共犯関係

今まで「苦手」ということについて書いて来ました。ただ良く考えてみると、今まで書いてきた「苦手さ」というものは、そのミュージシャンの「個性」なんですよね。

まあそう考えると単なる「好き嫌い」の世界のよう思われるのかもしれません。

ただ、そこには確実に「聴き手」と「ミュージシャン」の「共犯関係」があると考えています。

「聴き手」の望む方に「ミュージシャン」が合わせていったりとか。「ミュージシャン」の行きたい方向性を「聴き手」が強化してしまうとか、そういう関係性のことです。

ただ、そうなってしまった時点で、自分自身に制約を設けてしまうことになり、そこから先へ行くことは困難です。

もちろん程度の問題はあるのでしょうが、こういう関係から新しい何かは生み出されないでしょう。その時点で変化を拒んでいるのと一緒です。

もちろんそれでいい、という考えもあるでしょうし、それはその人の考え方だから、けしからんという類の話でもありません。

ただ、それでいいの?、って思うんですよ。それはある種の「停滞」と言ってもいいし、そういう姿勢はミュージシャンとしては良いとしても、少なくともアーティストとは呼べないと思います。制作するものが「アート」であるならば、そこには「近代的自我」が伴っているのが一般的ですし(それを否定する「アート」もありますが、それはこの意味での「アート」があるが故にアンチテーゼとして存在しているものです)、そうであればいわゆる「紋切型」ではダメなんですよ。

だから自分自身は、この「共犯関係」には否定的な態度を取らざるを得ません。

同じようなことをやっていて、そこに安住していて、そこに何の意味があるんだろう、と考えてしまうんですよね。

そんなの楽してるだけじゃないですか。

もちろん、ただ単に「斬新」なものを目指す、というのは少し違うような気もしています。ただ単に「斬新」なだけなら誰でもできます。

それを聴いて、それをいいと思う人がいないと、作品として成立しませんから。

そう考えると、ある種の「妥協」も必要になるとも言えますが、それは音楽が他者との関係性によってしか存在しえない以上、致し方ないことだとも言えます。

ただ、そういうことを考えずに、ただ漫然と音楽を制作する人間にはなりたくありません。

ある意味、音楽制作ってその隙間をどうやって進んでいくか、みたいなものだと考えています。

何も考えず、漫然と音楽を制作すること、革新的な音楽を制作することのどちらよりも、それは歩んでいくのが難しい道でしょう。

でもだからこそそれが、歩むべき価値のある道だと信じて音楽をやっていきたいと考えています。

ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。