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占星術*水の時代と大航海時代Part②植民地化

この記事では、大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)の後半について書いていきます。


大航海時代の反響

新たな交易ルートを得て、スペインとポルトガルが競って海外進出して行く傍らで、オスマン帝国支配による地中海交易も盛んに行われていました。

当時のイタリアは、実質的に独立した政治的権限を持つ都市国家の集まりでした。
特にミラノ(ミラノ公国、1395年 - 1797年)、フィレンツェ(フィレンツェ共和国、1115年 - 1532年)などが海運や商業によって繁栄していました。

コンスタンティノープル(ビザンツ帝国)の飛び地として始まったヴェネツィア共和国(697年 - 1797年)は、東地中海においてイスラム諸国との貿易をほぼ独占していました。

15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域。濃赤は15世紀初頭までの領土、赤は16世紀初頭までの領土、ピンクは一時的に領有していた土地を示す。
黄色い領域は制海権を持っていた海域、オレンジの線は主要な商業航路、紫の四角は商業拠点があった場所を示す

ヴェネツィアは、10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。
ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

イベリア半島でレコンキスタが進行し、ジブラルタル海峡での交通が安定すると、ヴェネツィアもロンドンやブリュージュ(ベルギー北西部)まで商船を送るようになり、地中海と北ヨーロッパは、それまでの陸路にかわって海路が活発となっていきました。

しかし、大航海ブームで地中海貿易の重要性が相対的に低下したことと、オスマン帝国の侵攻を受け多くの領土を失ったこと、イタリア戦争の影響などでヴェネツィア共和国は衰退していきました。

それでも世界で初めて銀行の為替業務が誕生したことや、各国の大使館が置かれた隆盛時代のポテンシャルの高さから、個人的にはヴェネツィアが力を持ちすぎたゆえの政治的な理由があったのだろうと思います。

1494年のイタリア

16世紀の流れ(前半)
1503年 アメリゴ・ベスプッチが『新世界』を刊行する。
1505年 スリランカにポルトガル人が到来。(ポルトガル領セイロン) 
1507年 ポルトガルがモザンビーク島に要塞を築く。
1507年 マルティン・ヴァルトゼーミュラーの『世界誌概説』が出版され、その世界地図に「アメリカ」の名称が初めて用いられる。

1508年 フアン・ポンセ・デ・レオン(スペイン)がプエルトリコを征服。
1511年 ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカを占領(マラッカ占領 )。
1511年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル(スペイン)がキューバを占領。
1513年 バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(スペイン)がパナマ地峡を越えて太平洋に到達。
1515年 ポルトガルがホルムズ島を占領。

1519年 スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として即位。
1519年 神聖ローマ皇帝カール5世の支援を得て、フェルディナンド・マゼランが世界周航のためにセビリアから出帆する。
1519年 ペドラリアス・ダビラによってパナマシティが建設された。

スペインによるアメリカ大陸の植民地化

1494年のトルデシリャス条約により、スペインは「新大陸」における征服の優先権を認められ、新たに征服される土地と住民はスペイン国王に属すとされました。

このトルデシリャス条約のため、スペイン人が先住民に出会った際に、先住民に対しての選択肢は征服以外に存在しなくなりました。
このことが、ポルトガルやイギリス、フランスによるアメリカ大陸の征服とは、大きく異なった特徴をスペインに与えたと言われています。
スペインによるアメリカ大陸の植民地化

スペインのコンキスタドールの旗。
スペインによるアメリカ大陸制圧を担った者達はコンキスタドール(征服者)と呼ばれた。


1513年9月、スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(1475年 - 1519年1月21日)が、パナマ地峡を横断しました。彼は、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸が地続きであることを発見した最初のヨーロッパ人になりました。

バルボアにより「南の海」と命名された海は、1520年にマゼランが「太平洋」と改名しました。

パナマシティのバスコ・ヌニェス・デ・バルボアの記念碑


バルボアはこの時の探検で、ペルーに黄金郷が存在するという情報を掴んでいました。しかし、ペルーに赴くだけの余力が隊にはなかったので、一旦植民地に帰還しました。


バルボアはその10年以上前に、ロドリゴ・デ・バスティダスの遠征に参加していました。そのときバスティダスはクイント・レアル(王室の5分の1)という政策に基づき、全額自己資金による遠征の場合は、スペイン王室が新世界のさまざまな領土を探索する権利を与える代わりに、国に持ち帰る宝物の5分の4を自分のものとする許可を得ていました。

バルボアは、翌年1月に真珠、綿製品、大量の金の宝物を携えてサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(カリブ海に面したヨーロッパ人最初の植民都市)に到着すると、バスティダスを真似て宝の5分の1を国王に送ったそうです。

バルボアの南海への旅行ルート、1513年

バルボアが黄金郷探索のためペルーへ向かおうとしたその矢先、新しくやってきたペドラリアス・ダビラ総督の部下に捕らえられて、バルボアの友人4人と共に反逆罪(ペドラリアスの権力を簒奪して別の政府を樹立しようとしたとして)で斬首刑に処されました。


バルボアの1513年の遠征に同行していたフランシスコ・ピサロは、ペドラリアス・ダビラの側近となっており、バルボアを不当逮捕したのもピサロでした。
ペドラリアスへの忠誠により、ピサロは1519年から1523年までパナマ市長と治安判事の地位を与えられたそうです。
その後、ピサロは1528年にカルロス1世(カール5世)からペルー支配の許可を取り、1533年にインカ帝国を征服しました。

アタビロス侯爵フランシスコ・ピサロ


このようにして、スペインによって征服された地はインディアス、または、イスパノアメリカと呼ばれました。原住民は「インディアスの人々」という意味を込めてインディオ、インディアンと呼ばれました。
また同時期のポルトガルによる植民地化と併せて、19世紀半ばからはラテンアメリカと呼ばれるようになりました。

インディアスの破壊についての簡潔な報告

1552年にスペイン出身のドミニコ会士であるバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484年-1566年)が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述という日本語訳もある)を著しました。
内容は、当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」における数々の不正行為と先住民に対する残虐行為の告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えたものでした。

ラス・カサスは征服者から回心して聖職者になり、植民地での平和的な布教と、先住民への圧政の停止を求めて活動していました。
『報告』は、スペイン本国や植民地で賛否を呼び、事実だとしても出版するべきではないとされて禁書となったそうです。

ラス・カサスの肖像画。セビーリャ、コロンブス図書館蔵

ラス・カサスの伝えるスペイン人の残虐行為
「非道で血も涙もない人たちから逃げ延びたインディオたちはみな山に篭ったり、山の奥深くへ逃げこんだりして身を守った。
すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すため猟犬をどう猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。犬は豚を餌食にするよりもはるかに喜々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、そのどう猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。
インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害するのは実に稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。
しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに百人のインディオを殺すべしという掟をさだめた。」

ラス・カサスは、1566年6月に亡くなりました。
教皇ピウス5世が、スペインのインディアス支配の根拠とされていたアレクサンデル6世の「贈与大勅書」(教皇子午線)がインディアス征服を正当化するものでないというローマ教皇庁の正式見解を示したのは、ラス・カサスの死から2年後の1568年でした。


「南蛮屏風」に描かれた、日本に到来した南蛮人たち。白人の他、黒人も描かれている。


日本人が初めて接触したのが、ポルトガルじゃなくスペインだったら、日本はどうなっていたんでしょうね
1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して、ポルトガル人による「奴隷貿易」を食い止めたという話もありますが、スペイン人だったら大虐殺が行われていたかもしれません。
ポルトガルの奴隷貿易(wiki)を読むと、「奴隷」の定義が違ったことが原因だったんだろうなぁと感じました。

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、16〜17世紀を通じ、ポルトガル船の乗員の取引の一部に日本人奴隷も含まれるようになり、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所に売却された。
多くの文献において、日本人の奴隷交易の存在が述べられている。
実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。
記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間数隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界、九州の人口、奴隷の需要、海賊対策のための武装、奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている。
16世紀のポルトガルの支配領域において東アジア人の奴隷の数は「わずかなもの」で、インド人、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった。

スペインも、16世紀のヨーロッパ植民地主義の対立の最中に黒い伝説(反スペインのプロパガンダ)が作成されたと主張しています。
1512 年にスペイン・カスティーリャ王国ブルゴスで公布されたプルゴス法では、アメリカ大陸におけるスペイン人の行動、特に西インド諸島の先住民(カリブの先住民)に対する行動を規定し、先住民への虐待を禁じ、先住民がカトリックに改宗することを期待するものだったそうです。

法律よりも事実は、はるかに雄弁ですけどね。

ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化

トルデシリャス条約によって、新世界はスペインとポルトガルの領域に分けられ、ポルトガルの植民地は南アメリカの一部(現在のブラジル)でした。

1500年4月に、ポルトガル王国の探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達しました。1532年にサン・ヴィセンテ(サンパウロ南部)とピラチニンガが建設され、ポルトガル人の定住が行われました。

定住によりマデイラ諸島からもたらされたサトウキビ産業が成立し、多くの労働力が必要とされたたため、アフリカから多くの奴隷を輸入しました。

ペドロ・アルバレス・カブラル
カブラルが使用したキャラック船はキャラベル船よりも大きかった。


1549年に当時の首都としてバイーア州にサルヴァドール・ダ・バイーアが建設され、同じ年にイエズス会が初めてブラジルを訪れたそうです。
リオデジャネイロが建設されたのは、1567年3月でした。

ブラジルの植民化が遅れたのは、ポルトガルは1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓したことで、アジアとの交易に重きを置いていたからです。
ヌマエル1世の息子で「敬虔王」と呼ばれたジョアン3世(在位1521年-1557年)は、海外植民地の増加と宣教を奨励し、イエズス会を宣教師として植民地に派遣するなどキリスト教伝道にも努めました。

ジョアン3世

ジョアン3世とスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の妹カタリナ・デ・アウストリアが結婚し、またジョアン3世の妹イザベルとカルロス1世が結婚したことで、ポルトガルとスペインとの関係は多少の揉め事はあっても良好でした。

ゴア(インド)などのポルトガルの基地を強化するというジョアン3世の政策は、香辛料貿易においてポルトガルの独占を確保しました。
このためイスラム勢力から香料を仕入れて欧州での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は、大打撃を被ることになったそうです。
ポルトガルはさらに東南アジアや東アジアにまで貿易網を拡大し、1557年には中国の明からマカオを貸借(ポルトガル領マカオ)し、インド洋の重要な港を押さえ制海権を掌握し世界的な交易システムを築き上げました。


日本にも1543年(室町時代)の鉄砲伝来をきっかけに進出し、1549年フランシスコ・ザビエルが布教のため派遣されました。
ポルトガル人は日本と接触した最初のヨーロッパ人でした。

1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域。


ジョアン3世の治世では、ポルトガルの総人口は約140万人、首都リスボンは人口6万5000人と総人口4.6%を占める大都市になっていました。

アヴィス騎士団とカスティーリャ王国のサンティアゴ騎士団の統合で王領地は国土の半分を占め、国王の権威はより高められ、海外貿易がもたらす富も相まって、中央集権化が結実してポルトガルに絶対王政が敷かれました。

余談ですが、ジョアン3世は占星術にも覚えがあったようです。

スペインとポルトガルの植民地(1790年)


日本への鉄砲伝来とキリスト教布教活動

鹿児島県種子島に約100人の東アジア人、3人のポルトガル商人を乗せた船が漂着したのは、大航海時代の最中の1543年のことでした。鉄砲伝来

ポルトガル人はフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショト、アントニオ・モタでした。彼らは当初中国に向かうはずでしたが、嵐に遭い遭難したのです。

ヨーロッパでは、マルコ・ポーロ(1254年頃 - 1324年1月8日)が『東方見聞録』で「黄金の国ジパング」という名で日本国の存在を伝えて以降、多くの人の関心を惹き付けていました。

マルコ・ポーロは、自らは渡航しなかったが、中国で聞いた話として日本のことをジパング (Zipangu) の名でヨーロッパに初めて紹介した。
「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。また、ジパングには、偶像を崇拝する者(仏教徒)と、そうでない者とがおり、外見がよいこと、また、礼儀正しく穏やかであること、葬儀は火葬か土葬であり、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う習慣がある。」

当時のヨーロッパの人々はマルコ・ポーロが言っていた内容は信じ難く、彼は嘘つき呼ばわりされたそうですが、『東方見聞録』は多くの言語に翻訳され世に広まっていきました。
大航海時代にはアジアに関する貴重な資料として重宝され、コロンブスも1483年~1485年頃に出版された1冊を持っており、書き込みは計366箇所にも亘っていたことからアジアの富に多大な興味があったことは明らかです。

旅行ルート


しかしその後約150年に渡って、ヨーロッパ人にとってジパングは場所がわからない未知の島だったのですが、種子島にポルトガル船が漂着したのがきっかけで知られることになったのです。
この鉄砲伝来により、日本もアジア大陸への侵攻が可能になるほどの軍事力を持つことになりました。

そしてキリスト教も入ってくるわけですが、イエズス会のフランシスコ・ザビエル(1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)が日本に布教したのは、1549年(天文18年)から2年間でした。

サビエルを驚かせたのは、日本人の善良な印象と相反してキリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が公然と行われていたことだったそうです。

上述のスペイン人探検家のバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、現地民の同性愛者40人を集めて野犬に嚙み殺させたそうですから、ザビエルが宣教師だったことは幸いだったかもしれませんね。

サビエルの日本での布教は困難を極めたと言われていますが、1563年(永禄6年)ザビエルの部下だったコスメ・デ・トーレスの洗礼を受けて、日本初のキリシタン大名・大村純忠が登場することになります。
1580年(天正8年)に、大村純忠は長崎港周辺部と茂木(現長崎市茂木町)をイエズス会に寄進し、長崎は治外法権のイエズス会領となり、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が没収するまでイエズス会によって統治されていました。

有料記事ですが、あいひんさんがザビエルとイエズス会について書いておられます。


大航海ブームによってもたらされたもの


大航海ブームによって、世界中の色んな商品が取引されるようになり、ヨーロッパ人の生活は大きく変化したと言われています。

ヨーロッパから持ち込まれたものは、キリスト教、小麦などの農作物、牛馬や羊、鉄器などのほか、天然痘、麻疹、インフルエンザなどの伝染病もあり、ヨーロッパ人自身も入植者としてそれに含まれます。

逆にヨーロッパには、 メキシコ原産のトウモロコシやサツマイモ、東洋種のカボチャ、トウガラシ、アンデス高原原産のジャガイモや西洋種のカボチャ、トマト、熱帯アメリカ原産のカカオなどが伝えられ、スペイン料理やイタリア料理などのヨーロッパの食文化に大きな影響を与えました。
その他にはタバコや梅毒も伝わりました。

ヨーロッパの経済活動がワールドワイドになったことで、アメリカやアジアから大量に銀が流入し、ヨーロッパでは大規模なインフレも起きました。

オルテリウスの地図の詳細:マゼランの船ビクトリア

この記事も長くなってきたので、続きはパート3に譲りたいと思います。
パート3では、海外進出の後発国になったイギリス、フランス、オランダがどのように挽回していったかをまとめます。

お読みくださりありがとうございました。では、また。

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