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キリスト教がローマの国教になるまで

下の記事の続きになります。

東方正帝ディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒に対する最後で最も厳しい大迫害( 303年)の後、305年にディオクレティアヌス帝と西方正帝マクシミアヌス帝が突然のように退位しました。

ちょっとややこしいですが、当時はテトラルキア(四分割統治、四分治制)をディオクレティアヌス帝が導入し、東の正帝がディオクレティアヌス帝、副帝はガレリウス帝。西の正帝がマクシミアヌス帝、副帝はコンスタンティウス(コンスタンティヌス大帝の父)でした。


ディオクレティアヌス帝は「3世紀の危機」を収拾した皇帝でしたが、テトラルキアは成功とは言えませんでした。
305年にディオクレティアヌス帝は体調を崩し退位したのですが、その際にマクシミアヌス帝も同時に退位しました(のちにマクシミアヌス帝は復位している)。


ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の退位によって、東の正帝にはガレリウス帝、西の正帝はコンスタンティウス(コンスタンティヌス大帝の父)が格上げされ、東の副帝はレリウス帝の甥マクシミヌス・ダイア、西の副帝はセウェルスが就任しました。


しかし、四人の皇帝の主導権争いが起こり、ローマは内戦状態になっていきました。コンスタンティヌス大帝が単独政治を行うまで、一時期は7人の皇帝が立てられるなど不安定な時期でした。



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キリスト教を公認

セルディカ勅令

ディオクレティアヌス帝の後継となった正帝ガレリウス帝(在位305年ー311年)もキリスト教徒を迫害したのですが、拷問や処刑などの残酷な迫害が行われたのは東方だけで、西方のコンスタンティウスらは神殿の破壊をおこなっただけで(それも形だけ)、人命を奪うことはしなかったそうです。

このことからもコンスタンティウスは、隠れキリスト教徒だったのではないかと言われています。


ガレリウス帝は311年に大病に罹り(大腸がんだったと言われています)、死期を悟ったため、キリスト教徒の迫害を解除するセルディカ勅令を発しました。

ブルガリアのソフィア

セルディカは、現在のブルガリアのソフィアで、ガレリウス帝の生まれ故郷でした。

セルディカ勅令
[...] しかし、キリスト教徒の多くは]自分たちの目的を貫き通しているので、次のことも考慮すると、神に当然の礼拝と敬意を払わないことによって、彼らはキリスト教徒の神を敬っていないことになると私たちは認識しています。
私たちの無限の寛大さ、すべての人に許しを与えるという私たちの絶え間ない習慣に照らして、私たちは彼らの場合にも、遅滞なく私たちの免罪符の恩恵を拡大し、彼らが再びクリスチャンになって再建できるようにする必要があると判断しました。
ただし、定められた秩序に反する行為を行わないことを条件として、集会の場を利用することができる。 [...] したがって、私たちが皆さんに証しする免罪符に従って、クリスチャンは私たちの健康、帝国の健康、そして自分たちの健康のために神に祈らなければなりません...

ガレリウス帝の最後の願いは、「(キリスト教徒が)自分のために祈ってほしい」ということだったそうです。

虫が良すぎるお願いではありますね(苦笑)

これにより、ローマ帝国におけるキリスト教徒に対する迫害が終結しました。ユダヤ人と同じように犠牲の免除もされました。
迫害中に没収された財産の返還が約束され、公職から追放されていた者は公職復帰が許されたとのことです。

ガレリウス帝は、セルディカ勅令を出した5日後に亡くなりました。
死が近づいて気弱になっていたのかも知れませんし、他者を許すことで自分の罪が許されると考えたのかもしれませんが、キリスト教の発展において非常に重要なターニングポイントになりました。


ミラノ勅令

313年、西の正帝となったコンスタンティヌス大帝と、東の正帝リキニウス帝は連名でミラノ勅令を発布しました。


よく勘違いされるのが、「ミラノ勅令によってキリスト教が国教になった」ということですが、国教化はテオドシウス1世が392年に発布した、キリスト教以外の異教の禁止によります。

313年のミラノ勅令では、キリスト教を含む全ての宗教の信仰の自由を保障したとするのが正しいです。
ただし、現在はこの勅令の実在そのものや、真の起草者について疑問視する研究者もいるそうです。


前回の記事でも書いたように、ローマは多神教国家で比較的、新興宗教にも寛容でした。(皇帝崇拝が条件ではありますが)

コンスタンティヌス大帝は、「異教徒が異教徒であることを理由に罰せられたり、ユダヤ人がユダヤ人であるために罰せられたりしないように」、強制改宗の政策は取りませんでした
そして、キリスト教会が以前の迫害で没収された資産を返還したそうです。


コンスタンティヌス大帝が、真のクリスチャンだったかは実は微妙なところなのですが、母ヘレナが熱心な信徒だったのでキリスト教会の待遇が厚かったのは間違いないです。


コンスタンティヌス大帝が所有していた邸宅は、キリスト教会に寄進され、その場所はかつて教皇の住居だったラテラノ宮殿が現在も建っています。


また、前回の記事にも書いたように宗教は「支配の道具」になるので、皇帝にとってもキリスト教を利用するのはwinwinだったのでしょう。


太陽神が人気だった

遡ってローマでは、2世紀頃からミトラ教が人気になっていました。
プルタルコスの「ポンペイウス伝」によると、紀元前60年ごろにキリキア(パウロの故郷)の海賊の宗教として存在したことが知られています。

アウレリアヌス帝(在位270年 - 275年)は、ミトラ教と共通点が見受けられるソル・インヴィクタスを、伝統的なローマの様々な信仰と並んで正式な信仰としました。

ソル・インヴィクタスについては、こちらの記事に書きました。

ソル・インヴィクタス


ソル・インヴィクタスは、その後の皇帝たちにも支持され、5世紀までローマでは盛んに崇拝されていました。
コンスタンティヌス大帝自身も初めの頃は、ソル・インヴィクタス信仰でした。

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4世紀になると、コンスタンティヌス大帝と母ヘレナの熱心な取り組みによってキリスト教がさらに優遇されるようになりました。

しかし、キリスト教会内部は、イエス・キリストの三位一体性をめぐって分裂していました。

アルル公会議(314年)
アルル公会議はミラノ勅令の翌年に開催されました。この会議は、325年の第1ニカイア公会議(後述)の前身です。
このとき、キリスト教は合法的な宗教になりました。
またこの会議では、北アフリカのドナティズムが異端として非難されました。



コンスタンティヌスとキリスト教

教権(皇帝任命権)

キリスト教迫害中もローマ教皇はいましたが、追放させられたり、殉教したりと大変弱い立場でした。
コンスタンティヌス大帝の代に教皇だったのは、第33代 ローマ教皇シルウェステル1世(シルベスターとも)でした。


「教皇シルウェステル1世と皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)」


シルウェステル1世は、コンスタンティヌス大帝に洗礼を施した教皇とされていましたが、現在ではこれは史実でなく伝説だったと言われています。

コンスタンティヌス大帝がシルウェステル1世に教皇領を寄進した証拠とされていたコンスタンティヌスの寄進状( Constitutum Donatio Constantini)も18世紀に偽書だということがわかりましたが、この架空の歴史的事実によって、教皇は「皇帝任命権」(叙任権)を保持しているという主張の根拠とされていました。


助言者ラクタンティウス

コンスタンティヌス大帝の宗教政策を導いた人物として、神学者のラクタンティウス(240年頃 - 320年頃)がいます。

ラクタンティウスは、ラテン語を母語とする北アフリカ人(ポエニ人)で、ディオクレティアヌス帝の要請に応じて、修辞学の教師をしていました。

ラクタンティウスは弁証的な作品で最もよく知られているそうですが、エジプトとアラビアの不死鳥の神話に基づく詩「不死鳥」はラクタンティウスの作品と言われています。


ラクタンティウスは、もともとキリスト教徒ではなかったそうです。
ディオクレティアヌス帝が『反キリスト教令』(303年2月24日)を発布し、宮廷内でのキリスト教徒の粛清が始まったころにいったん職を辞しているので、そのまえにキリスト教に改宗していたのかもしれません。

ラクタンティウスは、309年から 310年にかけてコンスタンティヌス大帝の最初の妻との子クリスプスの家庭教師を務めていました。
311年か313年にコンスタンティヌス大帝の顧問にも召し抱えられ、皇帝の宗教政策を導きました。


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トリーア、旧市街のヴァイスハウスの街並み


前々回の記事で、ドイツのトリーアという街について書きましたが、317年にクリスプスはカエサル(在位317年 - 326年)に任命され、ガリア属州トリーアの支配権を与えられました。

ラクタンティウスは、クリスプスとともにトリーアへ移住しています。

しかし、326 年にクリスプスは、継母であるファウスタとの不倫を疑われ、コンスタンティンヌス大帝に処刑されてしまいました。
のちにこれはファウスタの策略だったことがわかり、ファウスタも処刑されています。

ラクタンティウスのその後は不明です。

トリーア、なかなか重要な場所ですね。


コンスタンティヌス大帝が建てたオールド・サン・ピエトロ聖堂(バチカンのサンピエトロ大聖堂の前身)について下書きがあるので、また別の機会に清書してUPします。

トリーアにあるローマ時代のフレスコ画で、
おそらくコンスタンティア(コンスタンティヌス大帝の妹)を描いたものと思われる。


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神の子は被造物か否か論争

コンスタンティヌス大帝の主催で、第1ニカイア公会議(325年)がニコメディア南部の町ニカイア(現:トルコ共和国イズニク)で5月から7月末まで開催され、正統教義が決定されました。

第1ニカイア公会議を画いたイコン。
アリウスが下方の闇に画かれ断罪されている。



公会議では、コンスタンティヌス大帝が議長となり、約300人の司教たち(ほとんが東方教会だった)によって議題が進められました。
地方によって違う復活祭の日付の確定などが話し合われましたが、もっとも多く扱われたのはアリウス派をめぐる問題でした。


三位一体を認めるアタナシウス・ニカイア派が正統と認められ、三位一体を認めないアリウス派は異端とされました。
でも、異端とされてもアリウス派の勢いは止まりませんでした。

詳しくはこちらに書きました。


その後、コンスタンティヌス大帝自身がアリウス派を認め、提唱者アリウスの教会復帰も認められました。
後継のコンスタンティヌス2世は、アリウス派の信徒でした。

逆に次のコンスタンティウス2世の時には、アタナシウスが二度も追放されるなど混乱が続きました。



コンスタンティヌス以後

コンスタンティヌス大帝は、非キリスト教徒に寛容で、彼らを迫害したり、処刑したりすることはありませんでしたが、非キリスト教の神殿を破壊して、教会を建てるということは行っていました。
(神殿の破壊は文献資料で43件で証明されているが、考古学的証拠で確認されているのは4件のみ)

代表的な例として、エルサレム(アエリア・カピトリナ)のイエスの磔刑の場所に、ハドリアヌス帝(2世紀)が建てたヴィーナス神殿をコンスタンティヌス大帝は破壊しました。
そのあとに建てられたのが、現存する聖墳墓教会です。

聖墳墓教会


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コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世

コンスタンティヌス大帝の2度目の妻ファウスタの子、コンスタンティウス2世(在位:337年 - 361年)の代になると、アタナシウスニカイア派よりもアリウス主義を推進しました。

コンスタンティウス 2 世は、異教の犠牲の習慣を禁止し、寺院を閉鎖しました。(異教の寺院の補助金をカットするため)
偶像を崇拝した者には死刑が規定されましたが、国民の間には異教信仰が依然強かったため、厳格に異教を禁止することはなかったそうです。

しかし、一般のキリスト教徒によって、古代の異教寺院、墓、記念碑の破壊、略奪、冒涜が頻繁に起きたとか。
そのためコンスタンティウス2世は、異教の聖地を破壊した者に罰金を課し、記念碑や墓の管理を異教の司祭の管理させるという、別の法律を制定したそうです。

354年のクロノグラフに描かれたコンスタンティウス 2 世の肖像
(カロリング朝ルネッサンス)


背教者と呼ばれた皇帝ユリアヌス

ユリアヌス帝(在位:361年 - 363年)は、コンスタンティヌス大帝の異母弟ユリウス・コンスタンティウス (Julius Constantius) の子で、最後の「異教徒皇帝」として知られています。

337年に上述のコンスタンティウス2世によって家族を暗殺されましたが、ユリアヌスと兄ガッルスは幼少のため見逃されました。
兄弟は事実上軟禁された状態で養育されましたが、読書や勉学の自由は認められており、ユリアヌスは留学地のニコメディアで新プラトン主義の影響を強く受けました。

この経験から、ユリアヌスはキリスト教に対して疑問を感じるようになり、異教に回心しました。(351年)


361年にコンスタンティウス2世が突然亡くなり、皇位を継承したユリアヌスは宮廷の改革を始めました。
官僚組織の規模を縮小し、キリスト教徒を削減したので、当然キリスト教徒から反感を買うことになりました。


ユリアヌス帝は迫害を行わず、異端とされた者に恩赦を与えたり、ユダヤ教のエルサレム神殿の再建許可を出し、またミトラ教の信仰を認めるなど、「信仰は自由であるべきである」と知らしめしました。

しかし、彼の宗教的寛容には別の思惑がありました。

コンスタンティヌス1世以後、力を持ったキリスト教会に内部分裂を起こし、弱体化させ、国政に関わらせないようにするのが彼の目的でした。
エルサレム神殿の再建許可を出したのもそのためだったと言われています。

362年に布告した勅令では、「教師自らが信じていないもの」を学生に教えることを禁じました。
キリスト教徒が教師となること自体は禁じていませんでしたが、実質的にキリストを信仰する教師が異教のものである古典文学の授業を行うことができなくなったのです。

こうしてユリアヌスは、知識人層を(キリスト教から見た)「異教徒」で埋め尽くし、そこからのキリスト教徒の排除を図ろうとしていたのです。

これらのことにより、ユリアヌス帝は現在もキリスト教会から「背教者(Apostata)」と呼ばれています。

ユリアヌス帝は363年6月にペルシャ遠征で戦死したため、異教の完全復活は叶いませんでした。

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宗教的寛容を廃したクラディアヌス

364年から375年にかけてのローマ帝国は、西帝ウァレンティニアヌス1世と東帝ウァレンスという兄弟2人の共同皇帝によって統治されていました。
375年にウァレンティアヌス1世が死去すると、その息子たち(ウァレンティニアヌス2世グラティアヌス)が西方の統治者として跡を継ぎました。


当初グラティアヌスは、父の穏健な宗教政策を踏襲していましたが、378年に立ち寄ったミラノで司教アンブローズの説得を受け、その方針を一転させました。

アンブローズについてはこちらの記事に書いています。


グラティアヌスは、379年には寛容令を撤回し、381年からは拠点もミラノへ移し、ますますアンブローズの影響を受けるようになっていました。

そのようにキリスト教への傾倒を深めていく皇帝に対して、古代ローマの伝統宗教の信仰を続けている元老院や軍隊からの支持は急速に失われていきました。

383年、ブリタンニアのローマ軍団は、マグヌス・マクシムスを皇帝とすると宣言しました(ある意味クーデターと同じです)。
マグヌス・マクシムスはブリタンニアの軍団を引き連れてガリアへ侵攻し、ルグドゥヌム(現フランス・リヨン)でグラティアヌス帝を殺害しました。


マグヌス・マクシムス

マクシムスはケルトの伝承では英雄視されており、アーサー王伝説ではアーサー王の先祖の一人とされている

リヨン

ローマ帝国の東西分離

その後、テオドシウス帝(在位 379年 - 395年)によって、キリスト教は国教化されますが(詳しくは「4世紀*皇帝を屈服させたミラノ司教アンブローズ」に書きました)、テオドシウス帝は、ローマ帝国の「東西分離」のきっかけも作りました。

テオドシウス帝は、378年に西方正帝グラティアヌスの共同皇帝として東方正帝に選ばれていました。
グラティアヌスが殺害された後、388年にテオドシウス帝はマグヌス・マクシムスを滅ぼし、帝国の東西領域を単独支配しました。

しかし、広大な帝国全域を単独支配することは、誰にとっても困難になっていました。

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東領域は比較的安定はしていましたが、ゴート族の侵入が激しくなり、テオドシウス帝は、ゴート族にトラキア(バルカン半島)北部への移住を認めました。
但しそれまでの移住と異なり、ゴート族は同盟者として移住したため、ローマ帝国への納税義務はありませんでした。

成功したかのように思われた移住政策も、395年に西ゴート族のアラリック1世がローマを掠奪したことで破綻しました。


西暦395年にアテネを征服した後、アテネをパレードするアラリック1世


395年、死に際してテオドシウス帝は、2人の息子にそれぞれ東方と西方とを分担統治させると遺言していました。
アルカディウス(18歳)を東ローマ皇帝に、ホノリウス(16歳)を西ローマ皇帝に指名し、ローマの東西分離が確定しました。


395年のローマ帝国の分割。両者の国境線は黒線にて表示 (白線は現代の国境線)
赤=西ローマ帝国、紫=  東ローマ帝国

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フランク王国とビザンツ王国

そののち西ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動の影響が領内に及び、ゲルマン人並びにフン族の領土侵入が頻繁に起きたため国力が低下。
476年には皇帝が廃止させられる事態となり、西ローマ帝国は衰退しました。


クローヴィス1世


486年に、フランク王国クローヴィス1世の攻撃を受け、西ローマ帝国は消滅しましたが、フランク王国は西ローマ帝国のラテン文化を継承・発展させ、西ヨーロッパの文化的基盤を形成しました。


東ローマ帝国はイスラームの侵攻を受け、急速にギリシア化が進み、7世紀には公用語もギリシア語に変わり、住民もほぼギリシア人のみとなったので、これ以降の東ローマ帝国は「ビザンツ王国」と呼ばれました。
ビザンツ王国ではギリシャ正教(東方正教)が盛んになりました。

1475年にオスマントルコに侵略され、ビザンツ王国は滅びました。

ギリシャ正教の聖地・アトス


こうして紀元前750年にロームルスから始まったと伝えられ、また帝政を創始したアウグストゥスからの偉大なローマ帝国は消滅していったわけですが、長い歴史の中(血なまぐさい事件も多いが)で、さまざまな文化を築きあげた国だったと思います。

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また長くなってしまいました。ローマやフランク王国についてはまた書きたいと思います。
今日はこのへんで。最後までお読みくださりありがとうございました。
また近いうちに。

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