ずっとこちらを見もしなかったミオリの目が動いた。首を回してこちらを見、手は止まっていた。
「イサのとこへ、嫁に行けばええ」
ミオリは目を見開いた。ミオリになら、と言いかけてユナギは口を噤んだが、ミオリは訊き咎めた。自分ならなんだと言うのかと、その眼は尋ねていた。
「機がある。大婆はもう目が見えんし」
だから好きに織れる、と言おうとしたが、言いたかったのはそれではなかった。自分に寄り付きもしない他の誰にも、イサに触れてほしくはなかった。
父は此処へやってきたのだ。先の世から恋い求めた出会いを、母は掴んだ。それができたのは水守の血だ。今、しかしトナミはそれを絶とうとしていた。
「おじいの女房は姉さじゃった。だから、おじいはうちらを離したんじゃ。そがんことは、もうならんと。けど……」
けど――。そこまでだ。そこから先をミオリがどう思うかは知らぬ。
 
—―なんで、そがんことをうちに言う……。
ミオリは訝し気にユナギを見上げた。見つめ返すユナギの眼は、少しだけ細くなった。
ざざ、と波の音が割って入った。そしてすべての音を引いていく。
「ミオリは、……話さんからの」
 話さない。話せない。そうでなければ此処へ来ないのか。砂の中から吹き上がる貝の潮のように、ユナギは吐き出しにだけきているのか。
 不意に、ミオリの細い腕が慣れない向きに動いた。と、その勢いのまま、何かがユナギの顏めがけて飛んできた。目を閉じる間もなく瞼の上を掠ったそれは、額の端を鋭く打って落ちた。
 杼(ひ)、だった。あまりの勢いに千切れたかと思えたが、緩みとともに解れつつ飛んだのか、糸は切れぬまま繋がっていた。
 怒っていた。そうか、ミオリはそれに怒ったのか。吐き出すためだけにいるのかと。
――ないと言えない。でも、それだけではない。もし口が利けても、ユナギはミオリが嫌いではなかったはずだ。だが、逆は分からない。
「ミオリは……」薄く笑みを浮かべて言った。「喋れたら、うちと話したか」
 ミオリは小さく口を開き、目を見開いた。その視線は近くも遠くもなく、二人の間を彷徨った。微かに口が動いた。魚の吹く泡のような微かな音がこぽこぽと鳴る。何を言いたいのか自分でもわからないのだろう。来る波と往く波がぶつかって戸惑うようだった。
杼を拾い上げると、ふと笑みが湧いた。
「烏賊の甲骨(こうぼね)みたいじゃな」
 そんなことをわざわざ口にしたのはミオリに聞かせるためだった。それはイサの言いそうなことだ。いや、言うと分かっていることだった。ミオリが僅かに眉を寄せた。

蟀(こめ)谷(かみ)の上のあたりから何か温いものが降りてきていた。手の甲で擦ると痛みが走った。
滑(ぬめ)るような赤に噎せ返りそうで、手を遠ざける。濃い色だった。ユナギはそのまま浜に出て、潮水で傷を洗った。塩は身を割るように傷に浸みた。息が詰まるような思いでそれに耐えていると、やがて痛みは薄れていった。
こうして、血も薄れるのか。いや、そうではない。やがて、またその血は蘇る。今は、眠るのだ。イサの名を継ぐ者に再び会うまで。自分はナギの名を繋ごう。日毎に時を鎮め、波を手懐ける凪のように。そうだ、ミオリのように、黙って機を織るのだ。寄せ、還し、繰り返し谺する、水面に揺らめく炎のような波を織ろう。

織場に戻ると、今度は土間から上がり込み、いよいよ拍子の狂い始めた機の音を遮って、ユナギはミオリに呼び掛けた。
「うちに、機を教えてくれ」
 ミオリは少しずつ首を傾け、ゆっくりと頷いた。踏木が動き、経糸(たていと)が開くと、生き物のように杼が辷(すべ)った。 

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