メリーランドとボルチモア男爵*Part1
3月26日にアメリカ・メリーランド州ボルチモアの港で、港湾にかかる橋に貨物船が衝突して橋が崩落したニュースがありました。
たまたまXを見ていたら速報で動画が上がってきて、CGみたいにあっさり壊れてしまったので驚きました。
この橋の名前はFrancis Scott Key Bridgeフランシス・スコット・キー橋。
珍しい名前の橋だなぁと思って調べたら(私はすぐ調べるクセがあります)、アメリカ国歌"The Star-Spangled Banner"(星条旗)の作詞者にちなんでつけられた名前でした。
あっ!と思ったのは、前回、1811年、1812年のニューマドリッド地震について書いたときに「星条旗」のことを書いていました。
この事故が「ボルチモア」で起きたということが、たまたまなんでしょうけど、たまたまとも言い切れない感じがしませんか?(陰謀論?(笑)
フランシス・スコット・キーについては別記事で書きたいことがありますが、この記事ではボルチモアの成り立ちについて書いていきます。
ボルチモアは英国人の名前
ボルチモアの名前は、イギリスのメリーランド植民地建設の立役者である第2代ボルティモア男爵のセシル・カルバートに由来します。
ボルティモアは、「大きな家の町」を意味するアイルランド語「baile an thí mhóire」を英語化したものです。
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イングランドで宗教的迫害があった時代、メリーランドはアメリカ大陸でのカトリック教徒の避難場所となるはずでした。
「あれ?」と思った方もいらっしゃるでしょうか。
アメリカの歴史では、17世紀に信教の自由を求めてイギリスから移住してきたピューリタン(プロテスタント)の分離派=ピルグリムファザーズが主に取り上げられます。
しかし、イギリスではピューリタン以上にローマ・カトリックが迫害され差別を受けていた時期がありました。
ローマ・カトリック教徒は公職に就くことを許可されず、1666年のロンドン大火は彼らのせいにされたといいます。
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イングランド国教会の同調圧力
セシル・カルバートの父初代ボルティモア男爵ジョージ・カルバートは、国会議員で、 1617年にナイトの爵位を授与され、ジェームズ1世の下で国務長官として成功していました。
ジョージが生まれたカルバート家はローマ・カトリック教徒でしたが、カルバート家はイングランド国教会(プロテスタント)に同調するように圧力をかけられていたため、ジョージと兄弟たちは全員イングランド国教会の儀礼に従って洗礼を受けました。
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イングランド国教会の設立は16世紀
イングランドは、597年にカンタベリーのアウグスティヌスがケント王国にローマカトリックを布教し以後、ローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会に属していました。
しかし、16世紀の国王ヘンリー8世(1491年6月28日 - 1547年1月28日)から娘のエリザベス1世の時代にかけて、独自のキリスト教であるイングランド国教会を設立し、ローマ教皇庁から離脱しました。(1534年)
これにはヘンリー8世が、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚するためにはローマ教皇の許しが必要だったが、許しがもらえなかったためローマ・カトリックを辞めたとか、教会税を払いたくなかったからだとか、いろいろ興味深いです。
結局、ヘンリー8世は、愛人だったアン・ブーリンと再婚することが出来たのですが、3年後、アン・ブーリンは反逆罪と姦通罪で処刑されてしまうのでした。ヘンリー8世は、ほかに好きな女性が出来て、アン・ブーリンが邪魔になったような感じもします。
そのあともヘンリー8世は、結婚離婚を繰り返し。6回結婚しました。
ヘンリー8世はワガママだけではなく、情熱的で才能あふれる魅力的な人でもあったようです。
ヘンリー8世が始めた宗教改革により修道院解散が行われた結果、教会の廃墟が今でもイギリスには残っています。
これは私の得意分野?なので、また別の機会に詳しく取り上げたいです。
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火薬陰謀事件(国王暗殺未遂)
1603年に即位したジェームズ1世はイングランド国教会を支持したため、ローマカトリック教徒やピューリタンの分離派(1620年にメイフラワー号に乗った人たち)と国教会派の対立が深刻化しました。
ローマ・カトリック教徒だったガイ・フォークスらが、ジェームズ1世を暗殺しようとした火薬陰謀事件(1605年11月5日)の背景には、そういった宗教対立があります。
ガイ・フォークスについては以下の記事に書いています。
イングランド国教会の締め付けを嫌い、ピューリタンの非国教徒は信教の自由を求めてメイフラワー号に乗ったのです。
それゆえアメリカでは、メイフラワー号は自由の象徴とされています。
しかし、彼らはイギリスを捨てたわけではないんですよ。アメリカに移住しても英国王に忠誠を誓っています。メイフラワー誓約
メイフラワー号に乗っていた人たちについては、そのうち詳しく書きたいです。(下書きは、1年以上前からあるんですけどね)
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カルバート家は代々ローマ・カトリック
話を戻して・・・
カルバート家の祖先は、フランドル(現在のベルギーの英仏海峡を挟んだ現在のオランダ語圏)からイギリスに来たと言われています。
もともとカルバート家はローマ・カトリック教徒でした。
ジョージの父、レナードはジョージが生まれた1580年頃からヨークシャー当局に度重なる嫌がらせを受け、イングランド国教会の礼拝への出席や、子どもたちにプロテスタントの家庭教師をつけることを強要され、またカトリックの使用人を雇うことを禁じられたそうです。
そんな風に育てられたせいか、ジョージはプロテスタントを上手に装っていたのかもしれません。
女王エリザベス1世とジェームズ1世に信頼され、重臣として仕えていた初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル(従兄弟がフランシス・ベーコン)の秘書官をジョージは務めました。1601年~1603年頃のこと。
ジョージはジェームズ1世にも気に入られ、国王代理として多くの外国大使館を訪問したり、1610年のルイ13世の戴冠式ではフランス宮廷への大使を務めるなど、大出世をしました。
ジェームズ1世は1623年、ジョージの忠誠心に報いてアイルランドのレンスター州ロングフォード郡に930 ヘクタールの土地を与え、そこは「ボルチモアの邸宅」として知られるようになりました。
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チャールズ1世の治世が始まる
ジョージは、1625年、45歳のときに政治家を辞任しました。
ちょうどジェームズ1世が逝去し、チャールズ1世が王位を継承した年です。
辞任のきっかけになったのは、1621年にチャールズ1世とスペイン・ハプスブルク家(カトリック)王女の縁談が国王ジェームズ1世から提案されましたが(国王は王女の持参金目当て)、それを議会が「カトリックと親戚になるのはどうなのか」と反対しました。
ジョージは親スペインの立場を取り、カトリック教徒に対する刑法の緩和を擁護した結果、周囲から孤立してしまったことが関係しているようです。
ジョージは辞任後にローマ・カトリック信者であることを公言し、子どもたち全員もローマ・カトリックに改宗しました。
結局、チャールズ1世とスペイン王女の縁談はまとまらず、両家に確執が生まれることとなり、英西戦争 (1625–1630)にまで発展しました。
チャールズ1世はフランス王ルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスと結婚したのですが(1625年)、彼女もローマ・カトリック教徒だったため、またしてもチャールズ1世は議会の反カトリック派の反感を買うことになりました。
のちに宗教をイングランド国教会統一化するためピューリタンを弾圧したことからイングランド内戦(清教徒革命)が起きて、最後はチャールズ1世は処刑されてしまうのですが。
チャールズ1世とスペイン王女、王妃ヘンリエッタの話、熱く熱く語りたいのですが、長くなるのでこのへんでやめておきましょう(苦笑)
カナダのイギリス人植民地*アヴァロン
ジョージ・カルバートは、公職を辞任後アイルランド貴族院のボルチモア男爵に叙されました。
ジョージはアメリカ大陸の植民地化に関心を持っていました。
最初は商業的な理由からでしたが、後にイギリスの反カトリック主義により迫害されたアイルランド人やイギリス人のカトリック教徒のための避難所を作ることにしました。
最初、彼はニューファンドランド島(現在のカナダの東海岸沖)のイギリス人による最初の植民地となったアヴァロン植民地を所有し、フェリーランドに本部を置きました。
その土地は、1610年代にロンドン・アンド・ブリストル会社に勅許状で与えられ、彼らは1616年まで独占権を保持していましたが、作家のウィリアム・ヴォーン卿がニューファンドランド島南部をロンドン・アンド・ブリストルから購入し、1620年にジョージはウィリアム・ヴォーン卿から土地の一部を購入しました。
ジョージは、英国の伝説的な場所にちなんでアヴァロンと名付けました。
1623年4月7日付けで、ジェームズ1世からアヴァロン勅許状が付与され、フェリーランドはニューファンドランドで最初の成功した植民地となり、1625年までに人口は100人に増えました。
1628年、アヴァロン植民地に滞在していたジョージは、三十年戦争の一環である英仏戦争(1627–1629)の影響がニューファンドランド島まで広がったため、自分の船アーク(箱舟)号とダヴ(鳩)号でフランスの攻撃を撃退しなければなりませんでした。
その年、初めてアヴァロンで冬を過ごしたジョージは、この地が海も凍る極寒の地であることを知りました。
アヴァロンの住民は寒さと栄養失調にひどく苦しみ、ジョージの仲間数人が亡くなり、入植者の半数が一度に病気になったそうです。
ジョージは8月になってようやく子供たちをイギリスに帰国させ、彼は妻と召使とともにさらに南にもっと人々が暮らしやすく、たばこ栽培に適した土地を探しに出かけました。
1629年秋に、バージニオア州ジェームズタウン(植民地)に到着しましたが、そこはカトリックに激しく反対している植民地だったため、ジョージ一行は立ち去らねばなりませんでした。
ジョージは新しい勅許状を申請するためにイギリスに戻り、ロビー活動の結果1632年にようやく願いが叶い、ポトマック川の北に新しい土地を払い下げられました。その土地がメリーランドでした。
メリーランド植民地
勅許で与えられた名前は"Terra Mariae, anglice, Maryland"だったため、メリーランドの名前は、イングランド国内で禁じられていたカトリック信仰の擁護者的存在であった王妃ヘンリエッタ・マリアの名前にちなんでいます。
ところが1632年、ジョージは勅許状が届く前に没したため、息子のセシル・カルバートと弟のレナードが父の意志を継ぎました。
メリーランド憲章
メリーランド植民地は、1632年6月20日に正式に制定されました。(メリーランド植民地)
最初の入植者は、カトリック教徒とプロテスタント信者、イエズス会のアンドリュー・ホワイト神父など聖職者2人が含まれた約200人でした。
興味深いことに、wikipediaには最初の入植者はカトリックとプロテスタントの数はほぼ同数だったと書かれているのに対し、ほかのサイトにはカトリック教徒だったのはわずか17人だったと具体的に書かれていました。
彼らは、父ジョージの持ち船だったアーク(箱舟)号とダヴ(鳩)号の2隻の船に乗って到着しました。
メリーランド憲章は、法的に国王から土地を賃貸するものであり、それに対してカルバート家が支払うものは発見された金と銀の5分の1と、毎年復活祭にウィンザー城にインディアンの矢2本を届けることでした。
この憲章はメリーランド州をプファルツ領(特別な権限と自治権を享受している世襲貴族によって統治される地域)として確立し、カルバートの子孫に独立国に等しい権限を与えられ、戦争を行う権利、税金を徴収する権利、植民地貴族を設立する権利が含まれました。
セシルは植民地の統治に密接にかかわっていましたが、弟のレナード(1606年-1647年)を植民地総督に任命し、セシル自身はメリーランドには一度も行かなかったと言われています。
カルバート家の政策と経営によって、メリーランドの繁栄は目覚ましいものでした。たばこ栽培は、メリーランド州の富に貢献しました。
イングランド内戦余波
イギリス本国ではイングランド内戦(1642年から1651年までの9年間)が始まり、その影響はアメリカの各植民地にも及びました。
国教会からの圧力も高まり、本国に留まっていたピューリタンと分離主義者はニューイングランドのプリマス植民地とマサチューセッツ湾植民地に移住し始めました。
(ケネディ家が移住したのもこのあたりでしょう)
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カルバート家は、メリーランド植民地を宗教的迫害から逃れてきた英国カトリック教徒の避難所とするつもりでしたが、結局のところ英国王に勅許された英国国教会の植民地であり、すぐに国教会とピューリタンの新参者の数がカトリック教徒よりも増えていました。
イングランド内戦が起こるまでは平和が保たれていましたが、内戦によって宗教的な亀裂が生じ、カトリック教徒が差別や嫌がらせを受けるようになりました。
1647年レナードの死後、プロテスタントが植民地の支配権を掌握しました。
セシルはすぐに権力を取り戻しましたが、法律で明確に規定されていない宗教的寛容は脆弱であると認識しました。
セシルは人々が互いに仲良くなれるようにと思い、メリーランド寛容法(宗教に関する法律)を起草しました。
キリスト教徒に信教の自由を認める初期の法律の 1 つであり、初代ボルチアモ男爵ジョージが植民地に思い描いていた精神を具体化したものでした。
メリーランド寛容法は1949年4月21日に制定されましたが、議会はプロテスタント議員が優勢になっていたため、この法律は逆にプロテスタントに有利になっていくのでした。
本国の余波で、1655年3月25日にメリーランド州アナポリスで、ピューリタンの軍隊と領主政府に同調する勢力の戦争が起きました(セヴァーンの戦い)。
セヴァーン川の戦いの背景には、プロテスタントの数が着実に増加していたことが関係しています。
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カトリックが非合法化される
1688年の名誉革命で、カトリックのジェームズ2世が退位させられ、ジェームズ2世の娘メアリー2世と、その夫でプロテスタントのオランダ総督オラニエ公ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド国王に即位しました。
メリーランドでは、ピューリタン・プロテスタントが寛容法を取り消し、公の場でのカトリック信仰の実践を禁止しました。
1702年には植民地にもイングランド国教会が公式教会として設立されました。
ボルティモア男爵家はカトリックだったため、名誉革命によりメリーランドへの権利を失うことになりました。
1689 年に発布された権利の章典(Bill of Rights)により、植民地に対する王室憲章が撤回され、英国王室による直接統治が始まりました。
メリーランドにおけるプロテスタント革命
第2代ボルチモア男爵セシル・カルバート(1605–1675) の死により、息子チャールズ・カルバート(1637年8月27日 – 1715年2月21日)が、第3代ボルチモア男爵を継承しました。
チャールズは1684年にイングランドに戻っていましたが、名誉革命でメリーランドの権利を失ったため二度と戻ることはありませんでした。
メリーランドのプロテスタントは、この時までにかなりの多数派となっており、彼らはローマ教皇の策謀を恐れて領主政府に対する反乱を組織し始めていました。
プロテスタントの君主ウィリアム2 世とメアリー 2 世が王位に就き、新体制となったことがメリーランド植民地に届いていなかったのも災いしたようです。(ボルチモア卿は、すぐに使者をメリーランドに派遣していましたが、旅の途中でその死者が亡くなってしまったとか)
ほかの植民地が次々と新しい主権を宣言する中で、メリーランド州は出遅れてしまいました。
プロテスタントは、領主政府には新国王と女王に対する支持が欠如しているとみなし、副知事であった農園主のヘンリー・ダーナル大佐のようなカトリック教徒が公的権力の地位に優遇されていることにも憤慨していました。
1689年夏、700名の武装したピューリタン(プロテスタント協会と称して)が、ヘンリー・ダーナル大佐が率いる領主軍を破り、カトリックを非合法化する新政府を樹立しました。
1704年には「この管区における教皇の増加を阻止するため」の法律が可決され、カトリック教徒は公職に就くことができなくなりました。
初代ボルチモア卿が願った「カトリックの避難場所となるコミュニティ」は50年で完全に消滅してしまったわけですね。
その後1715年に、第5代ボルティモア男爵チャールズ・カルバートにメリーランドの権利が戻ることになるのですが、チャールズ・カルバートは(政治的野心のために)国教会に改宗したので、戻ることが許されたのでした。
それについては長くなるので、次回にまわします。
ボルチモア男爵は18世紀には途絶えてしまったのですが、州章に紋章が引き継がれているように、メリーランド州にはボルチモア郡、カルバート郡、セシル郡、チャールズ郡、フレデリック郡など、ボルチモア男爵を称える地名や名前のついた通りが数多くあります。
ボルチモア男爵カルバート家の功績は、メリーランド州全域で今も敬意と共に伝えられているように思います。
来週になりそうですが、次回はボルティモア男爵家子孫と「星条旗」の作詞者フランシス・スコット・キーとの関係も書きますね。
英王室も関わってくる内容なので有料にすると思います。ご了承ください。
それでまた近いうちに。
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