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ヒロシマの話をしよう――久遠の鐘が鳴り響くこの街で

もうじき8月6日ですから、戦争と平和のこと。
苦手な方は読まない方がいいかもしれません。
これでも相当希釈して書きましたが...



私がいつも夜を見つめているのは
はじまりの前の地点にいたいからだ

ひとは
立ち上がれないほどの
衝撃を受けることがある

その瞬間には
いかなる慰めも希望も
何も届かない
絶望や、そのあとの憤怒
それらが心に芽生える直前の
ディープインパクト
"その"瞬間

さらされた人々の
ゼロの瞬間に
私はともに立っている

何もできないから
見ているだけだ

よりそえるかどうかも
わからないけれど

ひとりにはさせない
その思いで
見つめている


私のつづることばの底に横たわる
諦観と無力感と暗がり

そこには
子どもの頃から
繰り返し受けてきた
平和教育がある

それは
"平和教育"という名の
怒りであり
戦いだったのかもしれない


教え込まれた
凄惨な出来事なら
たくさん語れる

聞いた人は
胸を悪くするだろう

どこかの国の世界的ロックシンガーが
かつてあまりの酷さに
号泣したという
原爆資料館

私はそれを子どもの頃に
見てしまったのだ

それから
夏になるとまぶたの裏によみがえる
悪夢とともに
生きている
子どもの頃には
目を閉じるのさえ怖いほどだった
真夏という季節

無邪気な快晴が
その暑さが
喉の渇きが
連想のトリガーを引く

"あの日"はきっと
これを何百倍にもしたような
赤と
それから黒の日
だったのだろう、と

その年だけで
市内にいた35万人のうち
14万もの人々が死亡した

ひとりひとりの見た黙示録

ひとりひとりがその日
己の極度の苦しみの中
助けを求める誰かを
見捨てた
おびただしい数の声に耳を塞いだ
その罪の意識に
苛まれながら
最愛の人をなくした慟哭と
病気や不調にもがきつつ
短い
または長い一生を過ごした街

あるひとは声をつまらせて言った
真っ赤に燃える空を見た
あの日以来
夕焼けが怖い
75年たった今でも、と

自然のいとなみを恐怖に
美を悪夢に変えたのは
人類だ

国境の話をしているのではない
誰もが被害者であり加害者だ
そして私もそのひとり


夏になると特に
テレビやラジオから
聞こえてこない日はない
"被爆"や"戦争"
"平和"や"記憶の継承"

まざまざと思い出す

それは、平山郁夫の"広島生変図"
のような赤だったり
もっと具体的な
焦げたもの
地の底からの呼び声


夏になると
小学校の壁に貼られた遺影
恨みを呑んだその顔
私たちはそれを目の前に
給食を食べさせられた

食卓を囲んで親しく語らう場所に
死者がいた


決して風化させてはならないという
人々の...むしろ
この街そのものの意志

そして、忘れたくても忘れられなくなった
子どもがひとり


広島に住む誰もが
こんなにも
怯えを刷り込まれるわけでは
ないようなのだけど

私は駄目だった

使命感から語るわけではない
ただただ
こわいの
映像が消えないから


今でも
家から一歩踏み出せば
かつて瓦礫と屍がうずたかく
積み上がっていた地
そこに
私は住んでいる

爆風で傾いた樹を毎日見ながら

今ではもうそれも
わずかに残る爪痕に過ぎない

平和な時代に生まれて
ごめんなさいと
つぶやいて...


この街に生まれなければよかったと
思った日もあったけれど
戦争や災害、苦難を受けたことのない無垢な街は
世界中のどこにもないのだろう
人間の歴史は長すぎるのかもしれない


この街が好きと言えるようになるまでには
ずいぶん長い時が必要だった
己の傷を癒やしつつ
街の傷を愛(かな)しく思えるようになって


希望があったからでもない
復興したからでもない
傷ついたその瞬間の傷ゆえに
哀しく
いとおしい街だと思う
似たもの同士になってしまったのだろう


それぞれの地に
声すら上げられず
抱え込んだ過去がある
私にはたまたまヒロシマだった
これからもそれを
見つめていくだろうと思う
それが
ここに生きる者の務めだから

半分逃げながら
けれど
もう半分は
踏みとどまり
決して逃げない

本当は
真の平和を得て
なにもかも忘れたかった彼らに
忘れることを許さなかった
世人のひとりとして

せめて
二度と繰り返してはならないという
彼らの祈念を
わずかでも共に背負い
後世に引き継いでゆく

今現在を生きている子どもたちに
重い荷を
負わせなければならないことへの
悔恨もそのままに

"戦争"の対義語としての
相対的な"平和" ではなく
いつか
みんなで
戦争があったことすら
忘れ果てても
なにひとつ争いの起こらぬ
《ほんとうの平和》
その日が来ることを
私はまだ信じられずにいるけれど

それへのわずかな
希望のともしびとして
これからも
過去とこの街の軌跡を
抱きしめていく
弔いと
痛みとともに

私もまた
なにもかもを忘れ
手放すことのできる
その日が来るまで

* * *

なかなか公開する勇気が出ず…
個人的に傷ついた、それへの抗議だけなら、黙って胸におさめておくべきだと、長年思っていました。その頃は本当にそうだったから。

でもいまはちがうと思う…
それがうまく、質的にも量的にも
過不足なく書けたかどうか、
今ひとつ自信は無いけれど。

なにかを責めたいわけではないのだけれど、
ことばはどうしても
このようなテーマを語ると
刃のようになりがちで…

歌なら、伴奏で和らげることができても
ことばだけだとむき出しになる

でも、城南海さんの『産声』を思い出して…

最後に聞いてもらえたら
(気が向かれたら、ですが)

私のことばも和らぎ
過不足もととのえて
読んでくださった方の心も
救い上げてくれそうで。

それで、やっと踏み切れました。

私のことばより、彼女の唄の方が
よほど心に響く気がするのだけど🤔💕

こんなふうに、あなた=街 を見つめていられたらいいな、と思うような歌詞と歌声です↓↓


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#城南海

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