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04 セットデザイナーになる方法


「近松心中物語」を観て衝撃を受けた僕は蜷川さんの本を片っ端から読みまくった。本の中で蜷川さんが描いた舞台セットのラフスケッチを見よう見まねで立体スケッチに起こしたり、蜷川さんが演出した作品の戯曲を読んだりして日々を過ごしていた。
 ある時、蜷川さんが僕の家の近所に住んでいることを知った。「ふーむ。。」 早速探検に出かけ(懲りないアホ)蜷川邸を探し当てた。持参してきた手紙をポストにねじ込む。連絡を待つが一向に音沙汰なし。数日後もう一回手紙をポストにねじ込む。待てど暮らせど音沙汰なし。そりゃそうだ。今の僕はただの「セットデザイナーを目指している人」。何ができるわけでも何を知っているわけでもない。悔しがそういう事だ。 3度目。これが最後。「僕はまだ何者でもないですが、これから死に物狂いでセットデザインの勉強をします。いつか一人前のセットデザイナーになった時会ってください。」と記した手紙をポストにねじ込んで蜷川邸を離れた。
どうやったらセットデザイナーになれるのだろう?どこで勉強すれば良いのだろう?とにかく舞台を見るしかない。チケットを買い劇場へ足を運ぶ。特にTPT(Theater Project Tokyo)主催で森下のベニサンピットで行われる演目に強く惹かれた。舞台を見て思い出しながら舞台セットをスケッチする。どんなところに感動したのか?素材は?光のあたり方は? 時々朝倉アトリエへ行き膨大に積み上がった本を読み漁る。シェイクスピア、歌舞伎、ピーターブルック、チエホフ、唐十郎。戯曲を読み手探りでセットプランを考えてみる。「手探り」というジレンマが常に付きまとう中でどうにか5つのセットプランを手書きで描いて朝倉先生に見せた。先生は僕に「アイデアは面白い。でもこれじゃあ仕事にならないんだよ」と。先生の言わんとする事はわかった。セットデザインの知識と技術が圧倒的に足りないのだ。もうこれは実際に経験する以外は方法はない。僕は先生に食い下がった。「なんとか現場に入る道はないですか?」  ちょうどその頃足立区の北千住に「シアター1010(せんじゅ)」という劇場ができたばかりで朝倉先生はそこの初代芸術監督だった。当時シアター1010はイギリスやドイツの劇場のように劇場内で大道具や衣装を作り、海外からの演出家を招き自主作品を立ち上げるという日本では限られた劇場しかやっていない事に挑戦していた。「なんとかこの劇場で働かせてほしい!」と先生に懇願した。先生は「この人に手紙を書きなさい」と、ある方の連絡先を教えてくれた。この人が僕の2番目の師匠になる松野潤氏であった。松野氏は舞台セットデザイナーで、朝倉先生の1番弟子でもあり息子のような存在だった。早速手紙を送り、会ってもらえる事になった。
シアター1010での面接の際、松野さんは「舞台のセットデザイナーで食べていくのは至難の業。しかも劇場の仕事は舞台セットデザインの仕事ではないのでやめた方がいい」と言われた。僕は「なんとしても現場に入りたいので劇場で働かせてほしい」とお願いした。松野さんはため息をつきながら僕を採用してくれた。やる気があるなら劇場の仕事とは別でセットデザインの仕事の手伝いもするか?と聞かれたので即答した。
シアター1010での仕事が始まった。初めて見る舞台作り。何もないステージに次々と色々な舞台が立ち上がる。ニューヨークのアパートが出現したかと思えば、江戸時代の街並みが立ち上がる。照明が入り役者が立ち時間が流れ始める。僕はすっかり舞台の世界に惹きつけられていた。 「立て込み」と呼ばれるセットを組み上げる日がある。何人もの大道具さんが道具を腰につけてどんどん立ち上げていく。僕は劇場側の人間なので直接手を出すことができない。であれば見るしかない。どんなふうにセットを組み立てどんな素材を使って表現するのか。どんな作業工程を踏み、どんなふうに照明を仕込むのか。退館になって皆が帰った実際のセットを見て触りながらスケッチをした。 劇場へ来るセットデザイナーの人に頼んで「道具張」と言われる図面をコピーさせてもらい舞台袖で勉強した。 僕は主に操作盤という劇場のバトンをアップダウンする機械の操作を担当していた。なので稽古中や本番中はずっと袖にいなければならない。つまり常に横か裏からしかセットを見ることができない。どうしても前から見たい。照明が入るとどんなふうに見えるのか?セットチェンジはどんな流れで見えるのか? 僕は隙を見ては抜け出して客席からセットを眺め、またすぐ戻るということを繰り返していた。ある日上司に見つかり「お前は裏方なんだから裏から見るのが仕事だ!」と怒られた。わかっちゃいます。でも欲求には勝てず抜け出し続けたけど。。w
 そんな感じで昼は劇場で仕事。休憩時間や仕事が終わった後はセットデザインの勉強という日々を繰り返していた。 
いきなりだが、人には誰かしら自分にとってのアイドルというか推しというか、そんな人がいるものだ。届かぬ恋心を抱いてしまう相手。どうしようもなく好きな人。 そんな人が僕にもいた。そしてついに劇場でそのアイドルと遭遇する事になるのである。
 NY在学中、その頃僕は本気でハンスベルメールや四谷シモンのような人形師を目指していた。ある日デンマーク人の友達から一冊の本を見せられる。「寺山修司の仮面画報」。寺山修司率いる天井桟敷の本だった。そこに載ってる数々の機械やイラスト。めちゃくちゃ痺れた。そこで初めて日本のアングラ演劇の存在を知った。(四谷シモンも唐十郎率いる状況劇場の劇団員だったという事もこの世界に入ってから知った) 
 そんな学生時代に衝撃を受けた天井桟敷が「奴婢訓」でシアター1010に来た。えっ!ということは、、、??まさか。 
 キター!!黒帽子に丸メガネと髭。僕の永遠のアイドル、小竹信節教授でございます。アーティストであり天井桟敷のセットデザイナー、アートディレクター。学生時代に見たあの本に載っていた数々の機械やイラストは全て教授の作品だ。
仕込みが始まり、壁に黒パネルを立てかけ教授が何やら描き始めた。下書きもなく白の塗料だけ使ってパネルに直接描いていく。みるみるうちに空中を羽ばたく機械仕掛けのカラスが現れた。僕は袖幕の影に隠れ顔半分だけ出して教授の作業を見る。もう目が❤️。バクバク。話しかければって?いやいや。いいんです。推しは見守るだけでいいんです。 教授が何やら運んできた。なんと!”折檻機”ではないですかー!隣には”聖主人のための機械”が。もう我慢できましぇん。たまらず近づいて教授に話しかける。教授は嬉しそうに機械の説明をしてくれた。「ここでこうやってこの錘をつけて。。。」 カシャーンカシャーン。なんとも言えない音を響かせて歯車が回り出した。 えー!!!オートマタ(自動人形)なのっ!!?? 教授。あなたは天才です。もうすっかり恋心で❤️が飛びまくってます。ふいに「小竹!お前はこっち来て手伝え!」と怒号が。劇団員のサルバドール・タリ氏だ。教授は作業を止めて行ってしまった。「だまれ!タリ!(オネエ風)」。 
教授が離れた後も機械は静かに動き続けていた。
  今年2月。小竹教授は逝去された。72歳。まだ若かった。残念で仕方がない。でも僕の中で教授の歯車は今もずーっと動き続けている。

                             

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