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地の時代*ローマ帝国*3世紀危機から専制君主制へ

紀元前736年、「火の時代」に都市国家として始まったローマは、イエス・キリストの死後(西暦33年頃)、一巡して再び「火の時代」に入りました。
第2代ローマ皇帝ティベリウス(在位14年 - 37年)による統治の終盤の頃です。

初代ローマ皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27年 - 紀元14年)の即位により、ローマは共和政から帝政に移行していましたが、当初は共和政的要素を残した元首政でした。

元首政
共和政を基盤として残した上に、皇帝が君主として統治する政治体制のこと。3世紀末まで続いたが、ディオクレティアヌス帝の時に専制君主政に移行する。

そしてさらに約200年後の3世紀、ローマ帝国では、内外を問わぬ様々な要因により大規模な動乱が起きていました。
とくに235年から284年の50年間は、後世に「3世紀危機」と呼ばれました。

占星術では、ざっくり3世紀と4世紀は「地の時代」が当てはまります。



混乱の始まり

何が起きていたかというと、無数の皇帝が乱立したほか、ゲルマン民族による国境侵犯も頻発し、国土は分裂または失われるなど、混乱に揺さぶられ続けていました。
またアントニヌス勅令により中央の財政が悪化し、外敵の侵入に対応するため属州兵を現地徴募に切り替えた結果、属州への締め付けが効かなくなるという悪循環が止まらない時代でした。

アントニヌス勅令は、ローマ帝国のカラカラ帝によって発布された勅令。
この政令により、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられた(奴隷と降伏者(dediticii))は除外された)。
従来市民権所有者のみに認められていた選挙権や属州民税(資産の10%を納める)の免除などの特権ももれなく付与された。
ローマ市民権の拡大をはかったものであるが、同時に相続税の増収を図るという狙いもあった。

アクイラ(鷲)をあしらったローマの装飾品(西暦 100 ~ 200 年)

アントニヌス勅令の真の狙いは、帝国内のすべての自由人をローマ帝国の「国民」として支配するためであったと見られています。
市民権を与えることによって、ローマの神の前に等しく平等な国民となり、一致して皇帝の宗教的権威に従わせるという意図があったそうです。

この勅令は帝国内の全自由人にローマ市民権を与え帝国支配の構造に大転換をもたらしたものとして重要であるが、ローマ市民権付与というこの措置をとる理由として次のように述べられている。
「自分は神々によって非常な危機から救われたので、その感謝のしるしとして、帝国内のすべての人々を神の祭壇に導くために、すべての人にローマ市民権を与える」と。
これは帝位の安全を神々の祭祀に求める宗教的イデオロギーの表明である。皇帝としては、国民が全部一致して神々に供儀するように強制したい、そのためにローマ市民権を付与する、というのである。
<弓削達『地中海世界』新書西洋史② 1973 講談社現代新書>

軍人皇帝の乱立

2世紀の終わりに成立したセウェルス朝(193年 - 235年)が、235年にクーデターによって崩壊すると、軍人皇帝が乱立するようになりました。
元老院の承認を受けた正式な皇帝は、前半の33年間(235年-268年)で14人擁立され、全期間では僭称も含め40人を超える皇帝が即位したそうです。

彼らは軍隊の力によって擁立されたので、軍隊の意に反すると容易に退位させられました。その半分は暗殺の憂き目に遭い、皇帝の権威が失墜した不安定な時期でした。

軍人皇帝が擁立された背景には、サーサーン朝ペルシアとの抗争、北からはゲルマン人の侵入が頻繁に起きるなどで、軍隊の発言力が強まっていたことがあげられます。
またローマ帝国の軍事力の実態は、ゲルマン人傭兵に依存していました。

ゲルマン人の勢力圏の変遷とローマ帝国

2世紀後半、寒冷化による食糧生産性の低下や、人口増大による住環境の悪化などで、ゲルマン人の国境侵犯が激増しました。
侵入は、ガリアトラキアなどといった北方国境のほぼ全域で起こり、最強と言われたローマ軍も正規の軍隊では手が足りないほどでした。

251年のゴート族とのアブリットゥスの戦いでは皇帝デキウス(在位249年 - 251年)と、息子で共同皇帝のヘレンニウス・エトルスクスが戦死し、260年のサーサーン朝とのエデッサの戦いでは皇帝ウァレリアヌスが捕虜になるなど、ローマ帝国の国力低下を示しました。

しかし268年(または269年)のナイススの戦いではローマ軍が圧勝し、以後はゲルマン人の侵入は減少しました。


余談ですが、デキウス帝はキリスト教徒の迫害で有名ですね。デキウスの迫害

キリスト教に対し、ローマ帝国は他の宗教と同じように寛容であり、はじめはそれ自体を禁止することはなかった。
しかし、キリスト教徒がローマ法を守らない(ローマの神々への供え物を拒否するなど)場合は罰せられた。
また庶民の間にも、キリスト教徒は「人肉食をしている」などの誤解(聖餐式というキリストの血と肉を象徴するブドウ酒とパンを信者が食べる儀式が誤解された)されたり、奴隷も同じ信者として同席して会合していることを社会秩序を乱すことと恐れられたりするようになり、危険な宗教とみられるようになった。

国土の分裂(ガリアとパルミラ)

皇帝の乱立は、国土の分裂ももたらました。
260年には、属州総督だったガリア出身のマルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムス(在位260年 - 269年)が僭称皇帝となり、「ガリア帝国」が成立しました。

260年頃のローマ世界(ガリア帝国は緑部分、黄はパルミラ帝国

その時のローマ皇帝には、エデッサの戦いでサーサーン朝の捕虜になった皇帝ウァレリアヌスの息子ガッリエヌスが単独の皇帝に即位していました。

ガッリエヌスの即位後、パンノニア属州で反乱が起き、その鎮圧のためにガッリエヌスがドナウ川流域まで親征したため、ゲルマニア2属州(インフェリオルおよびスペリオル)の総督であったポストゥムスはライン川領域に残って統治を委任されました。

しかし、間もなくポストゥムスはクーデターを起こして、ガッリエヌスの息子コルネリウスを殺害して、ローマ帝国内にガリア帝国を建国し、皇帝を僭称しました。


ガロローマ

ガリア帝国で発展した文化は、ガロ・ローマ(Gallo Roma)文化と呼ばれています。ガリアはもともとケルト人の居住地で、紀元前に鉄器文化(ラ=テーヌ文化)が形成されていました。

ローマは、ガリア南部のアルプスより南(北イタリア)を、アルプスのこちら側という意味の「ガリア=キサルピナ」と呼び、アルプスを越えた南フランス一帯は、アルプスの向こう側の意味で「ガリア=トランサルピナ」と呼んでいたそうです。

アルプス手前のガリア=キサルピナは、第2回ポエニ戦争(紀元前218年~前201年)でカルタゴハンニバル軍に侵略され、それに乗じたローマ軍に占領されました。そのためガリア=キサルピナはローマ化が進みました。

アルプス越えのガリア=トランサルピナは、紀元前121年にローマに征服され、ローマ属州ガリア=ナルボネンシスとなり、その後ラテン語で属州を意味するプロヴィンキアと呼ばれるようになりました。現在はプロヴァンスと呼ばれています。

紀元前350年ごろにガリアで作られたアグリスヘルメット

この時代をガロ=ローマ時代と言っており、現在でもローマ時代の水道や円形競技場が南フランスを中心に遺跡として残っています。
ガロ・ローマ都市だったルテティアは、メロヴィング朝時代に再建され、後にパリとして発展しました。

ガロ・ローマ文化の範囲は、主に属州であったガリア・ナルボネンシスの地域であったが、広範囲な意味で南フランス、北イタリア、そしてアクィタニア(アキテーヌ地域圏)にまで広がった。この影響は後にオック語のように独自の文化圏を南フランスに形成してゆく原動力となった。



ポストゥムスはその後、軍内の兵士に殺害されますが、274年にローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスがガリアに侵攻するまで、ガリア帝国では4回も皇帝が変わり、不安定な状態が続きました。

パルミラの女王

ローマ皇帝ガッリエヌスの即位後、20名以上の皇帝僭称者が出るなど、ローマは大混乱に陥っていました。皇帝の権威失墜にしたがい、ゴート族などの侵入も激しくなりました。
当時通商都市だったパルミラ(現在のシリア)を統括していたセプティミウス・オダエナトゥスはローマ軍に協力し、ゴート族ら蛮族を討伐していましたが、身内に暗殺されてしまいました。
オダエナトゥスの妻・ゼノビアは、幼少の息子を後継者に据え、自らも女王(在位267-272)と称し実権を握ると、今までのパルミラの方針を転換し、反ローマ政策をとりました。

こうしてガリア帝国(260年)・パルミラ帝国(267年)の分離独立により、ローマ帝国は三分割されてしまったのでした。

『パルミラ市街を見納めるゼノビア女王』シュマルツ・ヘルベルト作

女王ゼノビアは、クレオパトラにも劣らない美貌の持ち主で、騎馬術にも優れた才色兼備だったそうです。


270年に皇帝になったアウレリアヌスは、パルミラに降伏を勧告したがゼノビアが応じなかったため272年にパルミラを攻め、273年にパルミラは陥落しました。
パルミラはその後ローマが再建し、東西交易の中継都市として存続しましたが、以前のように繁栄することはありませんでした。

パルミラで勝利を収めたアウレリアヌスは、次にガリア帝国を征服しました。
一説には、274年のシャロンの戦い(カタラウヌムの戦い)は、ガリア皇帝テトリクス1世がローマ帝国へ復帰を望んだため、両者が示し合わせたと言われています。

当時のガリア帝国は、ゲルマン人の襲撃や帝国内の内乱が頻発し、テトリクス1世の支配力は弱まっていました。
テトリクス1世は、国境(ライン川)を警備していた軍隊に南に進軍するよう命令し、カタルーニャ地方のシャロン・シュル・マルヌの野原でローマ軍と戦いました。
(この地は、5世紀に再び戦場になります。カタラウヌムの戦い)

この戦いはローマの圧倒的勝利で終わり、ガリアはローマ帝国に再統合されました。

こうして、アウレリアヌスは三分割されていた帝国を再統一することに成功し、一連の功績により元老院から「"Restitutor Orbis" /レスティトゥトル・オルビス(世界の修復者)」の称号を得ました。
しかし、275年に暗殺されてしまい、3世紀の危機を収拾することはできませんでした。

『アウレリアヌスの前に連行されたゼノビア』
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロによる1717年の作

ちなみにゼノビアのその後については、豪邸を与えられ贅沢に暮らしたとか、ローマの元老院議員と再婚し幸せに暮らしたとか。美しき女傑ゆえの特権が感じられる推測が多いようです。
誕生日がわかればホロスコープを作って見たいものです。

また、5世紀のキリスト教の司教であるフィレンツェの聖ゼノビウス (337年 - 417年) はゼノビアの子孫とされているそうです。


ところで、ローマ帝国はライン川とドナウ川を国境としていたので、シャロンの戦いで国境警備のライン川軍団が壊滅したのはローマにとっては痛手でした。その後数年間にわたりアレマン人フランク人ラインラント侵攻が続き、数々の砦が占拠され、都市が破壊されました。

ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。
フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランク語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。

ラインラントの位置

混乱の終息~専制君主制へ

ローマの混乱が収束したのは、284年のディオクレティアヌス(在位284年 - 305年)の即位と言われています。
ディオクレティアヌスは卓抜した政治力を振るって軍人皇帝時代を収拾し、帝国の体制改革に乗り出しました。

ディオクレティアヌスは帝権を強化するために、帝国の政体をそれまでの「プリンキパトゥス制」(元首制)から「ドミナートゥス制」(専制君主制)へと改変しました。
また、キリスト教に対する最後の大迫害を行った皇帝としても知られています。

【ドミナートゥス】

ディオクレティアヌス帝は、軍人と行政官を切り離すなど官僚制を整備し、課税強化の他にも、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など様々な経済政策を打ち出しました。

皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るため、自らをユーピテル神の子であると宣言し、豪華な金糸で飾られた帝衣をまとい、金の王冠と宝石を身につける皇帝以外は紫色の布の使用を禁じました。
また皇帝をドミヌス(陛下)と呼ばせ、皇帝崇拝と合わせ民衆にローマの神々を礼拝することも義務づけました。

【キリスト教の迫害】

ディオクレティアヌス帝は、当初はローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいとする融和的な政策を行っていましたが、キリスト教徒が皇帝崇拝を無視しローマの神々を礼拝しないことや、キリスト教徒の兵士による反逆行為が多発したことで警戒を強め、303年にキリスト教徒の強制改宗、聖職者の逮捕投獄などの勅令を発しました。

それはかつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したと見なされるキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたそうです。
キリスト教徒を捕らえて円形闘技場公開処刑を行っただけでなく、聖書の原型となる書物を没収し焼却したことや、教会の財産を没収するなど、信仰の拠り所を無くすことを主眼としたものでした。

ディオクレティアヌス帝の迫害

【テトラルキア】

また、ディオクレティアヌスは帝国の広大な領土を分割して統治することを考え、「テトラルキア」(四分統治制)を採用しました。

「テトラルキア」は、領土を東西に二分して共同皇帝に西方を統治させ、さらに東西それぞれの皇帝の下に副帝を一名ずつ据え、二人の正帝(アウグストゥス)と二人の副帝(カエサル)の計四人の皇帝による分割統治体制です。

しかし、四人の皇帝が同格なのではなく、東の正帝ディオクレティアヌス帝が決定権、裁決権を独占しており、他の三人の皇帝はその代理として統治にあたるシステムなので、一人の皇帝に独裁的な権力を集中させる専制君主政(ドミナートゥス)とは矛盾しません。

複数の皇帝による統治体制は、帝国のどの地域で起きたトラブルにも迅速な対応が可能になり、混乱の終息に大いに寄与したそうです。


「テトラルキア」(四分統治制)はディオクレティアヌス退位後も存続しましたが、306年に西方正帝のコンスタンティウス・クロルス(コンスタンティヌスた大帝の父)が死去すると、四分領制の政治体制に最初の亀裂が生じました。
強力なリーダーシップを発揮したディオクレティアヌスと同僚皇帝のマクシミアヌスが退位したことで他皇帝の間で主導権争いが起こり(のちにマクシミアヌスは復位している)、さらにコンスタンティヌス大帝が配下の軍隊に推されて正帝と称したことで内戦状態となり、312年のミルウィウス橋の戦いに発展していくのでした。

【ディオクレティアヌスとキャベツ】

ディオクレティアヌス帝の逸話は書ききれないほどありますが、私が興味深いと思ったのは、彼が皇帝を世襲にしないで引退したこととです。

305年、彼は健康を崩したことで退位し、故郷のダルマチアに戻ってアドリア海沿岸の小さな町スパラトゥム(現在のクロアチアのスプリト)に宮殿を作って隠棲したそうです。
古代の歴代ローマ皇帝の中で、暗殺されず自発的に退位した例はほとんど存在しません。(ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、退位して修道院へという例が多くなる)。

現在のディオクレティアヌス宮殿
1979 年にユネスコの世界遺産に指定されました。


ディオクレティアヌスは、宮殿でキャベツを栽培したそうです。
内戦のさなか、ディオクレティアヌスに復位し紛争を解決するよう求めてきた人々に対し「もし私の手作りキャベツを、皇帝にお見せすることができるなら、皇帝は私がこの場所の平和と幸福を、決して満たされることのない貪欲の嵐に置き換えるなどとは絶対に思わないでしょう」と語ったそうです。

キャベツは古代ギリシアでも知られ、英語で begetable というのは古代ローマで「育てる」「命を吹きこむ」「活性化する」という意味で使われた vegere に由来する。
<ビル・ローズ/柴田譲治訳『図説世界史を変えた50の植物』>

内戦の間、復位していたマクシミアヌスは、コンスタンティヌス大帝への反逆で捕らえられ310年に自殺し、マクシミアヌスの肖像もディオクレティアヌスの肖像も不名誉に破壊されました。(破滅の記憶)
311年にディオクレティアヌスは病気の末亡くなりましたが、絶望して自殺したのではないかという説もあります。

「地の時代」後半の4世紀は、ミルウィウス橋の戦い(312年10月28日)で前述のマクシミアヌスの息子マクセンティウスを破ったコンスタンティヌス大帝(在位306年-337年)が、テトラルキアによって分裂状態にあったローマ帝国を統一していきました。

コンスタンティヌス大帝については、また書きますね。
今日はこのへんで。お読みくださりありがとうございました。


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