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ガラスの眼を持つ猫を思い出して


「ガラスのブルースの『生』の部分というか、この曲をどんなふうに解釈してる?」

BUMPが好きな友達からこんなDMが届いた。
私にそれを聞いてくれたと言う事実だけでとても嬉しくて、私は今早速ガラスのブルースを流している。

書き出した今現在、ちなみにまだ答えはできてないから、書きながらまとめられると良いな。


ガラスの眼を持つ猫は星になったよ
大きな声も止まったよ
命のかけらを燃やし尽くしてしまったね
得意のブルースも聴けないね

ガラスのブルース/BUMP OF CHICKEN

ここ、歌詞カードにも「オマエら絶対唄え!」って書かれてるみたいにライブでもみんなが合唱するんだ。

ガラスの眼を持つ猫、なんてそんなキラキラした猫、正直私には想像つかないけれど
でも、この歌詞を口ずさむとどうしてもこの猫をすごく知っている気分になる。


すごく。それは、多分私の大切な何かで、きっと長い時間を共にしていたくらいの大事なものだったように。

あの歌詞を歌ってる時確かに、私の上で星が一つキラリと輝いていて、私の魂の中にある熱いものが存在をちらつかせている。気がついたら泣いていたりする。

見たことも想像もできないガラスの眼をした猫にこんなに心を動かされるのは、私たちが目の前のことに追われている間に忘れてしまっていた生きることの本質を、彼が大切にしていたから、なのだろうか。


昨日よりマシな飯が食べられただけで今日は良い日だったなんて、私は笑い飛ばせる?

嵐が来ても、雨が降ってもいつでも全力で笑い飛ばせる?


多分、実際そんなことになったら私は笑い飛ばせない。

でも、この猫は生まれてきたことに意味があると、1秒も無駄にしてはいけないと、
私達に言う。

そして歌を歌って、今を生きている証拠をここに残し続けているのだ。


そうこう文を作っているうちに、ふと、私がこのnoteのアカウントを作ったきっかけを思い出した。別に友達の記事を読むためでもなく、私は私の今この瞬間を生きていた証拠をどこかに残したくて、日記まがいなこのサイトを始めたあの日。

適当にSNSを開いていたら終わってしまいそうになる休日。日が傾き、15:00を時計が示した頃ぐらいに学校に行く日を思い出しては、「あの時は魂が生きていたな、」と思っていた。

そんな一日を思い出しながらこの猫のことを考えると、コイツはずっと魂が生きていたんだろうな、と思う。

もし今、仮に、ここで私の全てが終わってしまったとして
「燃え尽くした」と言うには私の今までの人生は怠惰すぎるし、灰すら残らない。


一方「歌」を、あの猫はみんなの心の中に残していった。それに、あの猫が残したのは歌だけじゃないと私は思う。きっとコイツはみんなの心に彼の生き方そのものも刻んでいったはずだ。

この猫を思い出して、背中を押されて、残された私たちも今を必死に生きることができているんだって言うのが、ラストの歌詞であり、

この曲を聴いたことのある人の今、そのものでもある。



私はこの曲を聴くといつも、泣いては勇気をもらっている気がする。

想像もつかない猫を思い出して、私も、と。

私も、誰かの一部になれるような一瞬を、生き方をしたいと思う。







そんな文章を書けるようになります。
ぐだぐだしちゃってごめん。よかったらあなたの解釈も聞かせてください。







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