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TOEICは嫌いだ・②/なぜ試験を受け続けるのか


TOEICは嫌いだ・①


ふたたび断っておくが別にTOEICに罪はない。

20歳のときに親友がなくなりました。
とても悲しかった。その後1,2年鬱だったと思います。

それで電車に乗るのも苦しくなって、通学できなくなって、
大学の授業も通えない時期がありました。

入学した大学は超マンモス校で、もともと大人数授業は苦手だったしクラコン(必修語学クラスのコンパ。宴会。)なども苦手だったので、無連絡欠席が進級に響く必修の英語の授業などはなるべく少人数の授業あるいは信頼し尊敬できる(つまりコミュニケーションをとるのがそれほど苦ではない)先生がたのコマをとるようにしていたので、

「こういう理由で欠席しました、スミマセン」「月曜の朝の鬱で動けませんでした」「雨の日の鬱で動けませんでした」、ということを先生に休んだ日に欠席理由をメールすると、アブセントはあったけれどストライク(無断欠席)はなかった、ということでなんとか進級単位をいただけたのですが。

それが大学の2,3回生ぐらいの話で、その後就職活動しなければならない年になったわけですが。

そもそも資本主義に疑問を感じていたというのもあって文化人類学など専門にしていたのですが、なによりTOEICがどうしても無理でした。

なんだかんだいって若さゆえの体力で無理やり受け続けているとなんとか点数は上がるので、履歴書にかけるくらいの点数は一応持っているのですが、やはりそういう枠にはまること、試験の結果が良くないと人生が開けないこと、勝ち負けで優劣や就職結果が決まること、そういうのがどうしても疑問で。外資系の会社に勤めたいとか、翻訳の仕事をしたい、留学をしたいという目的を持っている人が受ければいいのであって。

どうしてみんな英語やるんだろう?どうしてみんななんの疑問もなくTOEICを受けるんだろう?どうして政治や経済はアメリカを向いているんだろう?

結局、アブセントだったけどストライクではないね、といってくれた英語の先生がたのおかげで、英語は嫌いにはならずにすみました。

16歳のときにボストンの高校のサマースクールに、短期留学させてもらいました。

その40日間の日々の色彩の強さを思い出すと、やっぱり自分は語学に興味があるので教えたり勉強したりしているわけで。

社会人(お勤め)をやっていると、人がなくなっても、何事もなかったように日々を過ごさなければなりません。仕事を休めるのも数日。あるいは著名な方がなくなっても、翌日から世界は何もなかったかのように動きます。

人生はいろんなことがあるけれども、やはり日々を自分を大事に生きていかねばなりません。太陽をみて、美しい空をみて過ごす穏やかな時間。嬉しいときもあれば悲しいときもあると思います。そういう自分の「いま」の感情をおろそかにして、感情に気づかないふりをして、今を何年も犠牲にして徹夜で試験勉強して、良い点数をとって、それで、人生は幸せになるのでしょうか。

ご本人が目的達成のために納得の上でやるのであればいいのですが、周りがやっているから自分もなんとなくやらなければならないという焦燥感で、自分の気持ちもわからないままに時間が無駄に消えていっている、そしてはじめたらやめるタイミングを逸してしまう人のほうが多いのでは。

というようなことを考えていくと、

私がやっぱりやりたいのは試験対策とか受験対策ではないことばの世界をさぐっていく、日常とともに「外国語」や「ことば」を勉強していく手法をお伝えすること、通訳養成の手法を使ってことばの能力を鍛えていくこと、ということなのかな、と思います。

なんか支離滅裂な感じもしますが、まあいいや。このままUPします。


検定対策ではないロシア語・英語オンラインレッスン


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