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メッセージ・イン・ア・ボトル|『B Corpハンドブック』日本語版あとがき 【文=若林恵】

よき「市民」であることと、わたしたちの「仕事」や「ビジネス」は、暮らしのなかでいったいどのように結びつきあっているのか? 「賃労働」と「市民であること」は、本当に共存しうるのか──。「B Corpムーブメント」に関する日本初の本格的な入門書『B Corpハンドブック:よいビジネスの計測・実践・改善』の監訳者を務めた黒鳥社の若林恵が本書に寄せた「日本語版あとがき」を特別公開。

text & photo by Kei Wakabayashi

『B Corpハンドブック よいビジネスの計測・実践・改善』
B Corpハンドブック翻訳ゼミ=訳
鳥居希・矢代真也・若林恵=監訳
バリューブックス・パブリッシング刊

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元来人見知りで人付き合いも悪く、かつ、いたって横柄・横着な性格なため、友だちと呼べる存在が極めて少ない。その上、家族との付き合いも極めて淡白なので、社会生活と言えるもののほとんどを「仕事」が占めることになる。それはひどく偏った、お世辞にもいいとはいえない生活で、仕事がなければ廃人同然というありさまだが、そうであればこそ逆に、仕事はありがたいものだと思う気持ちは強い。それがなかったら、おそらく社会と接する回路は絶たれ、早晩孤独死でもすることになるだろう。

人が社会と関わるやり方はおそらく無数にある。家族や友人関係、近所付き合いのようなものから、町内会、マンションの管理組合、趣味のサークル、ボランティア活動、ママ友やパパ友、お店の常連等々、人は多種多様な組織やコミュニティと、浅かったり深かったり多様なやり方でつながりながら生きている。そして、それらとの関わりを通して日々社会に対して何かしらの働きかけをしたり、働きかけを受け取ったりしている。言うまでもなく、仕事というのも、そうした関わりのなかのひとつとしてある。

ワークライフバランスといった言葉が語られ、それが重視されるようになってきた背景には、(特に日本では)多くの人(主に男性)が、仕事ばかりに時間も気も取られ、その他の社会活動のいっさいを顧みてこなかったことへの反省がおそらくあるのだろう。さらに、その言葉が含意するところとしては、仕事ばっかりしていると「人生における真の豊かさ」(QOLというやつだ)が達成されない、ということもあるに違いない。

その一方で、こうした「仕事外」の活動が、実際のところ社会というものが円滑に動いていくための不可欠な「労働」となっているということもあるはずだ。子育てや介護、近隣環境の整備・補修・保全といった社会にとってエッセンシャルな活動はあるところまでは行政が執り行なってくれるにしても、サービスが手に届く最後のラストワンマイル(あるいは、それよりもっと範囲の狭い数百メートル、数十メートル)においては、結局受け手側の誰かが自発的に動かなくてはならなかったりもする。困りごとのすべてがソリューションとしてサービス化され、AmazonやUberのように即座に手元まで宅配されるわけではない。

そうした観点から見れば、多くの人(特に男性)が「経済に貢献すること=社会に貢献すること」のロジックの上にあぐらをかいて、社会を実質作動させている毛細血管にあたるきめの細かい活動を他人(特に女性)まかせにして知らん顔しているのだとしたら、そこにちゃんと参加しろというのは極めて正しい。ただでさえ、いたるところで人手が不足しているのだ。なにごろごろしながらNetflixばっか観てんだよ。詰られたら、自分のような人間は返す言葉もない。


市民にとっての「仕事」

それは別の言い方をするなら、市民社会における「市民の責務」というものと関わる話でもある。仕事をして税金を払ってりゃそれで即「市民」と言えるのかどうか。もっと積極的に社会と関わって、自分たちの生活環境を自分たちの手でよりよくしたり身の回りの困りごとを解決したりするのにコミットしてこそ「市民」だというなら、きっとそうに違いないだろうし、そうあるべきだとも思う。わたしたちはすべからく、どこかの自治体に属する市民であり、どこかの国に属する国民でもある。そこが民主主義国家であれば、主権は自分たちにあったりもするから、自分たちが生きる環境の良し悪しをめぐる責任は、ひとえにわたしたち自身にある。その責任をまっとうせずに、ぶうぶうと文句ばかり言っているわけにはいかない。

というわけでわたしたちは(特に自分は)、仕事ばかりしてないで、より自覚的な市民としてもっと社会に深く関わっていかなくてはいけないことになる。そのためにこそワークライフバランスは大事だし、そうしてこそのQOLだ。人は社会的な生き物だ。社会的に生きるべし。

ということに、自分としても(やれているかどうかは別にして)大枠ではもちろん賛成なのだが、この話には、なんだか大きな落とし穴が潜んでいるような気がしなくもない。というのも、じゃあ、そういう「自覚的市民」にとっての「仕事」とはいったい何なのか、というところがどうもいまひとつ腹落ちしないのだ。

先に挙げたような多種多様な「市民活動」は、どちらかというとボランタリーに参加するものと見なされている点で、通常「仕事」と呼ばれる民間における「賃金労働」や「ビジネス」とは明確に線引きがされ、ときに対立さえする。そりゃそうだ。何らかの市民活動・社会活動に参加するには、その前提としてとりあえず自分の生活がそこそこ維持されている必要がある。とするなら、市民が市民として活動するためには、その前にお金を稼がねばならない。「仕事があるから」という理由で、子育てや介護を含めた社会活動に十分にコミットできずにいることはよくあることだと思うが、それは必ずしもその活動をしたくないがための言い訳ではないはずだ(自分が言うときは十中八九言い訳だが)。

社会とちゃんと関わっていくためには、それに先立つお金がいる。とするなら市民として生きるための第一のプライオリティはまずもって「賃金労働」にあるということになってしまう。と言いながら世の趨勢が「仕事ばっかりしてるな」という方向に傾きつつあるのだとしたら、わたしたちは「仕事」や「ビジネス」と呼んでいるところのものをいったいどう考えるべきなのか。仕事は市民としての活動をするために原資を得るための単なる「役」に過ぎないということになるのだろうか。

これは、たとえば、わたしたちにとっての「仕事」は「パブリック(公的)なもの」なのか「プライベート(私的)なもの」なのか、あるいは政治主体としての「市民」であることと「経済主体」として仕事をすることは、わたしたちのなかでどう折り合っているのか/いないのか、といった問いとして問い直すことができるかもしれない。


「社会建設」か「自分探し」か

高度経済成長期の日本では「社会建設」という言葉が広く認識されていたと、たしか作家の橋本治が何かの本で書いていた。その認識のなかで、会社員であれ主婦であれ、多くの日本国民は自分の「仕事」というものの意義を把握することができていた、といったことが書かれていたのだと思う。みながそれぞれの持ち場において「社会の建設」に携わっているという認識をもっていたというのなら、そこにおいて「賃金労働」や「ビジネス」は、子育てや介護を含めた市民活動と等しく立派に「パブリック」なものと見なされていたということにもなる。

そして、その認識においては、おそらく政治的主体としての「わたし」は「働く・ビジネスするわたし」と齟齬なく折り合っていたということにもなるだろう。それはつまり、ひとりの「働き手」として選挙において票を投じることができたということを意味するだろうし、「市民」であることのなかに矛盾なく政治的主体であることと経済的主体であることが共存しえたということもきっと意味する。また、「建設」というメタファーは、一人ひとりの働き手が社会の「つくり手」として自分を認識することでもあるだろう。

ところが時代がくだってみんなで必死につくってきた社会がそれなりの完成を見るようになってくると、今度は、経済は「つくる」ことよりも「消費する」ことへと重心を移していくことになり、ここから「仕事」「ビジネス」というものの認識や社会的な位置付けが変わっていくことになる。「つくる」から「消費する」へのシフトは、かつて「建設員」であった市民を、徐々に「消費者」であることへとシフトさせていく。それはすなわち、市民としてのアイデンティティのありかが「つくるわたし」から「買うわたし/使うわたし」へと変わっていくことを意味する。この変化が、極めて大きな分岐だったと思えるのは、「仕事」というものが、消費者である「わたし」に奉仕するものとなっていくことで次第にそのパブリック性を失い、結果、「働くこと」の公的な意味合いや政治性が社会や政治から乖離し、浮いてしまうことになったように思えるからだ。

そのことは、政治的な文脈で見ると、「労働者」という言葉が実体性を失っていくことや、「組合」というものが政治主体としての力を失っていくこと、あるいは都市部の「市民=消費者」をどの政党も束ねることができなくなっていく(そしていまも束ねることができずにいる)といったところに端的に現れてくることとなる。

おそらく80年代を通じて起きたそうした変化によって、やがて「仕事」は「『消費を通じて得られる幸福』を実現するためにする活動」という二義的なポジションへと格下げされ、同時に、どんどん「プライベート」な領域に関わるものとして認識されるようになっていったのではないか。ありていにいうと「仕事」は「自分探し」や「自己実現」の道具でしかなくなっていったということだ。

それを堕落と嘆いてみたところで始まらない。第二次大戦の傷が生々しいなかで語られた「社会建設」のリアリティが、世代を経るごとにすり減っていったからといって誰も責めることはできないだろうし、日本が未曾有の好景気を楽しむことができたのも、高度消費社会へとシフトしたおかげだ。そのこと自体を恥じてもしょうがない(それに浮かれ騒ぎすぎたことは、いまからすればだいぶみっともなかったかもしれないが)。とはいえ、わたしたちが「仕事」をどういうものとして、自分たちの暮らしや市民生活のなかに定位できるのかという課題は、その頃以来ずっとくすぶっているように思えてならない。

仕事というものの面白さは、それを通じて日常の市民生活では遭遇しないような人と関わったり、それを通じて、一市民としては到底もたらしえないようなインパクトを、一個人の生活の範疇ではもたらしえないような遠くの人にまでもたらしたりできるところにある。その意味で、仕事は、常にパブリックな要素を含んでいるし、仕事がもたらす喜びというのもまた、そうした公共性や社会性によってもたらされるものでもあろう。そしてそれが人の生活様式や思考様式にまで多大な影響を及ぼすという意味で、本来極めて政治的なものでもあるはずだ。それをただ「個人の幸福実現」のためのツールにしている限り「仕事」は本来それがもっているはずのダイナミズムを取り戻すことはできない。「仕事」というものをどう扱っていいかわからないまま30年も40年も漫然と生きてきてしまってきたと思えば、日本経済が浮揚せぬままいつまでも低空飛行を続けていることに何の不思議もない。


「仕事」は社会を信頼しているか

というわけで不毛な「自分探し」やエゴイスティックな「自己実現」のなかで矮小化され逼塞させられていた「仕事」というものに、それが本来もっていたはずの社会性・公共性・政治性を取り戻す運動として、本書が主題とするB Corpといったものへの興味も生まれてくるわけだが、だからといって、それは「仕事」あるいは「ビジネス」というものを、すべからく公共的な活動に従属させていくことを意味しているわけではいない。

ビジネスもしくは商業活動の面白さ・ダイナミズムは、何よりもその自由闊達さにある。ひょんな思いつきをかたちにしてみたら、思わぬ反響や評判を得て、思わぬ利益を手にする。その楽しさに夢中になるためには「世界を救おう」とか「地球をよくしよう」なんていう考えはむしろ足枷にしかならない。そもそもビジネスは、自分勝手にやるからこそ楽しいのだ。そして、その楽しみのなかには「賭け」の要素が少なからず含まれる。

失敗しようと思って事業を立ち上げる人は誰もいない。誰しもがうまくいくことを願い、そうであるがゆえに大いなる情熱をもって慎重かつ入念に計画を練り上げる。このとき、その人は、願わくは多くの人が、自分の思いつきから生まれた何かを「いいね!」と言ってくれることを信じている。まだ見ぬ、来るべきお客さんを信じているのだ。これは別の言い方をするなら、社会そのものを信頼することでもある。その信頼があってこそ、人は、まだ誰も見たこともないようなものを社会のなかに放り込む賭けに打って出ることができる。

ビジネスというものに、あるいは仕事というものに美しさが宿ることがあるとしたらそこだろう。勇気と大胆さと細心をもって社会を信じ、その信頼をもって成功にいたるビジネスは、それ自体が社会の希望となりうる。逆に、そうした信頼をもち切れないがゆえに、お客さんや社会を操作しようとしたり、判断や選択を歪ませたりするような卑屈なビジネスは醜く、不快と不信をもって社会を傷つける。わたしたちの仕事が、ときにどうしようもなくやり切れないものになるのは、そうやってビジネスが社会を信じなくなるときなのではないか。

ここに、「仕事」というものをいま一度社会のなかに埋め込み直すきっかけがある。どんなものであれ、仕事はそれに価値を見いだしてくれる人がいなくては成り立たない。それは、前提として相手を必要とする相互依存的なものであり、であればこそビジネスを通じた「社会」への働きかけは、それを受け取ってくれる見知らぬ誰かの存在を絶対的に信じていなくてはならない。ビジネスにおける賭けが賭けとして意味をもつために、この信頼は不可欠だ。

あらゆるビジネスは、その意味で、誰かの手に届くことを願って無人島からメッセージの入ったボトルを海に流すようなものなのかもしれない。それは切ないまでにパーソナルで、同時に切ないまでに社会的な行為だ。



本書の最も奥深いところに流れているメッセージは、実はそういうものでもある。B Corpの企業は、言うまでもなく自分たちが信じる価値に従って「サステナビリティ」や「DEI」の重要性を訴えているが、そこで語られる価値をただ鵜呑みにして真似してみたところで、わたしたちをずっと苛んでいる問題の解決にはならない。

本書に掲載された企業群に学ぶべきは、まず何よりも、自分たちが信じる価値を臆することなく社会のなかへと投げ込む勇気と、「きっと誰かがそれを求めているはずだ」と信じて疑わない大いなる信頼だ。うまくいけば多くのお客さんだけでなく、ともに働きたい人たち、支えたいと思う多くの味方を見つけることができるかもしれないが、肝心なのは、とはいえ、それもまた「賭け」には違いないということだ。


「仲間探し」と「投企」

本書は、実のところ世界中のあらゆる企業や働き手たちがB Corp的な価値観において活動しなくてはならないと謳っているわけではない。ビジネスは前提として自由だ。法の枠組みのなかにおいては何をどうやろうが、誰にも責められる筋合いはない。サステナビリティやDEIなんてクソ喰らえだという信念をもとに活動することを誰も咎めだてできない。ただし、それはそれで賭けであり、賭け金は自分が払わなくてはならない。いくら賭け金を積んだところで、支持されるかされないかはやってみなければわからない。それはB Corpにしたって同じだ。いまの資本主義のあり方はイヤだよねと考え行動するのは自由だが「そうだよね」と返してくれる誰かがいなくては、その理念も活動も自分のなかにとどまるしかなく、持続もしない。

その意味で、ビジネスは本質的に「仲間探し」でもある。経済学者のハイエクは、社会を動かしているメカニズムを説明するにあたって「エコノミー」ではなく「カタラクシー」という言葉を用いたが、ギリシャ語に起源をもつこの語は「交換すること」「コミュニティに入るのを許すこと」「敵から友人へと変えること」を意味するのだという。社会のいたるところで人と人が何かを交換したり、コミュニティに人が出たり入ったり、敵だった人が味方になっていったりする局所的でマイクロな動きが、結果として総体としての社会にかたちを与えることになるとハイエクは考えた。そして、ハイエクのそのアイデアの根底には、社会全体を俯瞰し全的に把握した上で、その動きを管理したり計画したりすることが人間にはできないという見方があった。

この見方は、ややもすると野放しに市場原理を肯定するかのように見えるが、むしろビジネスや仕事に謙虚さをもたらすものでもある。それは、根本のところで、わたしたちが無知で無力な存在でしかないことを指摘する。社会を理解する力においても、社会に働きかける能力においても、わたしたちには限界がある。どんな巨大ビジネスであっても最初のひとりの味方を見つけるところからしか始まらないし、それがどれほど大きく育ったとしても、社会のすべてを見通した上で、すべての人に働きかけることはできない。そして、どんなビジネスであれ、どこまで支持者や仲間を増やすことができるかは、社会という謎めいた何かが決める結果論でしかなく、人はその行く末を予測することはできても決定に関与することができない。

地球環境の改善や社会正義の実現なんて巨大プロジェクトを成し遂げたければなおさらだ。そんな無謀なことは到底自分ひとりでは成しえないと深く悟るなら、地道に賛同してくれる仲間を増やしていくことでしか、それが達成されないことは明らかだろう。本書が「仲間を増やすこと」の重要性をことさら説くのは、こうした前提があってのことだ。わたしたちはそこにきれいごとの人道主義ではなく、よほど地に足のついたプラグマティックなビジネス・仕事観を見るべきだろう。

さらにわたしたちはこのことを理解するにあたって、ものごとの順序を間違えないよう注意しなくてはならない。ビジネスや仕事を成功させるために仲間が必要だと言っているのではない。ここで重要なのは、見知らぬ仲間と出会おうとする欲求が、新しいビジネスやこれまでと違ったビジネスを生み出すということなのだ。その順番を間違えると「仕事」は、途端に「意義」や「やりがい」や「何のために働くのか」という不毛な問いの答えを求めて、再びさまよいだすこととなる。

プロジェクトという言葉は、日本語で「投企」と訳されるのだそうだ。哲学者のサルトルは、それを「未来に向かって自分を投げ出すこと」だと定義したという。それは、見知らぬ誰かを求めて、自分のなかにある何かを投げ出すという、ビジネスや仕事の本来の姿にきっと似ている。サルトルに倣っていうなら、わたしたちの仕事は、未来に向かって自分を投げ出すようなものであるのがきっと望ましい。ビジネスや仕事が、自分をそこに投げ出してもいい未来として思い描かれるとき、それは喜びや豊かさをもたらすものとして、社会と個々の人生の双方のなかに、再び勢いよく流れ込んでくることになるのかもしれない。


Soundtrack for B Corp Handbook
『B Corpハンドブック』を制作していた際に、若林が思い浮かべていた曲や、本に込めたい気分やノリをセレクト&コンパイルした、極私的プレイリスト。
compiled by Kei Wakabayashi


『B Corpハンドブック よいビジネスの計測・実践・改善』
B Corpハンドブック翻訳ゼミ=訳
鳥居希・矢代真也・若林恵=監訳
バリューブックス・パブリッシング刊