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ブルアカの最終編3章まで読み切ったので感想をまとめておくやつ

 noteではお久しぶりです。去年は仕事や人生の都合(?)でメンタルを持ち崩したり色々あって、すっかりnoteというか長文を書く行為そのものから離れていましたが、いくらか文章を書く気が復活してきました。
 自分の状況の回復と並行して、生存圏として活動していたTwitterの環境が運営的な問題と空気感的な問題の両面で相当厳しくなってきてしまっているので、ある程度の危機感をもって意識的に活動媒体を分散・移行させたい気持ちが高まっています。
 そういうわけなので、以前のような日記レベルでの更新はしないにせよ、徐々にnote書く習慣も復活させていきたいところ。

 まあ個人の近況みたいな話はまた別途するとして、今回は表題の通りブルアカの話をしたいと思います。
 ブルアカ、色々な意味で今めちゃくちゃ熱いですね。私が始めたのは去年の夏頃だったんですが、以降今一つハマりきれず放置・離脱気味で過ごしていたところ、ここ最近の世間的な盛り上がりに釣られてまんまと復帰。結果しっかりシナリオにやられました。

 自分の趣向として、いわゆる「ソシャゲ」的なもの自体と相性が悪いところが相当あるので、「ゲーム」としては復帰した上でも正直うーんと思う部分が色々あるわけですが、一通り読んだシナリオの内容や組み上げ方に関しては間違いなく驚きと面白みが詰まった内容で非常に楽しめました。
 そういうわけで、今回はゲームとしての色々は置いておいて、最終編4章公開を目前とした今のうちに、ここまでのシナリオの感想を自分の中で整理しておこう、という記事になります。

 当然ながら本日時点で公開されているメインストーリー最終編3章までの内容に関するネタバレを含む内容なので、既プレイ未読かつネタバレを気にするタイプの方は、4th PVを見て期待を膨らませつつ全力で追いつくことをオススメしておきます。



ブルアカは単なるライトな学園ドタバタコメディ……ではなく、逆に生徒たちの日常が壊れて過酷な現実に放り込まれる話……でもなかった

 まずは自分の感想を整理する意味でこの話をしておかねばと思うんですが、これは逆にプレイ中断前の時点での自分が「こういう話なんだろうな」となんとなく思っていた、という話です。ざっと説明しておくと、当時遊んでいた時点では「対策委員会編」の1章を途中まで読んだぐらいの進行度。

 当時はまだシナリオ読みに任務進行度による制限がついていた時代だったので、引っかかりながら読み進める形になったのも合わさり今一つ乗り切れず、途中で離れたという流れ。
 その上で、その時点で読んだ範囲での印象としては、「軽率に武装とか犯罪とか暴力が許されて、その上で人も死なない軽めの世界観で学生が雑にドタバタコメディやってる感じの作品」みたいなものだったと記憶しています。

 実際、外から見た時のブルアカ界隈の印象として、シロコの銀行強盗関連を始めとする物騒な要素は特にキャッチーで、ネタとして擦られがちな部分になっている印象。
 傾向の違う要素ではあるものの、メモロビ周りなど作り手のリビドーがガッツリ漏出している要素と合わせて「青春……?」「透き通るような世界観……?」みたいなことはよく言われているイメージで、当初遊んでいた時もそういった先入観から「ああこれこういうノリの作品なのね」というテンションで受け止めていたような記憶があります。

ん、メインヒロイン

 一応、当時でも「対策委員会・パヴァーヌは最悪スキップしても良いからエデン条約編を読め」みたいな話は結構されていた印象で、なんとなく世評を見た感じそこからダークで厳しめの展開が多くなるんだなとは察していたものの、それならそれで「この感じから急に落とすのはちょっと露骨なんじゃないかなあ……」と逆張り・食わず嫌いの感情が先に出てきてしまい、そのままドロップアウトした次第。


 復帰に合わせてメインストーリーを一通り読んだ今、改めてこのあたりの言説を考えてみると、単に「エデン条約編」以降のシナリオが極端に良くなったとか、逆にそこまでの内容が今一つだったとかみたいな話ではなかったですね。
 もちろん、実装タイミングによる演出などのこなれ具合やボリューム感などの差はあるものの、シナリオの中でやってることやテーマ性はずっと一貫している。
 その上で、なぜ「エデン条約編」がこれだけ高く評価され話題に登っているのかと言えば、同ストーリーの中で作品全体の主張が明確になり、それを踏まえることで初めてがテーマや信念が見えてくるタイプの作品だったからなんだろうなと。


 ストーリーごとの状況設定や展開の厳しさなどの温度差によって見え方に相当差はあるものの、ブルアカのシナリオは基本的に「そのままでは『青春』を続けることが出来ない立場に置かれた生徒が、それでも『青春』を継続したい、そうならなければならない」という話をやっています。
 それを達成するために立ちふさがる様々な課題に対し、「先生」とストーリーの主要生徒が、それぞれ「大人の責任」と「子供の責任」を果たして、状況を打開し、物語は青春に着地する……というパターンが繰り返されてきた。

 ある種ワンパターンと言えなくもないこの展開ですが、その一貫性や、ストーリーごとの絶妙なキャラクター配置、またそれぞれが担っている責任や立場というものに関して様々な角度から掘り下げているのが見事。結果として、単なるワンパターンではなく、一つのテーマを深く、また多様な角度から掘り下げて、より強固に軸が固まっていくような内容になっている。ここが本作のストーリーの美点だと感じます。


 このあたり、ストーリーの構成の中で特に効いていると感じたのは、
・「巨大学園・戦う力を持った学生」的ジャンルのパロディ……にとどまらない世界設定
・「学生・子供」という身分に対する高い解像度
・「大人の責任」「子供の責任」に関するバランス感覚と一貫性
 というあたり。せっかく書き出したので、以下それぞれについて思うところを書き出していってみます。


「巨大学園・戦う力を持った学生」的ジャンルのパロディ……にとどまらない世界設定

 改めてブルアカの世界設定について確認しておくと、舞台となる「キヴォトス」の広大な土地の大半が何らかの「学校」の元に属していて、そこの「生徒会」などが周囲に対して持っている影響力・政治力が非常に強い設定。そして、登場するキャラクターの大半は学生でありながら、圧倒的な戦闘力や政治力、技術力などを有している。
 ここまでは割と「ありがち」と言うか、煮詰まり切ってパロディの側さえ何周したかという設定ではあるところ。

 こうした舞台設定について、ブルアカは基本的に「登場キャラクターが軽率にバトルしたり街を破壊したり銀行を襲撃したり、一種の『ギャグ時空』的な勢いで好き放題な展開を通せる自由な舞台設定」として便利に使い倒しています。
 しかしその一方で、時には「学園が政治・社会の中心の世界で、学生が高い戦闘力や権力を持っているならば、学生たちは現実世界でそれを持っている大人たち同様、陰謀や犯罪・暴力の渦中に置かれることになる」「その結果、一部の特に力を持った学生は、本来の学生の領分を超えた責任や重圧に苦しめられる」みたいな話も平気な顔で突っ込んでくる。

 どちらも単独では十分あるタイプの話ではありますが、ブルアカにおける両成分のミックス度合いとバランス感覚はなかなか独特の味わいがある。
 単に便利に無節操に、物語として都合よく使い分けている……というわけではなく、少なくともメインストーリーの中においては、「青春」「先生と生徒」みたいなテーマがまずあって、そこを表現する上で必要に応じてラインを上手く動かすという器用な使い方をしている印象があります。

 「治安ロアナプラ」とか「GTA」みたいな言説もあり、概ねその通りとは思いますが、「放っておいたらマトモな青春とか学園モノにはならない、学生による放漫な『力』の行使が様々な場面でまかり通っている世界」であるからこそ、逆説的に以降に述べるような要素がより強く表現されているところがあると感じます。


「学生」・「子供」に対する冷徹な目線

 物騒成分とシリアスさの混合と合わせて、独特の読み味を生み出しているもう一つの要素が、一貫して描かれている「学生」「子供」という存在に対する俯瞰気味の冷徹な目線。

全体的にギャグ調で処理しているものの、いち学生として相当険しい状況ではある

 そうした目線の中で特に踏み込んでいる印象があるのは、「子供は周囲の大人や教育、環境などによって人格や行動への影響を受けやすく、周囲に悪意を持った大人がいたり、置かれた環境が本人にとって悪いものであれば、その存在が歪むのは避けられない」という部分。
 「時計じかけの花のパヴァーヌ(2章)」のトキ、「エデン条約編」のアリウス校の生徒あたりが代表例かと思いますが、結構シビアに描いている。

 子供に対する教育として他の組織や集団への憎悪を植え付けたり、徹底的に人格を否定した上で少年兵や労働力として運用するのは、暗い現実として歴史上……のみならず現代でも実際に存在するものではあるわけで。
 そういう部分を「武装学生」みたいな存在を描く作品で(間接的・一定程度のフォローはあるにせよ)やるというのは、少なくとも軽い気持ちでは踏み込めない部分であることは間違いない。
 このあたりの表現は、読んでいる最中「あ、これは単なるライトなコメディ作品なだけではないし、このシリアスも取ってつけたようなシリアスではないぞ」と思わされた大きな要因になりました。


 子供に関する描写についてはこうした部分にとどまらず、様々な場面で生徒たちは子供としての限界や弱さに直面することになるわけですが、しかしシナリオの中での生徒たちは、単なる「庇護すべき対象」とか「指導を通して修正しなければいけない対象」としては決して描かれない。

 このあたりは次に書く「大人と子供」の関係性の話にもつながってくる部分ですが、ちょっとズレればパターナリスティックな押しつけがましさ、上からの目線が出てしまいそうなところ。
 ブルアカはこのあたりの見極めをかなりうまくやっている印象で、それはやはり子供の人格や自主性や個性みたいな要素を最大限に評価し肯定した上で、その上で子供の「限界」や「弱さ」がどういうものであるか、という部分を冷徹に深く分析しているから出来ることだと思います。


「大人の責任」「子供の責任」に関するバランス感覚と一貫性

 「エデン条約編」「カルバノグの兎編」のストーリーにおいて特に明言・強調されているところですが、ブルアカ全体において一貫しているのが「大人の責任」と「子供の責任」という要素。ここがまさにブルアカのシナリオの核になる主張であり、主人公が「先生」として作品世界に関わっている最大の理由であろうと思います。

「本当に『責任』って言葉の意味分かってる?」

 「対策委員会編」「時計じかけの花のパヴァーヌ(1章)」においては、敵役が「外部の悪い大人」であったり、「自分たちの中での限界」みたいな話であったりしたので、先生の立ち位置は「戦う生徒を応援し、助ける」という意味でシンプルなものになっていた印象。その結果、相対的にこの「責任」という要素はちょっと影に隠れ気味になっていたのかなと。

 一方、それ以降のシナリオは、学校間・生徒間の戦いや謀略などの要素が強くなってきたため、「先生」の立ち位置はより複雑で、中立的・俯瞰的な性格が強くなった。その上で先生は、学校や所属とは関係なく、それぞれの生徒を信じて助け、導こうとする姿勢を示していく。
 結果として浮き彫りになったのは、生徒たちにとっての「責任」とは、必ずしも所属組織での目標を達成することや敵を倒すことではなく、生徒たち自身が「自らの信念・未来を選ぶこと」だということ。
 そして、先生が果たすべき大人の責任とは、そうした生徒の「選択や信念」を尊重し、信頼し、守護するということ。これはシンプルながら素晴らしく納得感のある主張であり、テーマにふさわしくとても強い強度を持ったものだと思います。

 「責任」という単語に関して特に印象的だったのがこのシーン。エデン条約編4章はキャラへのヘイトコントロール的にかなり際どい展開が続いてヒヤヒヤしましたが、落とし所としてここはすごく絶妙で、唸らされました。
 エデン条約編4章は全体的に罪と更生と赦しみたいな話だったけど、これはある意味少年法とかの文脈での「責任能力」のニュアンスに被る面があるようなそうでもないような。


 「大人の責任」に関して余談なんですが、以前「最近流行ってるゲームのプレイヤーの立ち位置は先生とか指揮官とか指導者的立ち位置になってる、オタクの目線の高齢化……」みたいな言説を見た覚えがあります。
 論自体に関しては「色々なキャラクターを加入させて編成するソシャゲ的ゲームシステムの隆盛に伴う要請」に依る部分が一番大きいだろ、という話でしかなく正直イマイチかなとは思うものの、ブルアカに関して言えば、これは一定程度そうかも、と思える部分もあるなと思ってます。

 というのも、ちょっと変な表現になりますが、ブルアカの先生という存在は、「ネルフの奴らは真っ当な大人としてちゃんとシンジくんのことを支えて守ってやれよ!!!!」みたいな、エヴァ視聴者がある程度は思うであろう感情が結実した存在のように感じる瞬間があるんですよね。

最終編、明朝体カウントダウンUIや移動指揮車などの要素はもちろんながら、
何と言ってもここの画は最高に”そう”

 これはもちろん「エヴァ」に限った話ではなく、ある種「時代の空気感」みたいな話で。一定の世代が多かれ少なかれ通ってきたであろう「力を得た子供たちが戦って傷ついていく物語」という広いジャンルに対する、「全部子供に背負わせるんじゃなくて、やるべきところは大人が大人の責任を果たして守ってやれよ……!」みたいな思いに答えるような、「絶対的な大人」として構築されている存在がブルアカの先生である、みたいなところがあるんじゃないかなあと。

 そういうわけで、設定面的な過去の同種ジャンルへのリスペクトやパロディ性、あるいは先に書いた「子供」に対する目線などには、ある種の老成とそれによる客観的な目線が非常に良く働いて成り立っている作品だと感じます。そうであるならば、一周してと言うか、いい意味でと言うか、老化コンテンツだと言われても悪いことではないかもなと……


青春の物語を、青春であらねばならない物語を

 最後に。本作は公式に「青春」というジャンルを掲げているゲームなわけですが、これは単に学校が舞台で学生キャラが中心だから、結果的にこの話は青春ジャンルですよ、みたいな程度の話ではない……というのは、エデン条約編3章におけるタイトル回収が非常に明快かつドラマチックに主張していたことと思います。

 ここまでに書いてきた通り、子供たちにとって過酷な設定や、その立場の限界性を見極め突きつけるような目線、各々が背負った重苦しい責任などをしっかりと説得力を描いた上で、それら全てを飲み込んでなお守るべき至上の概念として、生徒たちの「青春」が位置づけられている。それだけの重みを籠めて「青春」というジャンルを掲げていたわけです。ニュアンスが重すぎる! めちゃくちゃ好み!

 その上で、現在進行中の最終編の冒頭から繰り返されている「舞台・ジャンルの解体」という台詞は、逆説的に「この作品は青春ストーリーで『あらねばならない』」という決意が込められていることを、改めて高らかに宣言しているように感じます。この先で何が起きようとも、そこに生徒が居る限り、それは青春の物語であり、それは続いていくのだという意志。

 自分の趣向として、ジャンル自体へのメタ的な自己言及を含む台詞や展開があるタイプの作品がとても好みなので、最終編冒頭の展開は、まさにそこに踏み込んだ上で、上で書いたような重みの籠もった「青春」をあらためて全力で求め肯定する主張そのものだった。これは完全に自分の感性に直撃しました。あれがなければここまで長い感想記事までは書かなかったかも。

 その上で、そんな内容が詰まった4thPVのPV曲、おそらく最終編メインテーマ的な位置づけとして置かれているであろう曲のタイトルが「RE Aoharu」なのはあまりにもオシャレに決まりすぎている。再び、何度でも、青春へと帰還する物語。
 ゲーム全体の最序盤で流れるBGM「Aoharu」のアレンジでもあり、冒頭曲がクライマックスでリフレインされるという王道文脈も乗っかっていて無敵。もともとBGMに惹かれてブルアカを始めた身なので、クライマックスにこれだけ素晴らしい曲を繰り出してきてくれたのはまさに信頼と期待に応えてくれたという嬉しさがあります。本当に良すぎる。

 (禁断のPV二度貼り)(良いものは何度貼っても良いとされているため……)

 ……といったところで、このあたりで今の時点で言いたいと思っていたことは一通り書いたので、この記事は一旦このあたりで締めようかと思います。
 ブルアカ自体は他にも無限に語れる要素がある作品だと思っていて、特に世界設定に感しては謎が多くて妄想が広がる要素が多すぎる。これまた(超広義の)エヴァの系譜を感じる部分というか……

 一神教≒キリスト教に対して多神教がとかなんとか言い始めたら無限に膨らみそうな要素は散りばめられてるし、そもそもキヴォトスの外の世界は……とかヘイローは……とか入学前・卒業後の生徒は……とか無限に気になることとか思わせぶりに残されてる要素はあるわけですが、このあたりは少なくとも今の最終編の中でその全てが回収されることは無いだろうし、またすべきでもないし、言ってしまえば根本的に今回自分が最重要視して捉えている「青春」「責任」という本筋に直接絡んでくることはない要素だろうとも思ってます。説明と解禁と考察は大変楽しみですが。

 そういうわけで、一通り自分の中での整理も済んだところで、あとは明日更新の最終編4章がどんな展開を見せるのか、最終編において歪んだ先の物語が、最後にはどんな青春に着地するのか。そこで先生はどんな形で責任を果たしていくのか……という部分を楽しみにして過ごしていきたいと思います。


書くタイミング逃したので脈絡なく最後に置いておきますがここのフウカあまりにも美人すぎる
メモロビ獲得時に誇張抜きで息を飲みました


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