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母の話 - 進駐軍と東京タワー

母が小さい頃は東京にはパンパンガールがいて、進駐軍がいた
「ハロー、ジョー」とパンパンは言うのだと母は言っていた
進駐軍のジープから黒人兵士がにこにこ笑って小さかった母に手を振った、その手のひらが黒くなかったのが印象的だった
そうかと思えば進駐軍のジープに追いかけられた若い女性が「助けてください」と家に飛び込んできたこともあったそうだ
小学校にはまだ給食がなく、弁当はさつまいも1つという子もいたし、弁当を持ってこられない子もいた
そういう子は「家で食べてきます」と言って、教室を出て行った
もちろん家に帰っても食べるものがあるわけでもなく、どこかをうろうろして、お腹を空かせて教室に戻った
傷痍軍人さんが物乞いをする姿も見たという
DDTをふりかけられたし、エンゼル物資ももらったし、「ものすごくまずい」脱脂粉乳も飲んだ

「オールウェイズ 3丁目の夕日」が話題になっていた頃、東京タワーの建設ってやっぱりわくわくした?と聞いてみたところ「興味なかった」と母は言った
長兄のヨッちゃんではないが、母もなかなかめんどうな感じの女子高生だったのだ
流行ってるものにのっかるのは「ダサい」という症状である
東京オリンピックも別に興味なかったそうだ

あの頃の、熱狂する民衆の映像しか見たことがなかったのでそのときは拍子抜けしたが、よく考えればそんなものだろうと思う
いくら娯楽が少なかったとはいえ国民全員が1つにまとまるなんて、ありえないのだ
だからこそ「戦争一直線」しかないあの雰囲気は人工的に無理やりゆがめられた気持ちの悪い時代だった

母が夢中になっていたのは「エルビス・プレスリー」と「おしゃれ」と「絵」だった
母は祖母に似て生まれつき心臓が悪かった
祖母よりもずっと重症で、医者から「この子は大人になるまで生きられない」と言われたそうだ
小学校では体育、運動会はもとより掃除や遠足も不参加だった
そんな母が好きだったのが絵を描くことで、中学からは美大の附属に通った

コンテ(カーボンチョーク)を使って絵を描く授業では、当時ねり消しではなく食パンをつかった
食べ盛りの年頃なので授業の前にあらかた食べてしまい、耳だけ残したので消すものだからよく消えなかったとのこと

母は、ぺんてるクレヨンが発売され、ヘレンケラーが来日し、コカコーラが上陸し、長嶋茂雄が四打席四三振をした、そういう東京を庭にして遊んだ
同学年の男子は「子どもっぽい」ので遊び相手はもっぱら大学生だった
今とは違って遊びといってもカフェにいりびたってジャズを聞くとか映画を見に行くとか、そんなことである
それが「不良」だった
今は死語だろうが「慶應ボーイ」はブランドだった
だから、おしゃれで、スマートで、颯爽としている、まさに石原裕次郎的なイメージにそぐわない慶應ボーイを彼女たちは「デモケー」と呼んだ
「これでも慶應」の略である
若い女の子というのはいつの時代も残酷なものだ

銀座の花屋の店頭で長嶋茂雄を見たときの話を母はときどきした
みんな気がついていたがオーラがすごくて誰も声をかけるどころか近寄ることもできなかった
誰に送るのか、花束を抱えている立派な体の長嶋さんの顔は夕日に照らされて、まるでやさしい赤鬼みたいに見えたという

そのまま美大を出た母はとくに美術関係の仕事にはつかなかったが、私が子どものころ父の会社の社宅に引っ越した際、マジックインキで風呂場の壁全面に絵を描いて、さらに数種類のカラースプレーで彩った
ツバ広帽子を斜めにかぶって顔を隠し、パンタロンにショートブーツを履いた女性が街を散歩している絵だった
もちろん賃貸で、もちろんダメである
今思うととんでもないことをしたものだ
四畳半の居間と2階に二部屋あるだけの小さな社宅、シャワーもついていないバランス釜の風呂だった
湯を沸かすとお湯と水がはっきり分かれるので、入る前にかきまわし棒でかきまわす必要があった
床はコンクリですのこが敷いてあって、風呂場の壁はモルタルで雑に塗ったベージュが微妙にでこぼこして、ところどころに小さい穴があいていた
その風呂場に、母はシャレた絵を描いた

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