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占星術「水の時代」と大航海時代Part①

占星術でいう「水の時代」とは、木星と土星が会合するイベントが地球を構成する4つのエレメント(火、地、風(空気)、水)のうちの水のエレメントで起きていることを意味します。

ひとつの「〇の時代」は約200年続くので、4つのエレメントが一巡するのに約800年かかります。

現在は、2020年12月に木星と土星が風のエレメントの水瓶座で会合したので、「風の時代」と呼ばれています。
その前の風の時代は、約800年前(13世紀~14世紀)、さらにその前は約1600年前(5世紀~6世紀)でした。

この記事では、転じるエネルギーの風の時代の次に(必ず!)来る「水の時代」について書いていきます。(順番:火→土→風→水)



この次の水の時代は約200年後。
私を含めて今この記事を読んでいる方は誰一人生きてはいませんが、風が吹き去った後にどんな時代がやってくるか(影のラスボスがいるならば、それも見越した計画をしているでしょう)、参考になれば幸いです。

先の風の時代には、ペストが大流行し、ヨーロッパ全土の致命率は30%から60%だったと言われています。とくにイングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街もあったそうです。
ペストによってもたらされた人口減は、それまでの社会構造を変化させました。

中世ヨーロッパにおけるペストの伝播(第二のパンデミック)。
ポーランドでは被害が発生しなかった。


ペストによる激変で、少数の社会的弱者、特にユダヤ人への差別が激しくなりました。反ユダヤ主義が強まり、迫害行為がヨーロッパ全土で行われ、1349年2月には2000人のユダヤ人がストラスブールで殺されています。

まったく同じではないけれど、なんとなく似ている気がしませんか?現在起きていることと。
「歴史は同じようには繰り返さないが、韻を踏む」のです。

14世紀のパンデミック後、新たな宗教熱と狂信 (Fanaticism) が広まり、ヨーロッパでは多くの人が「疫病は、罪に対する神罰」だと信じていたため、神の赦しを得るために感染爆発の理由探しをし、ユダヤ人、修道士、外国人、ハンセン病患者、ロマーニ(ジプシー)などが疫病を広めた犯人として殺害されたりもしました。
ストラスブール大虐殺(1349年)では、約2000人のユダヤ人が殺害されています。

いちばん近い水の時代は、600年前の1425年に蠍座で始まり、1663年に火の時代と入れ替わりました。
水の時代は、イタリア・ルネサンスが代表する近世、興味深いことに大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)とそっくり重なります。
日本は室町時代と安土桃山時代でした。

大航海時代

大航海時代は、ヨーロッパ、主にポルトガルとスペインによってアフリカ、アジア、アメリカ大陸への大規模な航海が行われました。
背景には香辛料貿易の利益拡大、同時期に隆興したルネサンス(14世紀 - 16世紀)による知識や工芸品の収集、宗教改革によって窮地に立たされたカトリック教会の布教など、いくつかの思惑がないまぜになっていました。

1502年に描かれたカンティーノ平面天球図

大航海時代の始まりは、1415年ポルトガルのセウタ攻略。
終わりの年は、三十年戦争が終結し、ロシア人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年である。

1453年にオスマン帝国が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼし、地中海交易を支配するようになると、ヨーロッパに輸入される貿易品には高い関税がかけられるようになりました。

その頃、ヨーロッパでは肉食が広がっており、香辛料の需要が増えていましたが、香辛料はヨーロッパには自生していなかっため、関税をかけられた価格で輸入するほかありませんでした。

その後キャラック船キャラベル船という頑丈な帆船が建造されるようになり、中国で発明された羅針盤がイスラムを介して伝わったことから、外洋航海が可能になり、ヨーロッパの主権国家は新たな交易ルートを求め海外進出を始めました。

キャラベル船の復元


地中海の端にあったポルトガルとスペインは、イタリアに比べると地中海貿易による恩恵が薄く、北海・バルト海貿易の恩恵も受けることができなかったため、新規交易ルートの開拓に大きな期待を持っていました。

ポルトガル*アフリカ大陸廻りルートを開拓

大航海時代は、ポルトガルのアフリカ西海岸進出から始まりました。
ポルトガルのエンリケ王子(エンリケ航海王子1394年3月4日 - 1460年11月13日)は、自らは航海しませんでしたが、探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助した大航海時代の初期における重要人物でした。

「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が
エンリケ王子とされているが異論もある。

エンリケ王子は、ポルトガル王ジョアン1世と、イギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘であるフィリパとの間に生まれました。
ジョアン1世の子としては第5子であり三男に当たります。

エンリケ王子の紋章。三男ということが示されている。


エンリケ王子は、1420年にポルトガル中部のトマールに本部を置くテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団のグランドマスターになり、莫大な資産を保有する騎士団の資金援助と知識を活用して、アフリカ・大西洋への航海を成功したと言われています。


キリスト騎士団のエンブレム
大航海時代のポルトガルのキャラベル船。
帆にキリスト騎士団の紋章がある。

1444年、探検家ディニス・ディアスがサハラ砂漠の南端に到達。これにより、アフリカ南部から大量の金を得ることができるようになり、1452年にはポルトガル初の金貨が鋳造されました。


1492年にスペインの援助を受けてクリストファー・コロンブスが西インド諸島に到着したことにより、スペインとポルトガルの探検範囲の境界を定めることが望まれるようになりました。
スペインの探検の成果を受けて教皇アレクサンデル6世は、スペインに有利な教皇子午線を発布。それによりポルトガルの活動は、アフリカ沿岸に絞られてしまったのです。

教皇子午線とは
1493年、ローマ教皇が調停したポルトガルとスペインの植民地分界線。両国は再交渉の結果、1497年にトルデシリャス条約を締結した。

南アメリカの地図上に記した教皇子午線(右側)。
翌年のトルデシリャス条約ではより西寄りの線に置き換えられた。



ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年12月24日/25日)がインド航路を開拓し、ヨーロッパ人として初めてインドのカリカット(コーリコード)に到着したのは1498年。翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰りました。

ヴァスコ・ダ・ガマ


当時の西ヨーロッパ諸国は、共通して王室の財政難を抱えていました。

イタリアは、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、フェッラーラのエステ家の文化保護活動によりルネサンスの中心地になり、文化先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしましたが、国内は教皇領や小国に分裂し、イタリア戦争(1494年 - 1559年)に西ヨーロッパのほとんどの国が参戦しました。
1557年にスペインとフランスが破産宣言をし、さらにフランスはユグノーにも対処しなければならなかったため、カトー・カンブレジ条約を結びイタリア戦争は終結しました。

ルネサンスの時代は、ペストの流行や政争、戦乱が続く波乱の時代でもあったのでした。


イタリア戦争に参加していなかったポルトガルは、アフリカ進出やワイン生産などで比較的余裕があったほうですが、カスティーリャ王国との対立などで出費がかさみ、財政建て直しが迫られているところでした。

その時の王様は、ポルトガル王国の黄金期を築いたことから「幸運王」と称されるマヌエル1世(在位1495年 - 1521年)でした。
マヌエル1世は即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合し、王室財産を拡大しました。

ヌマエル1世


1495年に亡くなったジョアン2世を継いだマヌエル1世は、1503年には、エンリケ王子が設立した王立機関カサ・ダ・ギネ(1443年)をカサ・ダ・インディアとして継続し、ヴァスコ・ダ・ガマのほか、ブラジルを発見したペドロ・アルバレス・カブラルや、アフォンソ・デ・アルブケルケなど、数多くの有名なポルトガルの航海士に資金を提供しました。

カサ・ダ・インディアの紋
ヴァスコ・ダ・ガマのインドへの航路 (黒)


スペイン*西回り航路を開拓

アフリカ大陸廻りのポルトガルに対抗し、スペインはコロンブスによって大西洋を横断する航路を開拓しました。

コロンブスはイタリア・ジェノヴァ出身の航海士で、1477年にポルトガルに移住していました。
1484年、コロンブスはポルトガル国王ジョアン2世に航海のための援助を求めましたが、ポルトガルは東回りに力を注いでいたので援助が得られず、コロンブスは1485年頃にスぺインに移住し、スペイン王室に援助を求めることにしたのです。

1492年、カトリック両王のフェルナンド5世アラゴン王としてはフェルナンド2世)と女王イサベル1世の支援を得たコロンブスは、西インド諸島サン・サルバドル島に到達しました。
コロンブスは死ぬまで、その島がインドだと信じていたそうです。

大西洋を渡り新世界に到達したコロンブス
コロンブスの4度に渡る中央アメリカへの航路


コロンブスが見つけたのがインドではなく、まだ知られていない“新大陸”であると認定したのは、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチ(1454年3月9日-1512年2月22日)でした。
この人はメディチ家に仕えていましたが、スペインの要請にもポルトガルの要請にも応え、複数回探検航海に参加していました。

新世界

アメリゴ・ ヴェスプッチは、ポルトガル王ヌマエル1世の命により、1501年から1502年にかけ第三回航海で南米大陸東岸に沿って探検し、その記録を1503年春にラテン語の論文『Mundus Novus(ムンドゥス ノーバス)』(新世界の意味)として出版しました。

ヴェスプッチが後援者のロレンツォ ディ ピエール フランチェスコ デ メディチ(1463年8月4日 – 1503年5月20日)に宛てて書いた手紙の中でに、新大陸のことを思い付きでMundus Novusと書いたのが論文のタイトルになりました。

当時、北米と南米が繋がっていることは判明していないので、ヴェスプッチの『Mundus Novus』は南米大陸についてのみ論じている。

1504 年にダチョウの卵の地球儀に描かれたMundus Novus


アメリゴ・ヴェスプッチの『Mundus Novus』はヨーロッパにセンセーションを巻き起こし、すぐに繰り返し再版されたそうです。
新大陸は彼の名にちなんで、「アメリカ大陸」と呼ばれるようになったと言われています。(異論もありますが)

アメリゴ・ヴェスプッチは個人的に興味深い人物なので、別記事にまとめたいと思います。

緑の地域(南北アメリカ大陸やオセアニア周辺)が大航海時代の新世界

1494年の教皇子午線、1497年にトルデシリャス条約は、ブラジルを除き南北アメリカ大陸に広大なスペイン領土をもたらす結果となりました。


フェルディナンド=マゼラン

フェルディナンド=マゼラン(1480年 - 1521年4月27日)はポルトガルの下級貴族出身で、ポルトガル宮廷小姓時代にコロンブスの新世界発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の業績を知り、航海への関心を深めたと言われています。
1511年、ポルトガルのインド総督アルブケルケのマラッカ攻撃に士官として加わり、その後、アルブケルケが東インド諸島の交易ルートを拓くために送り込んだ遠征隊にも参加しました。

その時の王様は、上述のマヌエル1世
マゼランは何らかの理由でポルトガルを離れスペインに移り(一説では、マヌエル王とはマゼランが小姓時代から馬が合わなかったので、報酬交渉で揉めたという話も)、当時のスペイン王カルロス1世(ローマ皇帝カール5世)に西回りでのモルッカ諸島へのルート開拓を提案し、認められて契約しました。

カルロス1世(カール5世)

カルロス1世(カール5世)は、ハプスブルグ家の出身で70もの肩書を持つヨーロッパの盟主で、1516年にスペイン国王として即位。彼からスペインハプスブルク家が始まりました。

マゼランは、国王カルロス1世(カール5世)の命で、1519年に西回り航路を取り出航。「マゼラン海峡」を発見して太平洋に乗りだし、1521年にフィリピンに到達しました。

彼自身はセブ島で殺されましたが、船団は1522年にスペインに戻り、最初の世界周航に成功しました。

マゼラン艦隊の航路


以後、主としてポルトガルによるインド・東南アジア進出、スペインによるアメリカ新大陸の支配が展開されていくことになります。

ローマ教皇も強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国を後援し、航海に宣教師が乗り込み、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始しました。


コロンブスもマゼランもポルトガルに残れなかった事情や、スペインよりも早く海外進出し、全世界に広大な植民地を獲得したにも関わらずポルトガルが衰退してしまったのは、スペイン・ハプスブルク家の勢力が凄かったということなんでしょうね。

黄金の世紀と呼ばれたスペイン・ハプスブルク朝のころにおけるスペイン帝国(赤はスペイン王国、青はポルトガル王国)の領土、植民地、属領(1580年 - 1640年)

1580年以後、ポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の王の下でスペインと同君連合となっていたが、1640年ポルトガル革命に伴ってポルトガル王政復古戦争が起こり、1668年スペイン王国はポルトガル独立を承認した。
ポルトガル王政復古戦争



プレスター・ジョン探索

大航海時代は、銀や香辛料などの獲得といった経済的目的のほか、プレスター・ジョンの探索も探検事業の推進力となっていたと考えられています。

1558年に作成された世界地図上に描かれたプレスター・ジョン(プレステ・ジョアン)

プレスター・ジョン(Prester John)は、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王。
プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。
名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する。

12世紀から架空伝説の人物であるプレスター・ジョンが統治する国が神権政治の理想郷のように語り継がれ、イスラム勢力に押されていたヨーロッパ諸国、十字軍の探求心を刺激していたと考えられています。

ポルトガルのエンリケ航海王子(上述)が西アフリカの探検事業を推進した理由は、金山の発見のほかにプレスター・ジョンの国の捜索が目的となっていたとも言われています。

17世紀前半からチベットを訪れたイエズス会の宣教師はキリスト教とチベット仏教の間に多くの共通点を見出し、1692年にチベットを訪れたイエズス会士アブリルは当時のダライ・ラマをプレスター・ジョンに例えた。

セバスチャン・ミュンスターの『コスモグラフィア』イタリア版、
1575年に掲載されたプレスター・ジョンの紋章。


長くなってしまったので、大航海時代後半(16世紀前半)については、次の記事にします。ここまでお読みくださりありがとうございました。

15世紀後半の流れ

1453年 英仏百年戦争が終結。
1453年 ビザンツ帝国滅亡 オスマン帝国によるコンスタンティノポリスの陥落
1455年 イングランドでヨーク家ランカスター家による王位争い(薔薇戦争)始まる。
1455年 ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷で聖書を印刷(グーテンベルク聖書
1469年 カスティーリャ王女イサベルアラゴン王子フェルナンドの結婚。(カトリック両王)
1474年 ポルトガル王アフォンソ5世が北アフリカのタンジェアシラーを征服。
1474年 イタリア人地理学者トスカネリが地球球体説をもとに西回りの東洋航路をポルトガル王アフォンソ5世に提言する。
1479年 アラゴン・カスティリャ連合王国(スペイン王国)成立。
1488年 ポルトガル人バルトロメウ・ディアス喜望峰に到達する。
1492年 スペインがナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタが完了。
1492年 クリストファー・コロンブスが大西洋を横断し、サンサルバドル島ほかカリブ海の島々に到達(いわゆる新大陸の発見)
1492年 スペインからのユダヤ教徒追放令(アルハンブラ勅令)。
1494年 イタリア戦争開始。
1498年 コロンブスがベネズエラに上陸。
1498年 ヴァスコ・ダ・ガマがインド洋を経てインドのカリカットに到達
1500年 ペドロ・アルヴァレス・カブラル(ポルトガル)がブラジルに到達。

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