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6世紀後半*風の時代*ケント王国(イングランド)

中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が建国した7つの王国(Heptarchy、ヘプターキー)がありました。

「ヘプターキー」という言葉は、古代ギリシア語の数詞で「7」を指す「ヘプタ(ἑπτά)」と「国」の「アーキー(ἀρχή)」を足した造語です。

この記事では、その7つの王国のうち、最初に隆盛を誇ったケント王国にスポットを当てて書いてみます。
※後半は有料にさせていただきました。

802年頃のケント王国(黄色)


5世紀にゲルマン人の大移動があり、ドイツ北岸からグレートブリテン島にアングル人ジュート人サクソン人のゲルマン系の3つの部族が侵入しました。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いたと言われています。

アングル人の名は、イングランド(England 、つまり「アングルの国」)
およびイングランド人(English)の名前の語源となったことが分かっている。


ゲルマン人がブリテン島へ移住

西暦400年代のユトランド半島からブリテン諸島への移住。
Jutes: ジュート人 Angles:アングル人 Saxons: サクソン人

アングル人は、ユトランド半島南部に位置するアンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)に住んでいた人々でした。
デーン人の到来により、450年頃からブリテン島へ移動を開始しました。

サクソン人は、西ローマ帝国の崩壊の頃にブリテン島に侵入しました。
始まりは、ゲルマン人の将軍ヘンギストとホルサのふたりの兄弟が、先住のブリトン人(ケルト人)の王ヴォーティガンに傭兵として雇われ、ブリテン島に来たのがきっかけでした。
ヴォーティガンは、彼らの奉仕と引き換えに、当時は島だったサネットに定住することを許可しました。

ケント王国を建設したジュート人も、デーン人の到来により圧迫されユトランド半島北部やドイツ中部のヴェーゼル川河口の地域からブリテン島に移住しました。

ブリトン王ヴォーティガンは、ゲルマン人に土地を与えより多くの入植者を受け入れ、今風に言えば移民が増えて国を乗っ取られてしまうわけです。
ヘンギストの弟ホルサは、ブリトン人との戦争で戦死しましたが、兄ヘンギストは最終的にケントを征服し、ケント王となりました。

七王国時代

実際には王国は7つのみではなく、多数のアングロ・サクソン人および先住のブリトン人(ケルト人)の小国家群が林立していたそうですが、次第に力が強い国家が周囲の小国を併合していきました。

ノーサンブリア王国: イングランド北東部。
マーシア王国:イングランド中央部。
イースト・アングリア王国: イングランド南東部イースト・アングリア地方、現在のノーフォーク、サフォーク周辺。
エセックス王国:イングランド南東部を支配したサクソン人の王国。
ウェセックス王国: イングランド南西部を支配したサクソン人の王国。
ケント王国: イングランド南東部、現在のケント周辺に形成されたジュート人の王国。
サセックス王国:イングランド南部を支配したサクソン人の王国。

これらの王国が覇を競った時代は、西ローマ皇帝ホノリウス帝が属州ブリタンニアを放棄(409年、End of Roman rule in Britain)してから、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一(825年、エランダンの戦い)するまでと考えられています。


ケルト系キリスト教の拡大

帝政ローマ支配下の属州ブリタンニアでは、ローマ人の入植とともにキリスト教が広まっていましたが、西ローマ帝国がブリタンニアから撤退するとキリスト教も廃れました。

七王国時代の初期の王は古代ゲルマンの多神教信仰でしたが、アイルランドの聖コルンバ(521年 - 597年)とその弟子たちにより、大陸のカトリックの発達とは関係なく独自に発達したケルト系キリスト教が伝わりました。

ローマの支配も受けず、アングロサクソンの侵入も受けなかったアイルランドにはキリスト教の信仰が残り、ケルトの祭司ドルイドが中心になりケルト文化と融合したキリスト教が生まれた。

聖コルンバは、スコットランドのインナー・ヘブリディーズ諸島に渡り、563年にアイオナ島にアイオナ修道院(Monastery of Iona)を創建し、聖コルンバとその弟子たちはこの島からスコットランドや西ヨーロッパにキリスト教伝道を行いました。
アイオナ修道院は、中世ケルト教会では最も格式の高い修道院でした。ケルト系修道院制度はオランダやドイツにまで伝えられたそうです。

635年に七王国のノーサンブリア王オズワルドの招請によって、アイオナ修道院から赴任した聖エイダンリンデスファーン修道院を創建し、北部イングランドのキリスト教化の拠点となりました。
7世紀半ば、北欧神話の主神オーディンの子孫とされたマーシア王ペンダも改宗したと言われています。

600 年頃のアングロサクソン人の大まかな位置を示す地図

ケルト教会の中心となったアイオナ修道院やリンデスファーン修道院は、9世紀にヴァイキングの度重なる襲撃によって荒廃してしまいました。

ローマカトリックの教化

ブリテン島北部からケルト系キリスト教が広がると同時期に、南東部からはローマカトリックが広がり始めました。
597年、下のリンク記事にも書いた第64代ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年-604年)が、聖アウグスティヌスをブリテン島に遣わし、ケント王国へ伝道を始めました。

聖アウグスティヌス(在任597年-604/5年)は、初代カンタベリー司教に任ぜられ、クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施したそうです(グレゴリウス1世の書簡より)。

先だってのイギリス国王チャールズ3世の戴冠式で、聖アウグスティヌスの聖書が使用されていました。

聖アウグスティヌスの聖書

アウグスティヌスは、ローマ式典礼を導入するとともに、イングランドの国情・習慣を尊重し、性急に改革を導入しないカトリック的折衷主義を採用していたそうです。すでにある程度浸透していたケルト系キリスト教会の影響を考慮した政策だったようですね。


この際にケント王エゼルベルトもカトリックに入信。国内にカトリック教会が設立され、国を挙げての大規模なキリスト教への改宗が行われました。
エゼルベルトは聖アウグスティヌス(オーガスティン)修道院を建設し、この時礎として置かれた敷石が後のイギリス国教会(プロテスタント)の基礎となりました。

聖アウグスティヌス(オーガスティン)修道院

ケント王国とフランク王国の関係

イングランド南東部のケント王国は、現在のケント州にあり、5世紀後半に上述のヘンギストによって建国されたとされています。

ケントという名前は、縁や境界を意味するブリトン語のCantusに由来し、境界や海岸地区の意味である。

初期のケント王国は、フランク王国の支配下にあったと見られています。

メロヴィング朝フランククロタール1世の末子で、ソワソンの王キルペリク1世(在位561年 - 584年)が、6世紀半ばにエウティオネスとして知られる民族を征服したと記録されているのが根拠とされています。
エウティオネスとは、ケントを侵略したユダヤ人(ジュート人)のことではないかと、研究者は考えているようです。

ソワソン


ヨーロッパ本土に最も近い位置にあるケント王国は、海からの略奪者に攻撃されることも多かったかわりに、大陸との交易も盛んに行われていました。
ケントの宝石商は有名で、 6世紀末までは金を入手できていたそうです。
 630年までに、カンタベリーの造幣局で最初の金貨が製造されていました。

メドウェイ川を境に東ケントと西ケントに分かれていたそうですが、6世紀のある時点で併合したようです。

ドーバーの白い崖(ホワイト・クリフ)
5~6世紀のフランクガラス「クロービーカー」、ケントで発掘


キリスト教に改宗した最初の英国王エゼルベルト

6世紀後半のケント王国の王エゼルベルト(560年頃 - 616年あるいは618年)は、イングランドの七王国時代、アングロサクソン諸国の中でも最も勢力の強かった王のことを意味するブレトワルダに数えられています。

エゼルベルトはヘンギストの直系子孫であるとされ、父のエルメントリック(Eormentric)の名は、アングロサクソン人の名としては珍しく、フランク人貴族に『エルメン(Eormen)』という名が多く見受けられる事から、ケントとフランク王国との関連性が示唆されています。

Eormen- は、当時のイギリスでは珍しいものでしたが、フランク王国では一般的でした。

カンタベリー大聖堂にあるエゼルベルトの彫刻

エゼルベルトは、フランク王国のカリベルト1世の娘ベルタと結婚しました。
カリベルト1世の父親は、メロヴィング朝の創始者クローヴィス1世の五男・クロタール1世です。

それゆえケント王国は、当時の西ヨーロッパで最も強力なメロヴィング朝フランク王国との同盟関係を築いていたことになります。
この両国の関係は、別の作成中の記事でもポイントになってきます。


561 年のフランク王国。エゼルベルトの義父であるカリベルト王国はピンク色です。

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