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秋は夕暮れ

たぶん今週は僕の週だ。秋が来ている。
言の葉も紅に染まる今日この頃、いかがお過ごしだろうか。

哀愁、郷愁、愁然と。秋の心と書いて「うれう」と読む。何を愁う事があろうか、君や僕なんかが愁いたところで、秋は秋。

日が昇り、日が沈み、週は回り、月は満ち欠け。季節は巡り、時候の挨拶が移ろう。
ただ時は流れている。性質として。

生活。人が営み、育まれ枯れていく。生活、それそのものに尊さはあるのだろうか。生活が他から独立した輪廻である以上、この問いは続いていく。「活き活きと生きる」と書いて生活と読むのならば、僕は生活を送れてはいない。死んだように生きている。

全人類は死に帰結する。死とは人生の結論であるが、決して良い人生を送ったからといって良い死を迎えると言った類のものではない。死は純真で他から隔絶され屹立する。死は死。貴賤もなし。

だからと言って死せば何も残らずとニヒリズムに耽溺するわけでも、与えられた生を骨の髄まで武者振りつかんばかりに謳歌するわけでもない。たぶん、そのどちらでもないのだ。恐らく生と死を連結させるその思想そのものが見当違いだ。

確かに、どうせ死ぬなら何をやっても同じ事だ。だから、生に価値がないと論じたところで結局、人の死にも一銭の価値もあろうはずがない。

生と死は順序があるだけだ。結局は独立した2つの状態に過ぎない。生に選択権はあるが死に拒否権はない。ただそれだけのこと。

では、我々が生き抜く為にはどうするべきか。残念ながら人生の虚無感を拭い去る術は存在しない。人生とは本質的に虚無的であることはやはり疑いようがない事実だろう。ただ、人間は言い得ない人生の虚無感の毒素からの救済として、無意識的に「生活」を開発したのではないかと思う。

「生活」とは何なのか。生活の大きな2つの性質として「輪廻」と「縮尺」がある。
つまり、「生活」とは膨大な人生を目に見える形にまで縮小し、再現可能なように繰り返し行うものである。

木を見て森を見ずという言葉があるが、これは言い得て妙である。人生という長すぎるスパンは人間が簡単に思考し、眺め渡せる規模ではない。

人間は人生を視野に収まる長さまで縮小し、繰り返すという試みを思いついた。春夏秋冬、朝昼夕方夜、これらを人生の栄枯衰退に見立て、一年、一日といった小さな人生を無数に用意し、仮想的な死を体感できるようにした。

「明日がある」と人生が何度も繰り返されると自己暗示することで、人生のいずれ全て塵と化す虚無感から脱却し、ある意味では死を克服したとも言える。

我々は、毎日、人生の顛末を仮想的に体験し生き抜く術を勉強する。「今年はどうだったかな」「今日はどうだったかな」。そうやって毎日生の価値を再認識し、更新していくシステムを形成した。

夕方や秋なんかは、生活によって認(したた)められたミニチュアの人生の振り返りの時間、いわばチェックポイントだ。なんだか夕方になると叙情的になり、秋になると回顧的になる。秋の夕暮れなど尚更。ちょっと愁いてみる。そんな経験は僕にも多々あるが、僕はそれを死にゆく小さな人生の走馬灯だと解釈している。たまにその影を自身の大局の人生と重ね合わせてみることも。

さて、「生活」は人生に活きる力を与えるが、果たして本当にそれで良いのだろうか。人生の虚無感は悪なのか。生活こそが俗悪と考えることはできないか。

鬱になると生活が疎かになる。それは甚大な人生の質量と己の含蓄の矮小さ、そしてそれらを消えゆくと知りながら積み上げねばならない虚無に圧倒されるからだ。生活は毎日を悔恨なく生きることで虚無感の痛みを和らげてくれる麻酔薬として機能する。ただ、その効き目も次第に薄れ、ふと生活の持つ虚構性に気付く。騙されていただけで、何も人生の虚無は消え去ってなどいないからだ。

確かに人生を苦しみなく生きるには毎日を1日1日生きるほかあるまい。人生に意味などないなら虚無と戦う必要などないのかもしれない。生活の輪廻に身を委ねるのも悪くはないだろう。ただ、人生の虚無から逃れるということは人生そのものの重みから目を逸らすという事に他ならない。

生の価値は死によって決まらない。人生は蓄積せず霧散するものである以上、終わりをもって振り返る事で生の価値を規定することはできない。ミニチュアなら尚更だ。木を見て森を見ずだ。細部に囚われると大局を見失う。生と死は独立して存在し、互いに影響しない。

死して何も残らないのがその性だとしても、我々はやはり生きている。何も残せず生きている。

それでも僅かに仄めく人生の価値を探求するのならば、人生のそれぞれの季節で、実寸大の人生を見つめ直す他ないと僕は信じている。

今と、その実感に生きるのだ。繰り返しのない長い長い人生の一点としての今を。人生に秋は一度しか来ないのだから。


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