全速力と水分補給

 リーガルリリーというバンドがかなり好きになり、ボーカルのたかはしほのかが別のアーティストの作品に参加しているのを探していたときに見つけたのがこの曲

 むさくるしい、暑苦しい中に、幻のようにふっと現れる。汗にまみれて駆け抜ける男が、幻のような女の声によって、減速、そして再び加速していく。

 これを聴いていて、何か覚えがあるな、と思い出したのがこの曲だった。

 YUKIはいかにもマボロシらしい声をしながら、明確に幻として登場する。
 構成自体もかなり似ているから、与える印象が近いのも当然と言えば当然である。

 いやさすがに同じことを考えている人はいたようで、本人たちへのインタビューの中でしっかりと言及されていた。tetoは「好きな曲ですが、意識したわけではなく、結果的に近い印象に仕上がったのでは」と述べている。

 大汗をかきながら走り抜けるとき、その人は焦っているのだと思う、ロックにせよ青春にせよ、それは同じことだろう。何かに追い立てられて焦っているから、あたかも足を止めることは許されないかのように走っていく、その必死さが美しいというのはもちろんよく分かるのだが、そしてその「何か」というのが端的に己の死であるとするならば、その焦りは見かけよりもずっと普遍的なものであろうとも思うのだが、しかし、その走りは現実には恐れていたはずの死に向かうほかないのである、皮肉なものだ。死よりも生に焦点を合わせていたい私としては、走る足を止める抑止力の方にこそ魅力を感じてしまう。
 パンクロックは滅茶苦茶に走りながらもどこかで息切れをしてくれるから、いつもどうにか生き長らえる、カートコバーンは滅茶苦茶に走り、走り切って死んでしまった。

 JUDY AND MARYもリーガルリリーも、そういう意味では、死を回避した形でロックをやってるように見える。JUDY AND MARYは、現実の延長線上にある夢を経由して、リーガルリリーは生を嫌というほど直視する形で、それが実現されている。


 tetoにせよ銀杏BOYZにせよ、今にも死にそうというほどではないものの、生き急いでいる全速力感は、やはりそれだけではどうしても疲れてしまう。しかし、実際に私たちは生きている中で、迫りくる死に追い立てられるような実感はあるし、その実感の中で正気でいるには走るしかないのである、だが、どこかで足を止められないものだろうか、このようなユートピアへの羨望に対して、初めに挙げた2曲は絶妙に応え、そして私たちを、生き長らえさせる。
 銀杏BOYZは命を懸けるほどの恋をし、しかし彼女が幻であるからこそ、彼は深い喪失を燃え上がらせて生き長らえる。幻は死の中ではなく、生と地続きにあるのだ、だからこそ、峯田は一度止めかけた足を再び動かし、裸足で生を歌うのである。
 tetoは夏の中に見た幻を必死に追いかけ、重なっていく中で強く生の実感を持っていく。幻は実体ではないから、実際に捕まえることはできない、しかし彼は確かに幻と重なったという実感を得ており、誰もそのことを否定することはできない。ヤケクソに走っていた彼はその実感の中で、再び体勢を立て直していく。
 それぞれに、YUKIであること、たかはしほのかであることの必然性があり、私にはむしろ、アーティスト欄に記載すらされていない彼女たちがメインの楽曲であるようにすら見える(これは彼らへの批判ではなく、むしろその透明さ、不在を守り切ったことに対する賞賛である)。


 音楽が命を救うなどとは微塵も思っていない、ただ、死よりは生の方に近くあってほしいと思う。

 


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