神様に愛された青年(試し読み)

 愛してあげるよ。だから、そばにおいで。
 その声はどこか優しくて不気味だった。しかし決して声のする方には行かない。行けば怖いことが起こりそうだったから。子どもの彼はその声を恐怖に感じて知らないふりをした。知らないふりをしてやり過ごした。時々聞こえてきたそれは、彼が年齢を増すごとに頻繁に聞こえてくるようになりだんだんと彼を衰弱させていった。
 両親が死んだのは彼が二十歳を迎えた朝だった。いつものテーブルにいつものように朝の食事が用意されていた。まだ温かいスープを彼は両親の死体の横で啜った。
 不思議だった。彼は何の感情も湧かなかった。スープの横に『先に逝きます、あなたは一人で生きていきなさい』という遺書が置いてあったが彼は気にせずスープを飲み干した。謎の声のせいで狂ったように暴れる彼を何年も何年も見てきた両親はもう耐えられなかったのだ。彼には理解者がいなかった。声のことを訴えてもわかってもらえなかった。訳のわからないその声の正体に怯え続け、そしてとうとう両親に見放された。
 愛してあげるよ。そばにおいでよ。
 もしその声の方に行ったら楽になるのかな。声の正体を知ってしまえばこんなことにはならなかったのかな。彼は声の方に向かって歩き出した。


      一

 彼の名前はリリーメリル。女のような名前だが、男だ。両親が女の子が欲しかったが生まれたのは男の子。綺麗な顔だからとこの名前をつけたといつかの母が話していた。その言葉の通り、彼は綺麗な顔立ちのまま育つ。よく見ると男だがぱっと見、女に見えなくもない。しかし謎の声に苦しめられ引きこもった挙句に食事もそんなに摂ることはなく、病的に色白で体の線も細い。髪の毛は母が切ってくれていたのでそのまま王都に出かけても恥ずかしくはないほど綺麗に整えられた短髪だった。両親からはリリーと愛称で呼ばれていた。誰とも交流がなかった彼が今何年かぶりに家を出る。外は生い茂った木々が朝陽を通すこともなく薄暗くて少し風が吹いていた。
 こっちだよ。おいで。こっちだよ。
 声が聞こえる。両親は自分のせいで死んだのか。リリーはぼんやりと考えて声のする方へと裸足のまま歩いていく。恐怖が先に待っている。何年も逃げてきたのに今更そっちへ行こうとする自分のなんと浅はかなことか。もしこの先に幸福が待っていたらこんなに苦しむことはなく両親も死ぬことはなかったかもしれない。リリーは自分を馬鹿な人間だと思った。
 こっちこっち。こっちだよ。
 声は子どものように無邪気だった。しかし声色は子どもを想像するような高い声でも幼くもなく、男なのか女なのかわからないとにかく不気味な声だった。精霊や妖精はこんな声なのかもしれない。当然リリーは精霊の声も妖精の声も聞いたことはないが。
 ちくり。
 しばらく歩いて、ふと子どもの時からあった首の小さな痣に痛みが走る。そっと手で触れるとぬるっとした何かが指に付着した。それを見てリリーの大きく綺麗な目が細くなる。
 血だった。
 ここから血が出たことは一度もない。出たとすればきっと痣ができたとき。しかし痣ができた理由は知らない。幼いころに怪我をしたのかもしれないが生まれつきかもしれない。気にしたことはなかった。たらたらと血が流れていく。枝に引っかかったのかもしれないが、ここまで一本の拓けた道だったからありえない。ぼんやりしていても気づくはずだった。
 リリーは首をグイっと拭ってまた歩き出す。結構歩いた。引きこもる生活をして体力がないはずなのに一切疲れはしない。どこまで歩くんだろう。もしかしたら声はただの幻聴でこの先何もないのでは。リリーはやはりぼんやりと考える。
 鳥が羽ばたく音がしてリリーの目がそちらを向いた。石でできた大きな神殿があった。
「ようこそ、リリーメリル」
 耳元ではっきりそう聞こえて驚いて振り向く。知らない男が立っていた。
「だ、誰・・・?」
 怯えるリリーの問いかけに男はニコリと笑う。
「待っていたよ。君が来てくれるのを。さあ、愛してあげよう」
 男がいきなりリリーの手を取った。それを振り払って後ずさると、リリーは枯れ枝に躓いて尻もちをついた。
「怖がらなくていいよ。おいで」
 男はリリーに負けず劣らず綺麗な顔立ちをしていた。真っ白な髪の毛と緑と銀のオッドアイが神秘的でまるで神官のようなローブを身にまとっている。声はずっと昔から聞こえてきた。声色は変わっていない。しかし男の姿は若い。何者なんだろう。リリーの脈が速くなった。
「我は君を愛するためにここにいるんだよ」
 男が微笑む。
「この世界は退屈でね、面白いことを探していたんだ。すると今から二十年前に君が産声をあげたんだよ。人間というのはなかなか不思議な生き物だね。君のような美しいものも作り出せる。ただの平凡な男と女の交わりからね」
 饒舌に男は話を続けた。
「我は君が欲しくてしるしをつけたんだ。我のものだというその首のしるしをね。人間はたくさんいるから見失ったらいけないからね。誰かのものになってしまってもいけないけれど、その前に君は自らここに来てくれた。ありがとう」
「知らない、何を言ってるのかわからない」
「君は今知ったんだ。それでいいじゃないか。君は選ばれたんだよ我に。さあ、この手を取って?」
 男が手を差し伸べる。リリーはどうすればいいのかわからなかった。
「我はここから動けない。依り代がないんだ。人間は我を信仰して動くこともできないような石像や神殿は作るけど、君がいる場所から近いところに神殿があってよかったよ」
「何者・・・なんだ?」
 その問いに、男は少し間を置いて。
「ここまで言ってわからないかな。・・・この世界を創った神だよ」
 リリーの目には冷たい微笑みが映った。
 神?この男が?冗談に決まってる。この男は頭がおかしいんだ。
「そう、頭がおかしい神なんだよ」
「!?」
 思考が読まれた?リリーは驚いて意味もないのに息を止める。
「思考を読むのは簡単だよ、神なんだから。さあ、もういいよね。他に望みがあるなら言ってごらん。叶えてあげるから、この手を取ってほしい」
「な、ん・・・・・」
 どうして自分なんかをと問いかけるのをやめて、ふとよぎったのは両親の死に顔。家のテーブルの椅子に腰かけてきっと毒を飲んでそのまま目を開けていた。この男が本当に神様で、本当に望みを叶えてくれるなら・・・。
「いいよ。君の両親を生き返らせてあげよう」
「!!」
 また思考を読まれて驚いたのと、少しの喜びが芽生えた。リリーは自分のその手を見つめる。震えている。神に愛される?そんなことが、こんな自分に許されていいのか?
「いいかい、君は何も心配しなくていい。我が選んだのは君だ。リリーメリル。君が手に入るならなんだってしよう」
「・・・・・・両親をどうか、どうか・・・、僕の記憶のないまま・・・」
 生き返らせてください。
 リリーは恐る恐る神の手を取った。
「いいだろう」
 神である男はリリーの手をそのまま引っ張りリリーを自分の胸の中におさめた。

「ああ、ごめんね。嘘を吐いたんだ。我は神ではないし君の両親も生き返らせることはできない。思考が読めたのはなぜかって?我は呪術師。騙してしまってごめんね」
 すべての行為が終わってから男は笑って言った。リリーの意識は混濁していたがその言葉を聞いて涙が流れた。数日後の夜。
 風が吹いた。その裸体のすぐそばに無造作に捨てられた衣服がなびく。リリーは体中の痛みにこらえていた。男の行為はただの暴力で、なんとも乱暴なやり方でリリーを犯した。三日三晩犯しつくして、満足した末のセリフがこれだった。
「じゃあ、服を着て」
「・・・・・・」
「君は我の手を取ったんだ。我のものだよ。陽が昇ったら出発だ」
「・・・・・・」
 男が身なりを整えながら言い放つがリリーは動かない。いや、動けなかった。
「・・・声は、・・・痣は・・・」
 リリーがふり絞って問う。
「・・・・・・ふふふ」
 男が笑った。
「我はね、ただの呪術師じゃない。モノミなんだよ」
「モノ・・・ミ?」
「なんでも知っているってことだよ」
 言っている意味がわからなかった。リリーはどうしてこうなったのか考える。でも何も出てこない。考えても思考はどうせ相手に読まれる。ただ気づいたことはあった。昔から聞いていたあの声と、今この男が発している声は明らかに違うものだった。声色も変えられるのだ。声の主ではなかったのだ。
「さあ、着替えて。それとも着替えさせてあげようか?」
 リリーは伸びる男の手から逃げるように体を起こした。がくがくと震えながら服を手に取りおぼつかないまま服を着る。
「怖いのかい?」
「・・・・・・」
「恐怖で支配するのは好きじゃないんだ。今度は優しくするよ」
 その言葉にさらに歯をがちがちと鳴らして怖がるリリー。“あんなこと”をまたされるのか。リリーは恐怖のあまり思考が定まらない。すでにこの男に支配されてしまっている。
 助けて。怖い。助けて。怖い。助けて。助けて。誰か、神様!
「はーい。我が君の神様だよ?」
 男が近寄ってくる。リリーの震えはひどいものだった。
 こっちだ。
 その声は突然だった。リリーはもはや失神しそうな勢いでその声に驚く。
 こっちだ、リリーメリル。
 あの声だった。男を見るが特に何かしている様子はない。この男じゃない?今度は誰?どこから?
「どうしたの?」
 男が少し眉をひそめている。
 こっちだ、リリー!
 声は神殿の中からだった。リリーはどうにでもなれと走った。神殿はすぐそばだ。駆け込んで、走り抜けた。全身の痛みがなぜか感じなくなっていた。神殿の奥、行き止まりだ。人の形をした大きな石像があった。声の主はこの石像か?
「リリー、鬼ごっこかな?」
 男の声が入り口の方から聞こえてきた。リリーはこれ以上どうすればいいのかわからなかった。
「リリー、出ておいで」
 男はなぜか入ってこない。リリーはそれでも隠れる場所はないかと辺りを見回す。
「怒るよ!リリー」
 怒鳴りだした男の声にリリーは腰を抜かしてしまった。
「ああ、もう!」
 カツンカツンと靴音が響く。男が入ってきた。ここに来るのも時間の問題だ。隠れる場所がない。
「君は我の手を取ったんだ!契約は成立したんだよ!!」
 怖い、怖い、怖い、怖い。
 リリーは這いずって石像の真下でうずくまった。
「神様、僕は悪い人間です、親不孝者です、ごめんなさい、ごめんなさい」
 小さく小さく懺悔を呟く。男が来るまで何度も何度も。
「リリー、鬼ごっこは終わりだよ」
「神様、神様」
「・・・・・・リリーいい加減にしないか」
「助けてください神様」
 男が目の前まで来ているのをリリーは怖くて見ることができない。頭を抱えてうずくまることしかできない。
「ああ、ここはやはり空気がよくないな。早く外に出ようリリー」
「神様、神様」
「さあ、来るんだよ」
 男の手がリリーの腕を掴む。
「さあ」
 グイっと引っ張るとリリーの体が崩れる。
「なんだ、気を失ったのか」
 男はそのままリリーを抱き上げようとした。が、
 パン!
 その手を弾かれる。
「リリー、痛いじゃないか」
 男は怒りを滲ませて弾かれた手をぶらぶらとさせた。
「あまり手間をかけさせないでくれないか」
「・・・・・・」
 リリーはその場に倒れた状態でシューっと息を吐いた。
「リリー?」
「・・・・・・」
 様子がおかしいことに気づいた男は少し後ずさる。
「やはりここにいたか」
 その目が大きな石像を見上げた。
「神殿から離れたところにするべきだったなあ、しかし契約は契約だ」
「黙るがいい人間」
 石像、というより神殿全体から声が響いた。
「神が、たかが人間一人に入れ込むとは」
 男は笑った。
「契約は成立している。この人間は我のものだよ神様?」
「愚かな人間よ、その者を置いて立ち去れ。お前では役不足だ」
「・・・・・・我も舐められたものだね。人間の話も聞きなよ」
 男は手をかざした。すると鋭い風が空を薙ぐ。石像の首に大きなヒビが入った。
「本気を出したらこの神殿粉々にできるよ?」
 シンと空気が鎮まる。
「わかればいいんだ」
 男は再びリリーに手を伸ばした。
 大したことはない。リリーは神が見初めた珍しい人間だ。我がそれを飼い殺す。神への冒涜こそ我の喜びだ。
 男は勝ち誇っていた。自信過剰でサディスティック、傲慢で強欲。
「リリー」
 男の手がリリーに触れる、その一瞬のうちに紅い血しぶきがリリーを染めた。男が意味も分からず呆然としている。その首は粉々になった身体から引きちぎれてしまっていたが。
 もう何も発せない男の口がまだパクパクと動いている。リリーは気を失っているが体は無傷だった。男は絶命した。
 しばらく時間が経って、リリーは目を覚ます。そこにはバラバラの男の死体があった。リリーはヒッとのけぞって周りを見回した。
「・・・何が・・・?」
 立ち上がって死体を踏まないようにもう一度周りを見てから石像を見上げる。何も変わりはない首のヒビもなくなっていた。ヒビのことはリリーは憶えてなかったが直前辺りまで記憶はあった。怖かった。それだけだが。
 眩暈のような感覚があって一瞬よろける。そっと何かが当たった。倒れそうな体がそのおかげで留まった。
「え?」
 その何かの方を見たリリーは目を丸めた。男だ。呪術師の男だ!
「・・・あ、ああ、嫌だ」
 慌てて離れて、更に気づいた。死体がなくなっている。
 死んでなかった、まだ終わってない!
 リリーはパニックになった。
「た、助け」
「リリー」
「!」
 男の口からはあの声が聞こえてきた。また騙そうとしている。そんな手はもう効かないのに。
 リリーは逃げようとするが足が震えて動けなかった。生温かいものが足を伝っていった。その姿をただ静かに男は見ていた。近づこうとするとリリーはもう壊れてしまいそうだったからだ。
 しばらくお互い対峙していた。リリーは男をずっと睨んでいたが男はまるで見守るように優しい目を向けている。
「何で、黙って・・・」
 やっと口を開いたのはリリーだった。その言葉にしばらくぶりに瞬きをした男。目を伏せてから。
「お前が怯えているからだ」
 そう短く答えた。
 違うと感じたのはリリーだった。この男はなんだか違う。さっきまでの怖さがない。なんだか優しい雰囲気がある。何故だろう?
「誰、だ?」
 その問いが合っているのかわからなかった。誰?目の前の男は明らかにあの男で。自分にひどいことをした奴に変わりないのに、その問いに答えがあるような気がした。
「私はキラ。お前を呼んでいた者だ」
 男の答えに訳がわからなくなった。
「さっきの男じゃない・・・?」
 震えが少し収まる。
「あの人間は殺した」
「・・・意味が・・・」
「お前が怯えていたから殺した」
「でも目の前のお前は」
「あの人間を依り代にした」
「依り代・・・?」
「私は依り代がなければ動けない、お前にも触れられない」
「・・・・・・まさか、神?」
「人間はそう呼ぶ」
「・・・・・・」
 自分に起きていることがわからなかった。失禁で汚れたズボンが冷たくなってきた。そのズボンが気になるほどに少し自分を取り戻しつつあるリリーは。
「どうして、こんなことになったのか説明が・・・欲しいです」
 半信半疑だがキラと名乗った目の前の男に全てを話してもらうことにした。

    


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