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紗枝

去年の誕生日にプレゼントしてもらったアナログ時計は、すでに7時58分を指していた。

かじかむ手に「はーっ」と息をかけて擦り合わせつつ、待ち合わせの時間を遠に過ぎても来ない相手を待つ紗枝は、もう1時間近く2月の寒空の下で身体を震わせていた。

出かける前に見た天気予報に騙され、いつも巻いているマフラーを部屋に置いてきてしまい、玄関のドアを開けた瞬間の絶望感と言ったら、もう。

納期厳守の仕事をしている職柄、待ち合わせの時間が迫っていたので、履いたロングブーツを脱いで部屋に戻ったのでは間に合わないと、首元が寂しいまま玄関のドアを閉めた。

そもそも、こんなにも長い時間を屋外でいる予定ではなく、本来であればすでに空調の効いた温かい室内で美味しいものに有り付けていたはずだった。

この1時間に何度チェックしたかわからない携帯は、その甲斐も虚しく、未だになんの通知もしてはくれなかった。

いつも待ち合わせに使う時計塔は、紗枝のアパートから徒歩15分の最寄駅のターミナル前にある。仕事帰りの会社員が電車を降りて出てくる改札の目の前に建てられているため、待ち人が乗るはずであろう路線の電車が到着する度、降車した人たちの中に彼の存在を探そうと体が揺れている事に気づいているものの、どうにも探さずにはいられず、人の波が切れるたびに肩を落とす。

1週間前、アパートの炬燵に入りながら、瑛から今日12月24日の予定を聞かれた時は、(もしかして)とニヤける口元を、何とも無いかのように半纏で隠すのが大変だった。

元々イベント事には無関心な彼がクリスマスイブの予定を聞いてきたのは、お付き合いを始めてからこの4年間、1度たりとも無かった。もちろん誕生日や記念日を忘れるという事ではなく、毎度お互いの欲しいものを事前に提出してプレゼントする、という流れが通例だった。

そんな現実主義でサプライズとは無縁の世界にいると思っていた彼が、

「クリスマスイブには外で食べないか」

なんて言い出すもんだから結婚適齢期の女性はもちろん期待するわけで。

「いいね〜」といつものテンションで返事をした。

私の声は恐らく、少し上ずっていただろう。

瑛と出逢ったのは残暑の厳しい9月も半ばの、丁度この時計塔の前だった。

都内の某大学の文系学科を卒業し、勤め先である印刷所に新卒入社して2年目の紗枝は、とても、疲れていた。

やっと印刷と配達が完了して、ヘロヘロになりながらも最寄駅まで舞い戻ってきたのだ(この時点で2徹&2日間ゼリー飲料1個のみだった)。

いくら若いと言っても流石に体は軋むし、寝不足で頭は痛いし、お腹は空腹を通り越して気持ち悪いし、一刻も早く家に帰ってベッドに倒れ込みたかった。

改札を出たところで足元が若干のふらつきを覚え、流石にやばいと思い、目の前の時計塔のしたにあるベンチにたどり着いた。

…そこまでの記憶はある。

出版関係の仕事は誰もが知る通りのハードワークで、発行頻度の高い雑誌担当になった場合には毎週出版社と入稿交渉し、デットライギリギリに入稿されてくる原稿を、それでもミスがないか最終チェックをしてから印刷にかけ、全国へ配送しなければならない。もちろんギリギリなることを見越して事前打ち合わせでは早めの納期スケジュールで伝えてあるし、ギリギリになっても対応ができるよう、印刷の準備やら配送の準備やら進めていくと、毎日残業続きになるのも無理はなかった。

それでも、この仕事は夢だったのだ。

子供の頃、兄が読んでいた週刊少年ジャンプを盗み見してからというものその沼にハマり、発行される毎週月曜日は、学校帰りに近くの書店に寄ってはなけなしのお小遣いをレジのおばちゃんに渡して、下校中にもかかわらず近くの川の土手にカバンを下ろし、早速ゲットしたお宝を夢中で読み耽った。こんなワクワク感を、いつか私も、と夢見たことが今日へ通づる所以の一つであることは間違いない。

その後、夢中になり過ぎて、読み終わった頃にはだいぶ日が沈んでおり、鬼の形相をした親に帰宅早々玄関で説教をくらったのは、また別の話だが。

目が覚めると、布団らしきところで寝ていた。

てっきりあれから自力で部屋に帰り、念願叶いベットに倒れ込んだのかと一瞬自分を褒めたが、どうも違うようだ。暗闇でよくわからないが、明らかにいつもの使っているディフューザーの石鹸の香りではない、別の香りがする。しかも自分の格好は触れたところによると、少しおかしい。実は中学生の頃にある漫画の主人公に憧れて以降、私は下着姿で寝るのがオーソドックスになっていた。それは社会人になっても変わらず、いくら酔っ払って帰っても、疲れて帰っても、必ず着ている物を全て脱いでからベットインしていた。だからこその違和感と、明らかに帰宅時に私が身につけていたものとは違う素材の衣類を身につけている事への相違感。しかも隣からなんだか規則正しい寝息が聞こえる。もちろん動物は飼っていない…。

隣から聞こえる寝息の正体と今の現状をどう理解すれば良いのかもわからず、とりあえず現実逃避策として目を瞑ることにした。

悪い予感は的中するものだ。

いや、結果的には悪くは無かったのだが。

次に目を覚ましたときには、隣にはもう寝息は聞こえなかった。

体を起こし辺りを見回すと、目の前の壁は一面本棚で、全ての段に本が埋まっており、床やデスクの上にも大量の本が積み上げられていた。家具は基本白か黒で統一されていて、自分が今座ってるベットと目の前の本棚、ベットの隣に置いてあるデスク以外、見当たるものが無かった。自分の着ているものを改めて確認すると、やはり見覚えのない黒いスウェットを身につけていた。慌ててスウェットの中も確認すると昨日来ていた下着とキャミソールが見えた。

…ベンチ以降の記憶をなんとか思い出そうと必死に脳を回転させようとするが、空腹で頭が回らない。

そういえば今何時だ?と、部屋の壁に時計を探そうとしたとき、この部屋にひとつしかないドアが開いた。

「あ、起きました?」

メガネをかけた短髪の若い、おそらく20歳前後の男の子が出てきた。

「…はい。…あの、どなたか存じ上げませんが、ありがとうございました。」

ベットの上で三つ指立ててお辞儀したのは、これが初めてである。

「大変恐縮なんですが、今は何時でしょうか?」

「9月24日日曜日朝の7時18分です。」

丁寧に分刻みで教えてくれた彼は、几帳面なひとだな。と純粋に思った。

「どうぞ、朝ごはんができていますので。食べ終わった後、気になっていらっしゃる質問にもお答えしますよ。」

あまりにも不安げな顔をしていたのだろう。私の顔を見て彼は笑ったそう言った。

その笑った顔があまりにも可愛かったのを覚えている。

ドアを抜けた先からお味噌汁の香りが鼻に届き、思わずよだれが出そうだった。

続き部屋にはキッチンとこたつ机に座布団が2つ。窓際には手のひらサイズのサボテンが朝日を浴びて青々しく鎮座していた。先に座った彼と向かい合うように置かれている座布団に座り、彼のタイミングに合わせて、手を合わせておなじみの食前挨拶を交わした。彼がお箸とお椀を持って食べ始めたのを見て、自分も先ほどから気になっていたお味噌汁から口をつけた。

「はー…おいしい」

ふと出た言葉に、

「お口にあったようでよかったです。」

と返事が帰ってきた。

ローテーブルの上には白米、お味噌汁、卵焼き、梅干し、ゴボウとニンジンのきんぴらがそれぞれ小鉢に入れられて並び順正しく置かれていた。

お膳の内容や箸の持ち方、お椀の持ち方、食器の使い方など、細やかなところから彼の性格が垣間見えた。おそらく、大切に育てられたのだろう。もちろん、良い意味で。

並んでいた器の全てがその役目を終えた頃、彼から話を切り出してくれた。

「それでは、まず何からお話ししましょうか。」

「えっ…と…、時系列順で、まずどちらでお会いしたのでしょうか?」

「あなたが力尽きた時計塔下のベンチです。」

「私は…何か、その、粗相を…?」

「いえ、僕から声をかけたんです。あまりにも体調が悪そうだったので」

「それは…ありがとうございました。」

「いえいえ。その後、声をかけても応答されず、寝息を立てていらっしゃったんで、迷ったのですが、僕の部屋までお連れしたんです。お住まいはもちろん、存じ上げませんし、お酒の匂いもしなかったので、酔っ払いっていう訳でもなさそうでしたし。その後は妹を呼んで、着替えだったりを手伝ってもらって、お疲れの様子だったので、目が覚めるまで待っていようと思い、本を読み始めたら自分も寝てしまって。結局朝になってしまったわけです。」

なんと優しい方なのか。と、素直に思えない自分の心に少し罪悪感を覚えたが、単純に言葉を鵜呑みにできるほど常識を知らないわけでも、都会の危なさを知らない訳でも無かった。

ので、少しカマをかけることにした。

「本当に、お世話になりました。このご恩は必ず。」

「いえいえ、僕が勝手にしたことなので、気になさらず。」

「ここは、駅の近くですか?」

「はい。ここから歩いて10分です。」

「そうだったんですね。少し見覚えがある景色な気がしたので。」

彼の眉が少しピクリと動いた。

もう少し踏み込むか、と次の疑問文を考えていたら、あちらから答えてくれた。

「すいません。」

「え?」

「実は僕、あなたのことを以前から知っていました。」

「…どういうことですか?」

やはりストーカーか何かの類か…?

と構えたがしかし、彼はおもむろにタンスの中から何かを取り出した。

取り出されたその服を見たその瞬間。

思い出した。

「私もあなたのこと、知ってます!!」

彼はまた、あの可愛い笑顔を見せてくれた。

彼の見せてくれた服のは青と白のストライプのシャツだった。

よく仕事帰りによるコンビニで見る、あの。

「いつも疲れた顔で栄養ドリンクやゼリー飲料ばかり買っていくので、覚えていたんです。」

一尺置いて、

「いえ、ちょっと違いました。気になってたんです。あなたのこと。最初は、いつも疲れた顔で来店される方だな、と思っていたんですけれど、ある日、駅前の書店であなたをお見かけして。その時、あまりにも目を輝かせて一冊のハードカバーを大切そうに抱えてレジに向かっていくのを見かけて。その時の笑顔があまりにも素敵で。」

「いつですか。」

「今年の5月頭くらいです。」

ちょうど気になってた作家さんの新作が発売された頃だ。高校の頃、大学生小説家としてデビューした作家さんの本に魅了されて読み始めたのがきっかけで、5月に出たのは1年半待ちに待ったシリーズ4作目の新刊だ。

しかし、本を抱えてレジに並ぶ女性など、本屋で目につくものだろうか?それがたとえ、あまりの嬉しさに破顔していたとしても。

その疑問も、すぐに解消された。

今世紀最大の衝撃とともに。

「名乗り遅れました。僕、相模 瑛と申します。」

どこかで聞いたことがある名前だな、ん、え、あれ。

「え?あの本の?!作家の?!?!」

思わず大きな声が出てしまった。

彼が照れた顔で見せた3度目のあの笑顔を、私はすでに大好きになっていた。

これが彼、瑛との出会いだった。

(あれは衝撃的だったなー。年齢も含めて。)

顔に似合わず5つも年上の彼とはその後、順調に交際へ発展し、知らぬ間にお世話になっていた同い年の妹さんとも、カフェやショッピングに行く仲になった。後で聞いた話だが、彼が女の人を実家やアパートに連れてきたのは歴代の彼女も含めても、初めての事だったらしい。基本、自分のテリトリーに人を入れるのに、抵抗がある人なんだろう。そう考えると、あの時私を自分のベットで寝かせてくれたのは、超レアだったんだな。

なんて童顔年上の彼との出会いを振り返っていると、やっと待ちに待った連絡がきた。

【ごめん打ち合わせが長引いた今電車乗ったから後8分待って】

作家なんだから句読点くらい打ちなさいな、と心の中でツッコミを入れつつ、今日の打ち合わせが私の大好きなあのシリーズの映画化についてなんだから、何時間待たされようと文句は1つも出てこなかった。

あと7分とちょっと。

あの改札を出てきた彼はきっと、私の大好きなあの笑顔で私のところまで来てくれる。

そのコートのポケットに、1ヶ月前に妹さんと買いに行ったであろう有名ブランドの13号の指輪が入った箱を携えて。

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