回りくどいSOS

こんにちは。
お久しぶりです。小原です。
皆さんのブログの更新が途絶えてから長い月日がたったように思います。
私も最後の更新から随分と間が空きました。

このブログの皆さんの更新が途絶えたこと、それ自体に対して何か嫌な感情を抱いたり、嫌味を言ったりといった気は毛頭ありません。それは私が良い人間だと思われたいからだとか、私の更新が途絶えた言い訳にしたいからでもありません。そして、この話題に切り込むことに何の後ろめたさもないのです。

ただ、自然な流れであった。そう思うだけです。

恐らく文章、ひいては言葉というものの生活に占める意味も、それを公に示すために越えてゆかなければならないハードルも、それぞれ各人においてあまりに異なるのです。それは至極当然のことであり、最初からわかっていたことでもありました。自然と皆が書く理由を失っていった、またはもともと持ちえなかった。ただそれだけのことであるのです。

僕にとってもこのブログの存在は長らく宙ぶらりんでありました。思い返せば、僕の投稿は楽曲の紹介は添える程度であり、音楽を主題に据えることは極めてまれであったように思います。どちらかというと、僕自身の内省や逡巡の吐露でありました。

僕は文章を書くという行為を、現象世界と精神世界を連結させる儀式だと解釈しています。人間が言葉の掌の上で言葉に操られて生きている以上、文章を通して描写する行為は、あらたな、例えば情動や概念、風景や感傷の輪郭を縁どる行為です。つまり、物事を言葉を通して理解する我々にとって、心の中の不可分なもやもやとしたあれこれを、文章で描写することは、それらそのものを認識する行為と等しいということです。

何が言いたいかというと、僕が今まで投稿してきた記事すべてが自分自身と向き合うためだけの活動であり、僕のアイデンティティが最早音楽の中にないということを意味します。少なくとも僕の心に音楽は流れていません。

僕は別にnoteのアカウントも持っていますし、個人的に続けている日記もあります。自分自身と向き合うことが主目的であれば、ブログの場を借りる必要性は皆無であります。顕示欲、外聞というのはブログを書く理由においても書かない理由においても重要なファクターとなりうるでしょう。ただ、実際に皆さんに発信していた理由は、この投稿一つ一つが僕自身の現実からの抑圧、苦しみを訴える回りくどい救難信号であったからだと思います。SOSといっても何か具体的な救済を求めているわけでは一切なく、寧ろ自己完結的に、自身の悩みを具現化かつ相対化したかった、誰かとの関わりの中に自分のウィークポイントを曝してみたかった。それはひとえに、僕の社会的な人格、他者との関わりにおいての人間性のふるさとが軽音部にあったからです。この人達に包み隠さず己を開示しようとすると自然とこうなったのです。

僕がブログに、大きく言えば文章を書くことそれ自体に執拗にしがみつくのもそういった複雑な動機と反動形成によるものです。私から言わせれば皆さんは僕よりもずっと立派に現実を生きている。フワフワしていない。そんな皆さんが果たして僕と同じほど深刻に、病的に言葉に囚われているか。ブログを更新する必要があるのか、それはNOでしょう。僕たちの関係性はもはやそれを要請しません。

繰り返しになりますが、非難する意思も腹を立てる意思も、それをする権利も私にはありません。ただ何が言いたいのかというと相応の時が流れたということです。

時が流れた。物事の価値や意味は必ずうつろい、人間の心に残る手触りや重みは必ず薄れゆくのです。

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