見出し画像

人事異動の内示がありました。

人事異動の内示がありました。組織内の方針が新年度から変更され、本来、くるべき人が入れなくなったため、ポストが開いたところに、私がねじ込まれたような印象です。本当に運命的に決まった人事でした。私が行くとは私自身も予測していませんでした。当然、行くことはないだろうと思っていたところなので希望もしていませんでした。

皆さんも今の季節、様々な異動の内示を受けていると思います。希望とは異なるような内示も多かったこととも思います。(希望どおりのほうがめずらしいでしょうか。)

さて、三木清の人生論ノートを読むと希望についての冒頭の断章に面白いことが書いてあります。

 人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故(ゆえ)に、人生は運命なのである。
 希望は運命の如(ごと)きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。
 人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

三木清
人生論ノート 希望について

本当に今回の異動は偶然に決まった運命的なものでした。私が今回の異動に抱いていた希望とは今回の異動内示の内容は異なるものでしたが、三木のこと言葉を自分なりに解釈すれば、きっと新しい異動先に運命が自分に与えた希望があると言うことなのでしょう。続いての断章も紹介します。

自分の希望はFという女と結婚することである。自分の希望はVという町に住むことである。自分の希望はPという地位を得ることである。等々。ひとはこのように語っている。しかし何故にそれが希望であるのか。それは欲望というものでないのか。目的というものでないのか。或(あるい)は期待というものでないのか。希望は欲望とも、目的とも、期待とも同じではないであろう。自分が彼女に会ったのは運命であった。自分がこの土地に来たのは運命であった。自分が今の地位にいるのは運命であった。個々の出来事が私にとって運命であるのは、私の存在が全体として本来運命であるためである。希望についても同じように考えることができるであろう。個々の内容のものが希望と考えられるのは、人生が全体として本来希望であるためである。

三木清
人生論ノート 希望について

そもそも、私達が両親から生まれたところから、その人生ってある意味で運命的なのだと思います。運命の中、私達は人生を生きている。だから、今抱いている少しの希望が奪われたとしても、再び運命が新たな希望を導くのが人生なのだと思います。

#エッセイ #コラム #人生論ノート #三木清 #人事異動