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「おはよう、私」③(短編連作小説 & 音楽)第3話

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第3話・青磁


 朝。
 スマホのアラームで目が覚める。
 カーテン越しに伝わる外の世界はまだ薄暗く、僕は小さくうめく。

 うう、なんだかいい夢を見てたのに。
 なんでこんな薄暗い時間にアラームが鳴るんだ。

 さらさらと崩れていく夢のしっぽを追いかけてもう一度寝てしまおうと思った刹那、今日が春休み明けの一日目であることを思い出す。

 スマホは7時を知らせていた。
 耳を澄ますとかすかに雨の音がした。外が薄暗いのは、どうやら雨のせいらしい。

 ぼうっと雨の音を聞いていると、そのまままたとろりと眠ってしまいそうになる。でも学校に行く気なら、もう起きなくては間に合わない。
 新学期早々遅刻するのも気が進まず、僕は仕方なく起き上がる。

 学校は、嫌いじゃない。
 気の合う友達は何人もいるし、勉強も運動も得意なほうで苦にならない。
 それでもこれほど気が重いのは、制服のせいだった。

 クローゼットにかかった制服を見て、僕は思わずため息をつく。野暮ったいグレーのブレザーとズボン、それにネクタイ。

 百歩、いや一万歩譲って、ブレザーもズボンもまだ我慢してもいい。でもこのネクタイ、これは一体なんなんだよ。自分の首をわざわざ締めて息苦しくさせる細長い紐。いったい誰得なんだよこれ。だっせえ、いらないだろどう考えても。

 頭の中で悪態をつきながら、遅刻したくない一心で僕はしぶしぶ制服を身につける。

 鏡に映った自分の姿は、「男子中学生です」と声高に主張している。

 僕は鏡の中の自分から目を逸らし、今日何度目かのため息をついた。

* * * *

 僕は、かわいいものが好きだ。
 服でも色でもインテリアでも、ふわふわしたかわいいものを見るとわくわくして心が浮き立つ。
 小さな頃からそうだったし、今もそうだ。

 小学3年生くらいまでは、女の子と遊ぶことが多かった。
 なかでも幼馴なじみの花音かのんとは、物心つく前から一緒に遊んだ。花音の家にあるパステルカラーのアクセサリーやふわふわしたぬいぐるみのかわいさに、僕たちはよく一緒にはしゃいだ。
 きらきらと透き通るプラスチックのペンダント、わたあめみたいなユニコーンのぬいぐるみ、古風で物語的なドレスを何着も持っている小さなシルバニアファミリーたち。

 「自分はみんなと違うのかもしれない」ということに最初に気づいたのは、小学校入学前、ランドセルを見に大型ショッピングモールに連れて行ってもらったときだ。

 ランドセル売り場に向かう途中で母さんが、「せいちゃんはどんな色のランドセルが欲しい?」と僕に訊いた。
 僕は少し考えてから答えた。「にじいろ!」
 母さんは声を上げてたのしそうに笑った。笑ったあと、「そっかぁ、そんな色のランドセルがあったら素敵だね」と言った。
 その声がどこか寂しそうだったのを、憶えている。

 ランドセル売り場には、色とりどりのランドセルが並んでいた。
 ぐるぐると見て回ったあと、「にじいろはないねぇ」と僕が言うと、母さんは「そうねぇ」と笑って「この中から選ばなくちゃね。どれがいい?」と訊いた。

  虹色のランドセルがないことには少しがっかりしたけれど、それでもランドセルはどれもぴかぴかと光って誇らしげで、僕をわくわくさせた。
 僕はピンクのランドセルを指さした。「これ!これがいい!」

 パールピンクのランドセルは、ふんわりと光を放ってとてもかわいかった。
 自分がそれを背負って小学校に通うことを思うと、心が浮き立った。 

 でも母さんは顔に戸惑いを浮かべて「うーん、その色はちょっとね」と言った。
 「どうして?」
 僕が訊くと、母さんは少し困ったように微笑み、僕の問いには答えず「他には、どれがいい?」と言った。

 他のランドセルを見渡し、僕はラベンダー色のランドセルを指さした。
 「じゃあこれ、これにする!」
 ディズニーアニメのプリンセスが着るドレスのような、淡いラベンダー色。留め具がさりけなくリボンの形になっているところも、すごくかわいかった。

 沈黙のあと、母さんははっきりと困った顔をした。
 「あのねせいちゃん、それは男の子の色じゃないんだよ」

 そうなの?男の子の色ってどんなの?
 僕の問いに、母さんは「これとか、これとか。かっこいいでしょ?」と言って、黒や紺のランドセルを指さした。

 僕はものすごく驚いた。
 なんでそれが男の子の色なの?ぜったいいやだ、そんなものを背負って小学校にいくなんて。だってそれは、ぼくの色じゃない。

 何回かの押し問答のあと、自分の主張が通らないらしいと悟った僕は、「そんなのいやだ、かわいくないもんっ!ピンクがいいっ」と、ランドセル売り場で盛大に泣いた。

 結局その日、僕はランドセルを決められなかった。
 泣きながら家に帰り、泣きつかれて昼寝をし目が覚めると、隣の部屋から姉ちゃんと母さんの声がした。

 「ピンクでもいいじゃない、せいちゃんがそこまで言うなら」
 姉ちゃんののんびりした声のあと、母さんの、少し疲れたような声が続く。
 「わたしだって別にいいわよ、男の子がピンクのランドセルでも。だけど学校で、他の子どもたちになんて言われると思う?変な子だって言われるに決まってるじゃない。それがわかってるのにピンクのランドセルを買う勇気は、わたしにはない。あの子が可哀そうだもの」

 「変な子だって言われるに決まっている」。
 母さんのその言葉の意味を、その時の僕はよく理解できなかった。
 でも母さんの声の調子から、いけないことなんだということは、なんとなくわかった。

 ピンクのランドセルをぼくがほしいと言うことは、「へん」でいけないことなんだ。

 寝起きの頭で、僕はぼんやりとそう思った。

* * * *

 15歳年の離れた姉ちゃんが、小さい頃から僕は大好きだった。
 優しくてふわふわしてて、のんびり屋の姉ちゃん。瑠璃るり、という名前は、きれいで明るい姉ちゃんにぴったりだ。
 喧嘩をしたことは、憶えている限り一度もない。

 姉ちゃんは子どもが産めない。5年ほど前、子宮を全摘出したからだ。
 これで癌が再発する可能性は低くなるのだと聞かされ、僕はすごくほっとした。

 「子どもが産めない」という事実は、小学5年生の僕にとってあまりにも遠くちっぽけな、ささいなことだった。
 そんなことよりも、姉ちゃんがまた笑って帰ってきてくれたことのほうが、ずっとずっと嬉しかった。

 でもそれ以来、姉ちゃんはときどきふさぎ込むことがあった。
 姉ちゃんが泣いているのを見たこともある。トイレに行きたくて起きた夜中の廊下で、細く開いた姉ちゃんの部屋のドアの隙間から。
 道を僕と並んで歩いているとき、姉ちゃんが突然立ち止まってベビーカーに乗せられた赤ちゃんをじっと見つめていたこともある。しんとした目を、姉ちゃんはしていた。

 そんなとき、姉ちゃんを笑わせたくて僕はいつもはしゃいだ。
 そうすると姉ちゃんは、必ず笑ってくれた。時にはまだ目に涙を溜めたまま、「せいちゃんは、ほんとにおもしろい」と言って。

 「子どもが産めない」ということの辛さは、僕には今でもよくわからない。
 でも、姉ちゃんの心の痛みがだんだん遠く薄くなってくれたらいいと、僕は願う。手術の痛みが遠く薄くなるみたいに。

* * * *

 ランドセル事件の後、僕に薄茶色のランドセルを勧めてくれたのも姉ちゃんだった。
 「冒険にでる女の子たちはほら、いつもこういう革のバッグを持っているでしょう?赤毛のアンも、ポケモンの女の子たちも」と言って。

 僕は別に女の子になりたいわけじゃなかった。ただ、かわいいものが好きなだけだ。
 でもその時の僕にはそれを姉ちゃんにうまく説明することはできなかったし、姉ちゃんの話を聞くうちに「茶色のランドセルも、わくわくしていいかもしれない」という気持ちになれた。
 なにしろ6歳の僕にとって、小学校に行くことは、実際に冒険そのものだったから。

 それでも花音の家で真新しいランドセルを見ると、胸に暗いものが広がった。
 花音のランドセルはシンデレラのドレスみたいな淡い水色で、きらきら光る透明のラインストーンがすみのほうにさりげなくついていた。
 すごくかわいい、と、6歳の僕は目をみはった。

 どうして花音ちゃんはよくて、ぼくはだめなの?

 その言葉はでも、喉の奥に引っかかって出てこなかった。
 「変な子だって言われるに決まってるじゃない」という母さんの声が、僕の喉にふたをした。
 喉が塞がったまま花音のランドセルをじっと見つめていると、胸のあたりがちりちりと熱くなった。

 あれは嫉妬だったと、今ではわかる。
 でもそのときの僕はただ、胸が痛くなったんだと思った。おなかが痛くなるみたいに。

 僕はきっと、怖い顔をしていたんだろう。
 「せいちゃん、怒ってる?」と、花音は半ば心配し、半ば怯えたような顔をした。

 花音とは小学校に入ってからも遊んだけれど、水色のランドセルを見るたびに胸に「ちりちり」がひろがることが嫌で、僕はだんだんと花音を避けるようになった。
 そして小3のクラス替えで別々のクラスになったことをきっかけに、僕らはほとんど話さなくなった。

 ランドセルに嫉妬して友だちを失くすなんて、僕は確かにどこかが変なんだろう。

* * * *

 新学期。
 独特の緊張感に学校が包まれるこの時期が、僕は好きだ。春風の匂い、新しい上履き、何かが始まりそうな予感。

 新しいクラスを確認し、「3年1組」と書かれた教室に入る。自分の席を探していると、「せーじっ」と声がした。

 顔を上げると、窓際でれんが「こっち」と手を上げ、「なんだよ、また一緒じゃん」と、嬉しそうに笑う。
 蓮の周りには、僕と同じバスケ部のやつらもいる。僕は自分の机に鞄を置いてみんなに合流した。

* * * *

 友達はみんないいやつばかりだ。
 話していて楽しいし、バカ話もすればちょっと真面目な話をすることもある。

 でも。
 僕はときどき、本当の自分をみんなに隠しているような、後ろめたい気持ちになる。

 たとえば、制服のこと。
 僕はこの制服を着ることが嫌だ。吐き気がするほど、嫌だ。
 制服を着ていると、まるでミッキーマウスの着ぐるみを着て外を歩いているような気分になる。
 別にミッキーマウスは嫌いじゃない。でもそのかぶりものを着て一日の大半を過ごすとなると、話は別だ。すごく恥ずかしいし、グロテスクだと思う。
 これは自分じゃない、と、鏡を見るたびに感じる。
 長く見ていることはできない。吐きそうになってしまうから。

 たとえば、女の子の話。
 みんなが楽しそうに見ている裸の女の人が出てくる動画や雑誌が、僕はどうしても苦手だ。気持ち悪い、と感じる。
 「青磁せいじも見る?」と見せてくれるたび、僕はどうしていいかわからなくなり、ただへらへらと笑う。冷や汗をかきながら、早くこの時間が終わってくれるようにと願う。

 そういうことを、僕は誰にも話せない。
 自分がみんなとは何かが決定的に違うらしいということを、知られるのが怖い。

* * * *

 最近僕は、夢を見る。
 少しずつ、体をつけ替えられる夢だ。

 はじめは指だ。
 一本ずつ切り落とされて、新しいものにつけ替えられる。
 痛みはない。でもものすこく怖い。

 僕は恐怖でいっぱいになり、「いやだ!」と叫ぶけれど、止めてもらうことはできない。
 「こっちのほうがずっといい」と誰かが言う。「ほら、みんなと一緒になった」と。

 指がすべてつけ替えられると、次は腕だ。
 自分が自分でなくなっていく恐怖に、「やめて」と僕は泣きながら叫ぶ。「やめて。僕はこのままがいいんだ」

 「なぜ?」と母さんが言う。「あなたのためなのよ」

 新しい腕を見て、僕はぞっとする。
 確かにみんなと一緒になった。でもこれは、僕の腕じゃない。

 「手足くらい、我慢しなよ」と顔の見えない誰かが言う。
 「きみが変だと、みんな落ち着かないんだ。腕くらい替えたって、きみはきみだろう?きみさえちょっと我慢すれば、みんなが平和なんだよ」

 僕はそんなに変なんだろうか。
 どこまでつけ替えれば、僕はみんなに許されるんだろう。どこまでつけ替えたら、僕は僕じゃなくなるんだろう。
 手や足をつけ替えた僕は、それでも僕なんだろうか、本当に?

 そう思ったところで目が覚める。
 いつも決まって泣いている。

 あれは夢だ、と思っても、僕は自分の腕を確認せずにはいられない。そこにあるのが本当に僕の腕かどうかを。

* * * *

 放課後。

 新学期1日目の今日は、部活も給食もない。
 明るい日差しがたっぷり降り注ぐ下駄箱で蓮たちと一緒に靴を履き替えていると、「せいちゃん」と後ろから声がした。
 振り向くと、花音が立っていた。

 「あ、花音」
 僕が言うと花音はほっとした顔を見せ、「同じクラス、久しぶりだね」と言った。

 「そうだね、小2のとき以来?」
 「うん、せいちゃんとは幼稚園からずっと同じクラスだったのに、小3のときに分かれちゃって、それ以来。」

 久しぶりに話した花音は、なんだか大人っぽくなっていた。
 それでも話し始めるとたちまち昔のままの空気が立ち上がり、僕は思いがけず嬉しくなる。

 まだ話し足りないといった花音の雰囲気を察して、「あ、じゃあ俺たち先行くわ」と蓮が手をあげる。

 「月曜日から部活な、忘れんなよー」と言って去っていく連を見送りながら、「なんか、ごめんね」と花音が言う。
 「いやいいよ、あいつらとはいつも話してるし、どうせ帰る方向別だから」
 僕が言うと、「うんそっか、ありがとう」と花音は笑う。

 歩きながら、僕らはいろんな話をした。
 話すのはずいぶん久しぶりだというのに、会話は不思議なほど自然だった。
 ああそうだ、こんな感じだったな、と僕は思い出す。僕がまだ、自分を隠すことを知らなかった頃の、あの空気。

 ふと、花音の鞄で揺れるキーホルダーが目に止まった。
 ピンクと水色の、ふわふわしたぬいぐるみみたいなユニコーン。

 「うわ、かわいい」
 僕が思わず声をあげると、花音は嬉しそうに目を輝かせた。
 「そうでしょ?」
 「うん、かわいい。うわ、やばー。花音は昔からユニコーンが好きだったもんね、最高じゃんこれ」
 僕の言葉に、花音は「きゃー」と歓声をあげる。
 「さすがせいちゃん、憶えててくれたの?もうあたしね、これ見つけたとき、運命だ!と思ったもん」
 「うんうんわかる、これはそう思うわー、めちゃかわいいもん」
 「でしょでしょー!これね、キーホルダーだけじゃなくて、ペンダントもイヤリングもあるんだよ、あたしお揃いで買っちゃったんだ」
 「えーいいじゃん!わあ、いいな、僕もつけてみたい」
 「え?せいちゃんも?」

 花音の言葉に、僕ははっとした。

 しまった。花音との会話が楽しくて、昔のままの空気が嬉しくて、思わず気が緩んだ。
 普通の中3男子は、パステルカラーのユニコーンのペンダントやイヤリングをつけてみたいなんて、言ったりしない。

 「せいちゃん?」
 花音が僕の顔を覗き込む。僕はもう、花音の顔を見られない。

 「ごめん、僕いま、変なこと言ったよね」
 僕が言うと、花音は一瞬黙ったあと、「変なことって?」と言う。
 「いや花音だって変だって思ったんでしょ。だから聞き返したんじゃないの?その……僕がかわいいペンダントとかイヤリングがほしいなんてさ」僕はなんだかやけくそな気持ちになって言う。「いいよ別に、気を遣ってくれなくて」

 「変だなんて思ってない!」
 思いがけない硬い声に、僕は思わず花音の顔を見る。怒ったような悲しいような傷ついたような、その全部が少しずつ混ざり合った表情が、花音の顔に浮かんでいた。

 「ちょっと待ってよ、なんで花音がそんな顔するの」
 慌てて僕がそう言うと、花音は続ける。

 「せいちゃんは、前もそう言ってあたしのこと避けたよね。僕は変だから、って」
 花音の目と声が、真剣な色を帯びる。
 「そのときのあたしは、せいちゃんが何のことを言ってるのかわからなくて何も言えなかった。けど、今はなんとなくわかるよ。せいちゃんは、かわいいものが好きで、自分でそれを、変だと思ってるんだよね。
 だけどあたしは、せいちゃんを変だと思ったことなんて一度もない。
 あたしだって、かわいいものが好きな気持ちならせいちゃんに負けないよ。二人ともかわいいものが好きなだけなのに、あたしは変じゃなくてせいちゃんだけが変なの?なにそれ、あたしが女で、せいちゃんが男だから?」

 返す言葉が見つからず僕が呆然としていると、花音は一つ大きく深呼吸した。
 「今日、下駄箱でせいちゃんに声をかけたとき、ほんとは怖かった。また避けられたらどうしようって」花音はうつむく。さらりと落ちた髪に、春の明るい日差しがはねる。
 「でも、今日を逃したらまたせいちゃんと話せないままになるような気がして、それだけは絶対に嫌で、声をかけた。だから、こんなに自然に話せて、あたしすごく嬉しかったんだよ」
 花音は顔を上げ、僕をまっすぐに見る。
 「あたし、せいちゃんのこと変だなんて思ってない。一度も、思ったことない。せいちゃんが自分のことを変だと思っていたとしても、あたしはそうは思わない。勝手に決めつけて、勝手に避けないで。」

 「ごめん」僕は思わず謝る。
 数秒間黙ったあと、花音はぱっと顔を上げた。
 「ね、せいちゃん、明日ひま?一緒に買い物行かない?」

 「へ?買い物?」僕の口から間の抜けた声が出る。
 買い物?ちょっと待って、なんの話?

 「うん、このユニコーンを買ったお店、教えてあげる。一緒に行こうよ。あたし、せいちゃんと一緒に買い物したい。かわいいものがたくさんあって、せいちゃんきっと気に入ると思う」

 どんどん明るい顔になる花音の変化に、僕は混乱した頭で考える。
 明日は土曜日で学校はない。部活が始まるのも来週からだし、もちろん暇だ。
 いや、でもだからって、なんで花音と買い物?

 「そのお店ね、このユニコーンのほかにもかわいいものがたくさんあるの。アクセサリーも洋服もある。春色のパーカーとかもあったな、あれきっとせいちゃんに似合うと思うなあ。あんなかわいい服を着て外に出たら、絶対楽しい気分になるよ。
 ね、行こうよせいちゃん、あたし、せいちゃんと一緒に行きたい」

 花音の話を聞いているうちに、自分でも驚くほど僕の気持ちは浮き立ち始めた。
 このかわいいユニコーンを売っている店の、アクセサリーや洋服。僕に似合いそうな春色のパーカー。
 どれも見てみたい、すごく。
 一人じゃ入れなくても、花音が一緒にいてくれたなら、そういう店にも入るのも不自然じゃないのかもしれない。

 「わかった、行く」
 気がつくと、僕はそう返事をしていた。

* * * *

 買い物は、信じられないくらい楽しかった。

 花音が案内してくれた店を、僕はいっぺんで気に入ってしまった。
 花音の言う通り店内は僕好みのかわいいものでいっぱいで、花音と二人で店内を見て回りながら「あれもいいね」「これもかわいい」と言い合った。

 似合うと思う、と花音が言ってくれたパーカーを、僕は思いきって試着してみた。
 「レディース」と書かれたピンク色のパーカーは実際僕によく似合ったし、学校の制服なんかより遥かにずっと、僕の気分を明るくした。
 試着室のカーテンを開けると、花音はぱちぱちと手を叩き「似合う似合う!」と笑った。

 「はー、楽しかった」
 明るい空色のキッチンカーで買ったクレープを花音と並んで食べながら、僕は満足のため息をついた。
 腕には、今日の記念にと奮発して買ったあのパーカーの入った袋が下がっている。母さんに見られることを思うと少し気持ちが沈むけれど、まあ何とかなるだろう。

 友達の前で、自分の好きなものを好きだと言えること。好きなもの見て一緒にはしゃぎ、笑い合うこと。
 そんなことが、こんなに心を満たすなんて。
 この楽しさの前には、「人からどう見えるか」なんてどうでもいいような気がした。
 こういう時間がまた必要だ、と、僕は強く思った。

 「またこういうふうにお買い物しようね、せいちゃん」
 僕の気持ちを代弁するように、花音が言った。
 「うん!」
 勢いよく僕が答えると、「あらいいお返事。昔のせいちゃんみたい」と笑ったあと、面白がるように花音は続ける。
 「あ、でもせいちゃん、あたしに恋したりしちゃだめだよ。あたしにはちゃんと、他に好きな人がいるんだから」

 僕は思わず吹き出してしまう。僕が花音に恋をする?

 自分の中にそういう気持ちがひとかけらもないことに、そしてそれを花音がちゃんと知っていることに、心が軽くなる。
 花音は僕の友達だ。ミッキーマウスになる必要のない、かけがえのない友達。

 「心配無用。花音はその好きな人に、心置きなく邁進して」
 僕が言うと、きゃはは、と花音は声を立てる。

 僕らはそのまましばらく、通りを歩く人たちを眺めた。
 渋谷には、本当にいろんな格好をした人たちが歩いている。
 長いワンピースを細身のパンツと組み合わせてお洒落に着こなす男の人、真っ赤なドレスと耳もとで揺れる大ぶりのピアスとベリーショートの白髪がよく似合うおばあさん。
 髪色だってみんなそれぞれ、金髪、ピンク、みどり、青と色とりどりだし、肌の色もいろいろだ。
 なにが普通でなにが変かなんて、このカラフルさの中で、いったい誰がどうやって決められるというのだろう。

 「あたしね、せいちゃんのセンス、すごくいいと思ってる」
 花音がふと口を開く。
 「かわいいものが好きっていうのは、せいちゃんのすごく素敵な一面だよね。だから、もしもそれを変だと言う人がいても、あたしは全然気にしない。ふうん、わかってないんだな、って思うだけ。
 でも、せいちゃんがせいちゃんのことを『変だ』って言うのは、あたしには、ものすごく悲しい。
 だからせいちゃん、もう自分のこと変だって言わないでね」

 花音の言葉を聞きながら、僕は胸がいっぱいになった。
 僕はずっと、誰かにこういうふうに言ってほしかった。
 そのことに、僕は初めて気がついた。

 「わかった、ありがとう」
 花音がくれた言葉に対してあまりにも短い返事だったけれど、僕はそう言うのが精一杯だった。
 花音は、満足そうににっこり笑う。

 クレープを食べ終え、僕たちは歩き出す。
 「せいちゃん、学校でもまた話しかけていいよね?」
 「もちろん」と答えてから、僕は付け加える。「あ、でもさ、その『せいちゃん』っていうのはやめてよね」
 「えー」花音は不服そうな声を出す。「じゃあなんて呼べばいいの?」
 「いいじゃん普通に青磁で。せいちゃんなんて学校で呼ばれたら恥ずかしいよ」
 「えー、んー、まったく思春期男子はめんどくさいなあ。せいじ、せいじ…。わかった、じゃあ、青磁くん、にする」

 くだらない話をしながら歩く夕暮れは、空気がいつもより柔らかく光って、眩しかった。

* * * *

 朝。
 パンを焼く匂い、目玉焼きが焼ける音。

 僕はいつも通り制服を着て、リビングの椅子に座る。
 制服は相変わらず鬱陶しいけれど、今朝は昨日までほど嫌だとは感じなかった。

 ふと、母さんがかけているラジオからピアノの音が流れ出し、トーストにバターを塗る手が止まる。

 朝の光の中でゆったりと鼻歌をうたうようなメロディ。
 優しく明るいその音が、部屋じゅうを満たす。

 柔らかなメロディは次第にちいさな熱を帯び、ロンドのようなリズムに変化していく。
 優しく、でも力強く凛として、くるくると踊るようなリズム。

 こんなふうに生きたい、という声が、突然鐘を打つように僕の中に響く。

 そうだ、こんなふうに、僕は生きたい。
 喜びの中で、僕自身の手足で、心が動くまま自由にステップを踏むように。

 音楽が僕の中の何かと溶け合い共鳴し、体じゅうに満ちた。あたたかい風が吹き上がるように、力が湧き上がる。

 僕の人生を生きるのは、僕だ。
 ほかの誰にも、僕のままでいちゃいけないなんて言う権利はない。自分のままで生きる喜びを取り上げることのできる人なんて、この世に誰もいない。

 他の誰かのステップじゃなく、僕自身のステップを踏んで踊ること。自分が好きだと感じるものを大切にすること。
 花音に言われるまでもなく、誰よりも僕自身が、僕にそれを許さなくちゃいけなかった。

 おまえは変だ、他の誰かの真似をしろと、無言の圧力をかけてくるこの世の中が嫌いだった。
 でも、その世の中と同じ価値観で自分を測っていたのは、本当は僕のほうだった。「おまえは変だ」と誰よりも一番耳元で言い続けていたのは、僕自身だった。
 自分で自分を「変だ」と思うことは、他の誰に思われるよりはるかに苦しいのに。

 僕は、僕のままの僕を、好きになりたい。
 強い願いが、僕を貫く。

 気がつくと曲は終わり、ラジオのパーソナリティが曲名を告げる。
 『おはよう、私』。
 それがその曲のタイトルだった。

 スマホで検索し、僕はその曲をダウンロードする。
 「おまえは変だ」という声をもしもまた受け入れてしまいそうになったら、いつでもこの曲を聴けるように。
 今のこの気持ちを、僕は僕のまま生きていいんだということを、思い出せるように。

 「あれ青磁、まだ行かなくていいの?」
 母さんの声に引き戻され、時計を見る。

 やべ、遅刻する。
 僕は朝ごはんを手早く体におさめ、玄関を出る。

 外は春の明るい陽射しに満ちていた。最高にいい天気だ。
 学校に着いたら、さっきのあの曲を花音にも聴いてもらおう。母さんや蓮たちにもいつか、自然に僕の好きなことを話せたらいいな。

 僕を変だと言うやつは、きっとこれからもいるだろう。
 でも僕が僕を「変だ」と思わなければ、そんな言葉はきっとなんの力も持たない。
 僕が僕を嫌ってしまわない限り、僕はきっと、自由なんだ。

 ふと、さっきのピアノ曲が耳に響く。

 深呼吸をひとつして、今日も遅刻ぎりぎりに教室に滑り込むべく、春風の中を僕は走り出す。


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第3話までお読みいただき、ありがとうございました。

このお話の中で青磁の心を動かしたピアノ曲、『おはよう、私』はこちらからお聴きいただけます。


歌詞のないピアノ曲だったこの曲からインスピレーションを得て、小説「おはよう、私」は生まれました。

そして嬉しいことに、この物語がまた作曲者であるJAGAさんにインスピレーションを与え、曲に歌詞がつきました。

小説と音楽を併せて作品世界を楽しんでいただけましたら、これほど嬉しいことはありません。


↓ こちらから全話まとめて読めます


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