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「地の時代」ブリタニアのローマ街道①起点になったケントの港

前回の記事では、現在のロンドンの原型でローマ帝国の入植地だったロンディニウムについて書きました。
有料記事ですが、無料部分だけでもお読みくださると嬉しいです。

この記事では、ブリテン島におけるローマ街道について少しだけ書いていきます。少しだけの予定ですが、内容はマニアックですので、良かったらお付き合いください。


ローマ街道のはじまり

ローマ街道の歴史は、紀元前312年に共和政ローマ時代のケンソル(古代ローマの高位政務官職)アッピウス・クラウディウス・カエクスの要請により敷設されたアッピア街道(Via Appia)に始まります。

アッピア街道の道筋(白線)

アッピア街道は、ローマと南東部のブリンディジを結ぶ軍用道路として建設されました。
当初のルートはローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門カラカラ浴場付近)を起点とし、紀元前244年にはタレントゥム(現在のターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長されました。


時代背景としては、領土拡大のためイタリア統一戦争が行われており、その過程で南イタリアのサムニウム人に対する征服(サムニウム戦争)の最中でした。ローマ軍を迅速に南下させるための道路建設でした。 

サムニウム人はサビニ人の分派として生まれたオスク語を話す人々で、4つの部族からなる連合を形成していた。第二次ポエニ戦争(紀元前219年から紀元前201年)ではハンニバルと戦った。

濃い緑の地域にサムニウム人は住んでいました。


イエスの磔刑を命じたポンテオ・ピラトがサムニウム人でした。
サムニウム人もなかなか興味深いのですが、今回はスルーします。


アッピア街道は、敷石には頑丈なウェスウィウス山の火山岩が用いられたそうです。道路は水はけをよくするためキャンバー状(※カント)になっており、両脇に側溝があり擁壁で保護されています。

※カント
土木工学では、カントはクロススロープまたはキャンバーと呼ばれることがよくある。道路の中央を端よりも高くし、道路脇に雨水が流れるようにする。

しかし、このような道路の構造は全ての区間で実現されていたわけではなく、市街地を出れば砂利道となっているところも多くありました。

アッピア街道の1マイル標石


街道には1ローマ・マイル毎に、円筒形の「マイルストーン」が設置され、道路の起点からの距離や、道路を建設・補修した執政官の名前などが刻まれていました。


戦争で領土を拡大するにつれてローマ街道も延長されていき、最終的にはイタリア半島のみならず、ガリアやブリタンニア、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなどローマの属州にも敷設されました。
一般市民も通行することが出来たため、物流などの経済面でも大きな影響がありました。


ブリテン島のローマ街道

ブリタンニア属州のローマ街道は、西暦43年から410年の間にローマ軍によって建設されました。
街道の主な機能は、軍隊や軍事物資の迅速な移動を可能にすることでしたが、商業、貿易、物資の輸送に不可欠なインフラを提供しました。

ローマ時代のブリテン島の総人口は50万人から150万人と諸説あり、正確な数はわかっていないとのことです。

西暦43年の征服からすぐに街道の建設が始まり、幹線道路は砂利道や舗装道路で舗装され、石や木で橋が架けられ、旅行者や軍隊が立ち止まって休むことができる有人の中継点、現代で言う「道の駅」のようなマンシオが作られました。

マンシオ(大邸宅)は、郵便局、市民センター、ホテルを兼ねた施設。

アントニヌスの旅程」と呼ばれる、ローマ皇帝ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・ピウス(Titus Aelius Hadrianus Antoninus Pius、在位138年 – 161年)の名前がついたロードマップがありまして、ローマ街道沿いのステーションと距離が記されています。

作者は不明ですが、公文書に基づいているようで大変貴重な歴史的記録ということです。

アントニヌス・ピウス帝は、「アントニヌスの長城」を建設した皇帝ですが、皇帝自身はイタリアを出ることはなかったそうです。
23年の治世の間、大きな戦争が起きなかったため「最良の君主(オプティムス・プリンケプス)」と呼ばれました。

アントニヌスの旅程

最古のローマ街道は、初代総督アウルス・プラウティウス率いる軍隊がブリテン島に上陸した際のケントの東海岸の3つの港とロンディニウムを結ぶものでした。

ローマ人は、ブリテン島で確認されているものだけでも約500か所のヴィラ(別荘地)、100か所の町を建設したそうです。それらを結ぶ総延長5000マイルを超える道路網や、カーダイク(人工水路)も建設しました。

カーダイクは、湿地(ブリテン島東部はフェンズ(Fenlands)と呼ばれる湿地帯が多い)の排水によって洪水を制御しただけでなく、輸送のための運河としても使用されていました。

カーダイク

リンカシャー州バストンに残るカーダイクは、北側は航行可能な幅が40フィート (12 m)、深さが6.5フィート (2 m) 、南側は深さはほぼ同じで、幅が約66フィート (20 m) と幾分が広かったことがわかったそうです。

5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まり、ローマ帝国自体が危機にさらされたため、409年にホノリウス帝はブリタニンアの支配を放棄しました。
410年に軍隊が大陸に引き上げ、418年には残っていた多くのローマ人がブリテン島を離れました。
このあとしばらくの間、文字による記録が行われなかったようで、アングロサクソン人による国が出来るまでの資料が残っていないそうです。



ケント州the county of Kent

ここからは、ブリテン島最古のローマ街道の起点となったケントについて書いていきたいと思います。

ケントは、ロンドンの南東にあり、北はテムズ川河口と北海、南はドーバー海峡とイギリス海峡に接しています。フランスとは海峡を挟んで34km(21マイル)です。

ケント州の位置
フランスから見たドーバーの白い崖

イングランドで5番目に人口が多く、農業が盛んで広大な果樹園とホップ園があるために「イングランドの庭」とも言われますが、近年は製紙業(ケント紙)とセメント、石炭の3つが重要な産業になっています。

ケントという名前は、いにしえのケント王国から来ており、「角地」または「端の土地」意味するCantusに由来しているそうです。

ケント王国Kingdom of Kentは、イングランドに存在したヘプターキー(七王国)を構成する王国の一つ。
455年にヘンギストによって建国され、ユトランド半島から移住してきたジュート人(ユダヤ人)の王国になった。

ジュリアス・シーザーはカンティアムCantiumと呼んでいたそうです。ローマ以前のケント州はカンティアチ族の居住地でした。

部族別の居住地

カトゥヴェラウニ族の王クノベリヌスは、カンティアチの領土に影響力を拡大しました。そのあたりの経緯は下の記事に書きました。

ケント州の紋章

ケントの白い馬については、ほかの記事にも書いた気がするんですが、跳ねる白馬の姿は、ケントのモットーであるインビクタとも呼ばれています。

※インビクタは、ラテン語で、無敵、無敗、征服されていないことを意味します。
たとえばRoma invictaはラテン語で「征服されていないローマ」を意味し、ローマで信仰されたソル・インビクタは「征服されていない太陽」という意味です。

ケントの白馬は、6世紀から8世紀にかけてのケント王国のシンボルでした。
ヘンギストの兄弟ホルサHorsaの紋章だったと言われています。
ちょっとややこしい話なので割愛しますが、ドイツのニーダーザクセン州、オランダのトゥエンテ地方、ドイツ貴族のヴェルフ家の紋章にも白い馬が用いられています。

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余談ですが、フリーメイソンの装束の英王室のケント公爵(88歳)の御姿。
英王室のメンバーはほとんどフリーメイソンです。

エリザベス女王の従弟のケント公爵は、ユナイテッド グランド ロッジ (UGLE) の現在のグランド マスター。
少年時代から50年以上もの間、女王の代理としての役割を果たし、 日本へもたびたび訪問、皇居で天皇・皇后と会見されています。


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話を戻して・・・

サクソンショアの建設

3世紀後半から4世紀にかけて、ブリテン島はフランク人、サクソン人によって繰り返し襲撃されました。
ローマは、大陸側(ガリア)とブリテン島の海岸線にサクソン海岸砦(サクションショア)を建設し、ケントの海岸にも複数の要塞を建設しました。

サクソン・ショア・システムの要塞と軍事司令部の場所

この時期に公式のローマ軍を補うために、ガリア北部出身のゲルマン語を話す傭兵(foederati)が雇われ、ブリテン島に渡っています。
彼らはローマ領土の土地を報酬として与えられて居住し、ブリテン人と結婚して同化していきました。
ローマ・ブリタニア時代の遺跡や発掘された品々に、ガリアの文化要素(イシス崇拝など)が見られるのはそのためでしょう。

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ローマ人がブリテン島を征服して、すぐに建設したと言われているのがケントの要塞都市です。

ケントの海岸線は、地殻変動と海岸浸食により絶えず変化しているため、ローマ時代の港や河口の位置が変わっています。

◆リッチバラRichborough

リッチバラは現在は海から少し離れてしまいましたが、ワンサム海峡の南端にある天然の港でした。

ワンサム海峡は、イギリス海峡とテムズ川河口をつなぐ海峡でしたが、中世から沈泥が進み海が後退しました。
8世紀頃の海峡の幅は600mだったそうですが、中央のサネット島は現在はケント本土と陸続き状態になっているそうです。

サネット島の名前は、一般的にブルトン語で「火」または「明るい島」を意味すると考えられているそうです。
サネット島は、ヘンギストとホルサが上陸した場所であり、ブリトン人の王ヴォーティガンが彼らジュート人(ユダヤ人)に与えた場所でした。

リッチバラには西暦43年のローマ軍だけでなく、449年にはヘンギストとホルサ率いる部族、597年にカンタベリーのアウグスティヌスもカトリックの布教のためにローマからやってきています。

リッチバラにはローマ人が造った要塞跡が残っています。

フォートサウスウォール


ここにはルトゥピアエRutupiae、またはPortus Rituvisと呼ばれたローマ人の集落があったそうです。
町が最も繁栄したのは2世紀で、海岸沿いに21ヘクタールの面積があり、マンシオと神殿、円形劇場が造られていました。

マンシオ跡

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◆レカルバーReculver

レカルバー(リカルバー)は、ケントの北海岸にあるハーン湾の東にあるリゾート地です。

ローマ人は43年に小さな砦を建設し、2世紀後半からレグルビウムと呼ばれる砦、カストルム(軍事キャンプ)に拡大しました。370年代にこの地は放棄されたそうですが、理由はわかっていないそうです。

こちらはリッチバラとは逆で、海に浸食されてしまっています。
残っている建物は、セント・メアリー教会の正面部分だけです。

セントメアリー教会は、669年頃に建設されたカトリック教会でした。

北東から見た1755年のセントメアリー教会
現在

海の浸食が激しくなり、17世紀には住民が去って行き廃墟となったそうですが、1809年に取り壊されました。

十字架と三重アーチの一部であった2本の石柱の破片はカンタベリー大聖堂に展示されているそうです。
取り壊された2,000トンの石は売却され、1815年にマーゲイトの港の壁に組み込まれました。また、40トン以上の鉛が教会から取り除かれて売られたとのこと。

元のレグルビウムの敷地
残っている教会の壁

教会の壁にところどころ含まれている赤いレンガは、ローマ砦を壊した破片を集めたそうです。
教会の廃墟、およびローマの砦跡は、現在イングリッシュヘリテージが管理下し、レカルバー周辺の防波堤は環境庁によって維持されています。

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◆ポルトゥス・レマニスPortus Lemanis

ポルトゥス・レマニス(Portus Lemanis)は、レマナエ(Lemanae)とも呼ばれていました。現在の町の名前は、リンプネLympneというそうです。

城壁は270年頃に建設されたそうですが、地滑りと風化がひどく所々に残るのみです。またローマの要塞にしては珍しく、四角形ではない(不規則な五角形の形をしていた)敷地でした。

当時は海岸線沿いだったのが、海が後退し内陸になっています。
現在は私有地のため入れないので、遠くから見るしかできないそうです。

遠くに海が見えます。
1850年のローマ浴場の発掘

おそらくポルトゥスは、ドーバー(デュブリス)と合わせて最も重要なローマ海軍の基地で、要塞のレンガの大部分にローマ海峡艦隊クラッシス・ブリタニカ(Classis Britannica)のイニシャルCL[assis] BR[itannica]が刻まれていたそうです。


リンプネ城

ポルトゥス・レマニス砦の近くにある、1080年に建てられたというリンプネ城(ストゥットフォール城とも呼ばれる)では、ポール・マッカートニーやクィーンのアルバムが録音されました。

城には宿泊施設やレストランが入っており、2023年からは結婚式場とイベント会場としても公開されているそうです。


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◆ヨーロッパ大陸に最も近いドーバー

ドーバーと言う地名は、ドゥール川にちなんでいるそうですが、ローマ時代の名前はポルトゥス・デュブリスPortus Dubrisで、リッチバラのローマの砦ルトゥピアエとともに、後にワトリングストリートとして知られる道路の起点になりました。

ワトリング街道は、ブリタニア時代にローマ人が建設した四大街道の一つ。
ロンドンよりセントオールバンズを経てロクシターおよびチェスターにいたる道路。このほかにフオス街道、イクニード街道、アーミン街道がある。

ワトリングストリートは、ケント州の3カ所(紫の丸印)が起点になっています。
赤いラインがワトリングストリート


西暦60年頃のイケニ族の女王ブーディカが率いる反乱軍と、ローマ軍団と戦いはワトリング街道周辺で起きました。ワトリング街道の戦い


ローマ人は、46~50 年ごろに、現在のドーバー城の場所に八角形の灯台を築きました。

12世紀に建設されたドーバー城は、イギリス最大規模のお城と言われています。英王室のウィンザー城よりも大きいそうです。
それにしもイカツイお城ですね。

ドーバー城

ローマの灯台は、600年頃に建設されたセント・メアリー・オブ・カストロ(「城の下の聖マリア」の意味)教会の鐘楼に改築されました。

ここでもローマ特有の赤レンガが見られます。


◆ツイン灯台

ドーバー海峡をはさんで、ブローニュ・シュル・メールというフランスの町があります。ここは、ローマとブリタンニアの流通の主要な港町でした。
フランス語のブローニュは、ケルト語で「設立、居住、城」などを意味する"bona"の派生語で、イタリアのボローニャも同じ派生語に由来します。

ローマ海軍の基地

ローマの要塞は、ゲソリアクムGesoriacumと呼ばれました。

カリギュラ帝が西暦40年にブリテン島に侵攻しようとして(結局中止しましたが)、39年にトゥール・ドルドル(Tour d'Ordre)に灯台を建設しました。
こちらの灯台は1644年に海岸侵食により崩壊してしまったそうですが、ドーバーの灯台からも見えたでしょう。

ある意味ツインタワーだったわけですね。

トゥール・ドルドル(Tour d'Ordre)の灯台


ポルトゥス・デュブリスの基地の外にあったはずの住居や浴場跡などは残っていないようですが、Dover Roman Painted Houseという資料館に西暦200年頃のローマ人の生活スタイルが再現展示されています。

大きな邸宅の一部か、あるいはマンシオ(ゲストハウス)だったと考えられています。5つの部屋の壁にはローマの神バッカスが描かれた壁画があり、床暖房システムがありました。

床の丸い部分に床暖房システムが設置されていた
ローマの家の壁




ロチェスターとカンタベリー

ケント州の州都は、メードストン(ロンドンウォールの石を調達したところ)ですが、メードストーンよりも2つの市カンタベリーロチェスターのほうが聞いたことがあるかもしれません。

◆ロチェスター

ケント州を流れるメドウェイ川は、テムズ川との合流し、その合流点にあるロチェスターは戦略的に非常に重要な場所でした。

西暦43年のクラウディウス帝の侵攻では、ロチェスター近郊のメドウェイで決戦が繰り広げられましたが、当時は橋がかかっていなかったのでローマ軍の兵士は潜水して川を渡ったそうです。

メドウェイ川

その後、ローマ人が橋を造らないはずはないと思ったら、やはりロチェスター橋を造っていました。おそらく最初は木の橋だったと思いますが、メドウェイ川で初めて架けられた橋だったそうです。
街道と同じように、橋も進軍する軍隊に物資を供給するために必須ですね。

ロチェスターの古い名前ドゥロブリバエDurobrivaeの由来は、「橋」または「要塞」「砦」と訳すことができるそうです。
ローマ人の要塞跡が残っているのかわからないですが、ローマ時代後期に町は城壁で囲まれていたとのこと。海や川(運河)に面して町を造り、城壁で囲むのはローマスタイルですから、ローマ人が居住した可能性は高いです。

ロチェスター城

ロチェスター城は1087年から1089年に建設が始まって、完成は1127年でした。ドーバー城と同じようにゴツイ要塞城ですね。
1066年のノルマンコンクエスト(1066年 - 1071年)の余波で建設されたそうです。

ノルマンコンクエストは、エドワード懺悔王が後継者を指名せずに死去したため、王位継承争いになったのがきっかけです。
結局ノルマンディー公ギョーム2世(ウィリアウム1世)が、ヘイスティングズの戦いで勝利し、1066年のクリスマスにイギリス王として即位してノルマン朝を開きました。

ロチェスター大聖堂

ロチェスター大聖堂は、西暦604年に設立されました。正式名称は、カテドラル・チャーチ・オブ・クライスト・アンド・ザ・セント・ヴァージン・メアリー(キリストと聖母マリアの大聖堂教会)。
カンタベリー大主教に次いで、イングランドで2番目に古いロチェスター主教の本拠地(カテドラ)です。

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◆カンタベリー

カンタベリーはロンドンから車で約2時間。日帰り圏内です。

ローマ人の入植地を古代ブリテン語でドゥロベルナムDurou̯ernon (ハンノキの林にある要塞)と言っていたのが、亜ローマ時代に古ウェールズ語でケア・セイント Cair Ceint(ケントの要塞)となり、5世紀後半ジュート人によって占領されてカントワレバーCantwareburh(ケント人の要塞)に変化して、現在の名前カンタベリーになったそうです。

カンタベリー市の紋章(作者ModWilson)


597年に第64代ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年-604年)に遣わされた聖アウグスティヌスが最初に布教したのがカンタベリーでした。
2023年5月のチャールズ3世の戴冠式では、聖アウグスティヌスの聖書が使用されていました。

聖アウグスティヌスの聖書


西暦43年の征服後まもなく、ローマ人がこの集落を占領し、ドゥロベルヌム カンティアコルム(Durovernum Cantiacorum) と名付けました。
ラテン語で「カンティアチの Durovernum(ハンの木の林にある要塞)」という意味の名前になります。

ドゥロベルヌムの平面図
ローマ時代のカンタベリーの再現図

ローマ人がブリテン島を去った後、ドゥロヴェルヌム カンティアコルムは約100年放置され、徐々に朽ちていったそうです。

ローマ人の遺跡は残っていませんが、3 世紀後半にサクソン人の攻撃から防護するため造られた城壁には 7 つの門があったそうです。
ローマスタイルの格子状の道路、劇場、寺院、フォーラム、公衆浴場があったそうですから、結構栄えていたようですね。

紀元 3 世紀にローマ人によって最初に建てられた乗馬門
ローマの城壁の名残りと言われているカンタベリー市壁


カンタベリーローマ博物館には、ローマ時代の工芸品のほか、ローマ時代のタウンハウスを再現展示されています。

モザイクの床


また、カンタベリー大聖堂聖オーガスティン修道院跡とともにユネスコの世界遺産に登録されている聖マーティン教会の外壁に、ローマのレンガやスポリアが使用されています。

聖マーティン教会は、ローマ人が去った後の亜ローマ時代に、廃墟化した城壁を使って建築された教会のようです。

間違いなくローマの城壁を使っています。


聖マーティン教会については以下の記事に少し書きましたので、有料ですがよかったらご覧ください。

6世紀以降、カンタベリーでは陶器、織物、皮革の取引が発展し、カンタベリー造幣局で金貨が鋳造されるようになりました。


現在は廃墟になっていますが、ノルマン・コンクエスト以降にケントで3番目に造られたカンタベリー城があります。(他の 2 つは上述のロチェスター城とドーバー城)
カンタベリー城は、はじめはモット・アンド・ベーリーという形式の石の砦だったそうです。

Motte(モット)は、フランス方言のラテン語 mota から来た言葉で、最初は芝という意味であったが、芝の土塁を指すようになり、12世紀頃には城の設計を指すようになった。
bailey(ベーリー)は、「低い庭」を意味するノルマン語の baille または basse-cour から来ている。
中世の資料によると、これらのベーリーと城の複合体を指す語として、ラテン語の castellum が使用されていた。Castellum は、英語の castle (城)の元になった語である。

カンタベリー城
カンタベリー城の外壁にもローマ時代のレンガが再利用されているらしい

このお城の再建計画が持ち上がっているそうですが、莫大な資金がかかるでしょうね。

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さて、また長くなってしまいました。
ケントはイギリスの歴史でもかなり重要な場所でして、ご紹介したいことがたくさんありますが今日はこのへんで終わります。
ワトリングストリートについては、また機会を見て書きたいと思います。
最後までご覧くださりありがとうございました。ではまた。

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