見出し画像

17世紀の異常気象と宗教戦争*飢餓とペスト*科学革命

1565年、ヨーロッパでは突然、気象が寒冷化し、17世紀中ごろには厳しい寒さを迎えていました。

突然、寒冷化した原因は明らかではないですが、1563年~1564年に噴火を繰り返したポルトガルのピコ山の火山灰の影響か?
あるいは、熱塩循環が減速した可能性もありそうです。

海洋の循環を表層と深層の二層で単純化したもので、青い線は深層流、赤い線は表層流を示す。

海洋の深層循環は、海水の水温と塩分による密度差によって駆動されており、熱塩循環と呼ばれています。
熱塩循環は、現在の気候において、表層の海水が北大西洋のグリーンランド沖と南極大陸の大陸棚周辺で冷却され、重くなって底層まで沈みこんだ後、世界の海洋の底層に広がり、底層を移動する間にゆっくりと上昇して表層に戻るという約1000年スケールの循環をしています(図)。

気象庁ホームページより

地球温暖化でヨーロッパは極寒になる

昨年冬、岸田首相が訪英された時、岸田首相もスナク首相もコートなしでビジネススーツで外を歩いている映像を見て、「今冬のロンドンは暖かい」ことがわかりました。
ロンドンの12月の最高気温は、14°C を上回ることは滅多にないそうです。

ロシア制裁で光熱費が高騰し、国民の家計は大変になっていると言われていましたので、暖かい冬でよかったねと思ったんですよね。
ウクライナもロシアも昨冬は暖かったようです。

イギリスやヨーロッパは高緯度に位置していますが、温暖な気候に恵まれているのは大西洋の海流、大西洋子午線転覆循環(AMOC)のおかげといわれています。

気候変動は、海洋熱量の増加と氷床の融解による淡水の流れの上昇を通じて、AMOCを弱体化させる可能性があり、データによれば18世紀の産業革命前よりもすでに弱くなっており、専門家はさらに弱まると予測しています。

ドイツのポツダム気候影響研究所(ポツダム研究所)は、2021年の論文で「熱塩循環がここ数十年で最も弱い状態になっている」と公表しました。

熱塩循環が停滞、停止するとどうなるかは、2004年の映画『デイ・アフター・トゥモロー』に描写されています。
この映画は、ラジオ・パーソナリティでオカルト好きのアート・ベル(1945年6月17日ー2018年4月13日)とホラー小説家ホイットリー・ストリーバーによる1999年の著書「The Coming Global Superstorm」に基づいています。

映画のストーリーは、南極大陸の棚氷の調査をしていた気象学者が、温暖化によって極地の氷が融解して真水が海へ供給されると、海水の塩分濃度の変化が起こり、将来的に氷河期を引き起こす可能性があるとして政府に訴えますが、誰も本気にしませんでした。
しかし、その数日後から世界各地で異常気象が頻発し始め、東京では超巨大な雹が降り注ぎ、ロサンゼルスは巨大な竜巻によって壊滅し、イギリスはスーパー・フリーズ現象によってオイルが凍結して軍のヘリコプターが墜落。ニューヨークには豪雨と巨大な高潮が押し寄せました。
そして、気象学者が警告した氷河期がいきなり到来したのです。

この津波のシーンも怖かった。

映画では一夜にして氷河期が始まりましたが、実際には1日で世界が凍り付くことはありえないでしょう。
2005年11月30日付のAFP通信の記事では、実際にヨーロッパにおいて映画ほどの急激さはないものの、映画と同じ理論で今後十年単位で平均気温が4度低下する恐れがあるという科学者の見解を伝えています。

つまり、熱塩循環が停滞すると、熱帯の温かい海水が北上できなくなるので、北大西洋の海水は冷たいままになってしまい。その状態が続けば欧州は寒冷化する可能性があるということなんですね。

熱塩循環が停滞する理由は、「地球温暖化」の影響ということになっていますが、私は気象の専門家でも何でもないけれども、現在、各国が警鐘を鳴らしている「地球温暖化」は政治的な方便だと思っています。
確かに地球は温暖化していますが、気候変動のひとつのパターンです。だって今も氷河期なんですから。「温暖化」のせいにしたい理由があるんでしょうね。

17世紀のヨーロッパ危機

中世の温暖期

17世紀のヨーロッパは厳冬になりましたが、その前はおよそ10世紀から14世紀にかけて続いた「中世の温暖期」でした。

放射性炭素年代の分析結果では、約400年前と1700年前は表層海水温が現在よりおよそ1℃低く、1000年前(中世の温暖期)には1℃高かったことがわかっています。
しかし、地域的に温暖だったり寒冷だったりバラツキがあったそうです 。
日本でも、西日本は旱魃で飢饉が起きていましたが、東北は凶作の記録が全くない時期だったと見られています。

この中世の温暖期は、太陽の活動の中世の極大期(AD1100年-1250年)と呼ばれる時期と部分的に一致しています。
グリーンランドは、文字通り緑豊かな島だったそうで、ヴァイキングが凍結していない海を渡って、植民地を作っていた記録があるそうです。
ヨーロッパではブドウ栽培が広まりました。ブドウ栽培は、紀元前1200年から紀元前900年にかけてフェニキアで盛んになり、ローマ帝国の拡大とともにヨーロッパへ伝えられたようです。

中世の温暖期は、農業生産力が拡大し、人口増加・経済の復興などが見られました。

17世紀は寒冷化

ヨーロッパの17世紀の危機は、1620年代に始まりました。要因として、小氷期の到来により気候が寒冷化したことがベースにあります。
占星術的には、1620年代は「火の時代」(正式には1663年から)のプレビューで、その前の「水の時代」(大航海時代)の名残りがミックスされた時代でした。

マウンダー極小期(1645年ー1715年)は、中世における小氷期中頃の寒冷期で、ヨーロッパ、北米大陸、その他の温帯地域においても、冬は著しい酷寒、冷夏が続いた。

マウンダー極小期中は、太陽の黒点数が異常に少なかったのがグラフに示されています。1672から1699年の間に確認された黒点は50個未満でした。
通常であれば、極小期でも4 - 5万個程度が観測されるそうです。

マウンダー極小期は平均気温が0.1 - 0.2℃低下し、ロンドンのテムズ川は凍りつき、スイスのボーデン湖とチューリッヒ湖は完全に凍結しました。

ことに1709年の大寒波は、大西洋岸からロシアの内陸部までの広い地域を襲った猛烈な酷寒でした。大北方戦争の真っ最中で、スウェーデン軍の兵士が一晩のうちに2000人が死亡し、フランスは1710年に飢饉で60万人の死者を出したそうです。

食糧危機

冬の寒さ以上に人々の暮らしに影響を与えたのは、春の遅霜と大洪水で種まきが遅れたことと、冷夏による日照不足、異常乾燥などによって作物が発育不良に陥り、翌年のための種が不足したり、家畜の飼料となる牧草が枯れてしまったことでした。

穀物価格は高騰し、穀物を手に入れることが実質不可能となることも多く、貧しい人々は劣悪な食事に甘んじなければならなかったし、腐れかけた肉、木の根、草などを食べるしかないような状況に追い込まれたと言います。

17世紀から18世紀前半にかけて凶作の年は、代表的なものだけで6回、局地的なものを含めればさらに数が増えます。
温暖期に増えたブドウ園も当然失われました。
大陸全体で食料不足になったため、人々は慢性的な栄養失調に陥り、出生率も著しく低下しました。

ペストの大流行もありました。バルト海と東中央ヨーロッパ周辺でペストが発生し、1708年から 1712年にピークを迎えました。赤痢、天然痘、紅斑熱などの病気も蔓延し、飢餓とのダブルパンチになりました。

北欧では、1695年から1697年にかけての「大飢饉」がフィンランド史上最悪の飢饉として名をとどめています。国の4分の1から3分の1の人々が餓死し、人食い行為も報告されています。

1690 年代は小氷河期の最低点であり、より寒く雨の多い気候でした。
アイスランドのヘクラ(1693 年)、インドネシアのセルア(1693 年) とアボイナ(1694 年)の火山の大噴火も、大気を汚染し、大量の太陽光を遮断した可能性があります。

日本は江戸時代の始めに該当し、有名な四大飢饉のひとつ寛永の大飢饉がありました。

寛永15年(1638年)頃に、九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、牛の大量死をもたらした。寛永17年(1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火しており、降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となっていました。
大飢饉の背景には、1630年代から1640年代における東アジア規模での異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮、参勤交代や手伝普請、将軍の上洛や日光社参など、幕府や藩の多額の出費、年貢米を換金する市場の不備など様々な要因が挙げられます。

疫病のパンデミック

17世紀に流行した疫病は、ペスト、発疹チフス、腸チフス、赤痢、天然痘、猩紅熱、はしか、マラリアなど多種にわたりました。

ペストは、14世紀に「黒死病」と呼ばれ大流行になりました。
1546年当時まだ薬草医だったノストラダムスが、治療のために尽力したことはあまり知られていませんが、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒(酒や熱湯)で住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したと言われています。

ペスト菌はヨーロッパに常在し、流行を繰り返しました。

中世ヨーロッパにおけるペストの第二のパンデミック。
ポーランドでは被害が発生しなかった?

ペストのパンデミック
①541年から750年にかけて最初のパンデミックが起こり、エジプトから地中海(ユスティニアヌスのペスト)および北西ヨーロッパに広がった。
※後期アンティーク小氷期の3つの火山爆発と関係しています。

②2回目のパンデミックは1345年から1840年にかけて、中央アジアから地中海、ヨーロッパ、中国にも広がりました。

③1866年から1960年代にかけての3回目のパンデミックで、中国から世界中のさまざまな場所、特にアメリカ西海岸とインドに広がりました。

14世紀のパンデミック後、新たな宗教熱と狂信 (Fanaticism) が広まり、ヨーロッパでは多くの人が「疫病は、罪に対する神罰」だと信じていたため、神の赦しを得るために感染爆発の理由探しをし、ユダヤ人、修道士、外国人、ハンセン病患者、ロマーニ(ジプシー)などが疫病を広めた犯人として殺害されたりもしました。
ストラスブール大虐殺(1349年)では、約2000人のユダヤ人が殺害されています。

17世紀のペストは、凶作と飢饉が続く中での流行となったため、多大の犠牲をもたらしました。
1629年から翌30年にかけてフランスやイタリアを襲ったペストでは、南仏のディーニュという町で、人口1万人のうち8,000人から8,500人が亡くなり、イングランドでは1664年から翌1665年にかけて、当時46万と推定されるロンドン市民のうちおよそ7万人が亡くなったそうです。

宗教戦争

危機が始まったと言われる1620年代で私が思い出すのは、イングランドの宗教改革とピューリタンのアメリカ移住がさかんに行われていたことです。
この時のピューリタンの移住が、のちのアメリカ建国に繋がって行きます。

日本は江戸時代の始めのほうで、1623年にカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件(元和の大殉教)、1637年に有名な島原の乱が起きています。

同じころに、ヨーロッパと日本でキリスト教がらみの争いが起きているのは興味深いです。(後述)

ヨーロッパでは、17世紀中、戦争のなかった時期はわずか4年と言われています。
代表的なものでは、
オランダ独立戦争(八十年戦争)(1568年-1609年、1621年-1648年):スペインに対するネーデルラント諸州の反乱から始まった戦争。
・三十年戦争(1618年-1648年):ボヘミア新教徒の反乱を契機に起こった神聖ローマ帝国内の宗教戦争が、ドイツを中心に全ヨーロッパを巻き込んだ紛争に発展。
フランス・スペイン戦争(1635年-1659年):マントヴァ継承戦争(英語版)に引き続き、フランスがスペインに宣戦して起こった。
ポルトガル王政復古戦争(1640年-1668年):スペイン帝国とポルトガル王国との間の戦争。
・大北方戦争(1700年-1721年):スウェーデン王国と反スウェーデン同盟(ロシア、デンマーク、ザクセン公国)との戦争。
スペイン継承戦争(1701年-1713年):スペイン王位をめぐるヨーロッパ諸国間の王朝戦争。ハプスブルク帝国、オランダ、イギリス、プロイセン、ポルトガルなどが反仏側で参戦。

ドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台に1618年に始まった三十年戦争は、はじめはカトリックとプロテスタントの宗教戦争だったのが、周囲の国々の参加が増えるにつれ大混乱になっていきました。
規模の大きさや影響の深さも含め、あらゆる意味で17世紀の「ヨーロッパ大戦」と言われています。
三十年戦争を通して、ドイツは800万人以上の死者を出したそうですが、死者のほとんどがローマカトリック側でした。

戦争が長引けば、当然、国土は荒廃し、疫病が流行り、死者が増え、国力が低下します。それはドイツだけのことではありませんでした。
農作物の不作が続き、経済が停滞し、魔女狩りという名目で女性迫害や異端の排除が大規模に行われた結果、社会不安が増大しました。

魔女狩りの背景には、女性への敵視や金銭目当て(被告の財産を没収する)など多くの要因が絡んでいました。

魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀で、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、魔女の告発が行われても肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化していたため、無罪放免というケースが増え、魔女裁判そのものが機能しなくなったそうです。
1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であると言われています。

一揆、暴動、革命も多発

途切れぬ戦争により従来の封建制的なシステムが崩れ、資本制が拡大するようになっていきます。王室は財政難を打開するため中央集権化を進めようとしましたが、これに貴族が反発し、農民も一揆を起しました。

代表的なものとして、
・1640年、バルセロナを中心とするカタルーニャでスペイン絶対王政からの分離運動(「収穫人戦争」)
・同年、ポルトガルでもスペインからの独立運動であるポルトガル王政復古戦争(喝采戦争)
・1641年、アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟)によるイギリス絶対王政に対する反抗、アイルランド反乱が起こり、アイルランド同盟戦争(1641年-1653年)に発展。
・スコットランドでは、チャールズ1世の宗教政策に対する主教戦争が1639年、1640年の2度にわたって起こり、1642年にはイングランド内戦(清教徒革命)にと発展。

多くは、政府が宗教政策を地域住民に強制した場合、あるいは増税や新税を課したときに起きました。

アイルランド反乱、清教徒革命などはペスト、発疹チフス、天然痘の流行と切り離して考えることはできないとも言われます。

サイモンとガーファンクルの『スカボロフェア』に歌われたスカボローは、
イングランド内戦のときに王党派が立てこもったスカボロ城(廃墟)が残っています。

商工業の不振と貨幣の改悪

17世紀の危機では、寒冷化、食料不足、疫病のほかに、商工業の不振もありました。原因として、アメリカ大陸の植民地化が本格的に始まり、その結果として富がヨーロッパに引き込まれ、インフレが起きました。
また戦費調達のために行われた通貨の改悪、課税の強化などがあり、さらに疫病パンデミックが追い打ちをかけたようです。

貿易が盛んな地中海沿岸部では、ペストや発疹チフスの襲来に悩まされてきたため、疫病の流行を食い止めるための検疫システムが導入されました。
マルセイユの大ペスト

感染症の流行地から入港した船舶は、健康証明書を必要とし、所持していない場合は指定区域に40日間留め置かれた。
異常のないことを証明しないことには商人・人夫も商品も上陸を認められず、多くの業者が商品を目の前にして40日間待機させられた。
これが流通経済の上では大きな障害となり、貿易業者の受けた損害も膨大なものだった。

疫病の予防措置が、物流経済に深刻な打撃を与えたわけですね。最近も、似たようなことがありましたね。

また戦争が長引いたことにより財政がひっ迫した権力者が、戦費調達のために用いた安易な手段が貨幣改悪でした。戦争の惨禍とともにいっそうの混乱を招いたと言われています。
(我が国の「目に見えない増税」も戦費調達か?)

銀行券、中央銀行の成立
主にスペインで、アメリカ大陸からもたらした金銀が一因となり、16世紀に価格革命と呼ばれる現象が進みました。
金銀価格は高騰し、人々は盗難や磨耗の危険を避けるために貴金属細工商に金銀を預け、預り証として証書(銀行券の原型)を受け取りました。

ヨーロッパで最初の紙幣は、スウェーデンで発行されました。スウェーデンは戦費によって財政が疲弊して金銀が不足していたため、その代わりとして民間銀行のストックホルム銀行(1657年)が銀行券を発行しました。
のちにストックホルム銀行は破綻し、初の中央銀行であるスウェーデン国立銀行の設立(1866年)につながりました。
スウェーデン国立銀行は、現存する世界最古の中央銀行です。

氷上の風景(オランダ)17世紀前半

危機に巻き込まれなかったオランダ

オランダ(当時はネーデルランド)は、気候変動により川や運河の凍結や、八十年戦争があったにも関わらず、経済的に発展しました。
理由として、香辛料貿易やバルト海貿易により大きな利益を上げることができたからと言われています。
そのため「オランダ黄金時代」と呼ばれています。

オランダ黄金時代のきっかけには、八十年戦争中の1585年8月17日の(現在はベルギーの都市である)アントウェルペンアントワープ)の陥落が関係していると思います。

八十年戦争は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して起こした反乱。
これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある。

八十年戦争は、オランダの独立戦争であると同時に、カトリックとプロテスタントの宗教戦争でもありました。
16世紀の宗教改革以降、ネーデルランドはカルヴァン派(プロテスタント)が多くなっていましたが、カトリックのフェリペ2世(1527年5月21日 - 1598年9月13日)がプロテスタントを弾圧したため、ネーデルラント諸州は1568年に反乱を起こしました。

アントワープは反乱の中心地でしたが、スペインに降伏する際、すべてのプロテスタント信者に市を退去するまで4年間の猶予が与えられました。
南ネーデルラントはカトリックの勢力が強く、スペインの支配下に留まることになり(現在のベルギー、ルクセンブルク)、プロテスタントの多くは北に移動し、アムステルダムに住み着きました。

アントワープから移住してきたプロテスタントは、(宝飾加工の)熟練工や、豪商が多く、それまでアントワープが支配していた地中海交易や新大陸アジアからの交易をも手に入れ、小さな港町だったアムステルダムは、世界で最も重要な港町、商業の中心となっていたのです。

またオランダは宗教に寛容的だったため、他国からの宗教的難民、特にポルトガルからレコンキスタを逃れてきたユダヤ人、1685年フランスのナントの勅令の廃止により多くが店主や科学者であった多数のユグノー(フランスのプロテスタント)の移住者を受け入れました。

八十年戦争には、共和政国家の独立という側面と、スペインとオランダの大航海時代における通商圏をめぐる戦いという経済的な側面もありました。

1602年、オランダ東インド会社 (Verenigde Oostindische Compagnie, VOC) が設立され、オランダがアジア貿易を独占することとなり、この状態が2世紀にわたって続き、17世紀の世界最大の営利会社となりました。
香辛料が大量に輸入され、巨額の利益をもたらしました。
1609年に、中央銀行の前身にあたるアムステルダム銀行が設立されました。

日本も1600年にオランダの商船が日本に漂着したことから、オランダとの交流が始まりました。徳川家康の死後「鎖国」が始まりましたが、オランダだけは引き続き貿易が許されていました。

出島
1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、1641年から1859年まではオランダ東インド会社を通して対オランダ貿易が行われた。

日本の貿易相手が、ポルトガル(カトリック)からオランダ東インド会社(プロテスタント)に変わったことも興味深いです。
オランダ東インド会社は、島原の乱(カトリック)の制圧も支援していたそうです。

とすると、家康がキリスト教(カトリック)を禁止したきっかけになったという、1609年と1610年のポルトガル船マードレ・デ・デウス号(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号)とキリシタン大名有馬晴信のトラブルもなんだか、デッチ上げの策略のような気がするのは私だけでしょうか。
(またの機会に掘り下げたい)

アムステルダムの紋章の意味も気になる

1621年には、オランダ西インド会社が設立され、外国人からも多くの投資があったそうです。西インド会社は、アフリカの黒人奴隷をポルトガル領ブラジルの砂糖プランテーションで働かせ、その砂糖をヨーロッパで売るという三角貿易で利益を上げていったのでした。

ハプスブルクの三十年戦争(1618年-1648年)の終結と同時に、ネーデルランドの独立が認められ、ヨーロッパの宗教対立が決着したと見られています。

バロック美術と科学革命

17世紀は、文化史ではルネサンスを経て中世から近代へと移行する緩やかな転換期で、バロック美術科学革命が展開した時代でした。

バロック美術は、ルネサンス期の均衡のある構成より、意図的にバランスを崩した動的でダイナミックな表現が好まれました。宗教改革を経たカトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や絶対王政の確立を背景にした美術様式であるといわれています。

バロック絵画の代表的な画家は、スペインのベラスケス(1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)やネーデルランドのルーベンス(1577年6月28日 - 1640年5月30日)、オランダのレンブラント(1606年7月15日 - 1669年10月4日)などが挙げられます。

レンブラントの『夜警』

科学革命では、ガリレオ・ガリレイ(ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571年12月27日 - 1630年11月15日)、アイザック・ニュートン(グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)の名が挙がります。

科学革命は、キリスト教的世界観をくつがえした一方、多くの技術革新を導き、18世紀における蒸気機関の開発、さらには産業革命へとつながりました。

哲学者ルネ・デカルト(1596年3月31日 - 1650年2月11日)の存在も大きかったと思います。デカルトの『方法序説』は世界の見方を大きく変えたと言われています。
そういえば、デカルトが亡くなったのは、スウェーデンのクリスティーナ女王に招かれて出向いたストックホルムで、60年ぶりといわれる寒波に当たり肺炎を起こしたのが原因と言われています。

デカルトとスウェーデン女王クリスティナ

西洋占星術の視点では、17世紀の始めは「水の時代」の大航海時代の終わりと、小氷期による寒冷化で様々な混乱が起きた「火の時代」の始まりと見ることが出来ます。

そして科学革命の影で、西洋占星術は衰退していきました。
紀元前2,000 年頃にバビロニアとカルデアで生まれた占星術は、12世紀から 13世紀にかけて中世ヨーロッパに伝わりました。
ルネサンス期(14世紀~16世紀)の占星術師は、政界に影響力を持ち、占星術は大学で教えられていました。(リベラルアーツ)。
しかし、三十年戦争などによる社会不安の強まりから、占星術師は人々の恐怖につけ込むペテン師とみなされるようになり、また教会の統制と合理主義の発展により占星術の評判はさらに悪化していきました。

17 世紀後半から 18 世紀初頭にかけては、新しい唯物論と機械論的哲学により、占星術は排除されていくのです。デカルトの『方法序説』も、占星術の演繹的な側面とは完全に矛盾していました。
18世紀の啓蒙主義では、占星術は合理主義と専制主義によって笑いものになり、占星術師は隠れて偽名で活動していたそうです。

占星術が再び信じられ始めたのは、19世紀になってから。占星術の復活は、意外なことにイギリスではなくドイツから始まったそうです。
1811年、ゲーテは自身のホロスコープについて回想録に書き、占星術を学んでいることを明らかにしました。
ドイツのロマン主義者たちは、占星術を再び生き返らせることを望んでいました。おそらく、神智学ゴ-ルデンド-ン薔薇十字団などの結社のメンバーによって支持されたのだと思います。

次の18世紀は「火の時代」の後半、産業革命と市民革命の時代になります。

今日はこのへんで。最後までお読みくださりありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?