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練武知真『はじめに』

私は1988年の大学2年生の頃に、日本在住の中国人武術家・趙玉祥老師に師事して、約30年間、中国の伝統武術《形意拳(けいいけん)》《八卦掌(はっけしょう)》《武器術》などや《気功》を学んできました。

 

またそれ以前にも、高校生の頃は柔道部に所属し、京都府警察官時代には逮捕術や柔道を学び、空手や日本少林寺拳法や合気道もほんのわずかな期間ではありますが道場へ通わせて頂きました。

 

このように武術歴を列挙すると、如何にも好戦的な人物のような印象を受けるかも知れませんが、実は全くそんな事はないのです。

 

みんなとワイワイと楽しく遊んだり、気の合う人達と過ごす優しい空間が好きな平和的な人間なのです。

 

自然が好きで、散歩が好きで、感動的な映画やドラマを観ては涙を流し、可愛い動物を見ると心から癒されます。

 

何よりも人間同士の争い事は、するのも見るのも嫌いです。

試合やエンターテイメントの範疇であればむしろ好きなのですが、本物の争いは醜く、嫌悪感すら感じてしまいます。

 

では、何故僕が武術の世界にドップリと入る事になったかというと、それは中学生の頃のある体験が原因になっています。

 

運動が苦手な僕は転校したばかりの中学校で、スポーツが得意な男の子から人前で罵倒されるなどのイジメを受けていました。

それで、その事を担任の教師に相談したのですが、

「あの子はスポーツマンだから、そんな事をするはずがない」

と言われ、取り合ってもらえません。

また当時は校内暴力が日常茶飯事だった時代でもありました。

 

これらの経験は

「大人は守ってくれない」、

「自分の身は自分で守らなければ」

という観念を僕の中に深く刻み込みました。

 

それからというもの、

「強くなる」

ただそれだけを中心に生活をしていました。

 

毎日1~2時間のトレーニングをこなし、

学校の休み時間には、友達数人にかかってきてもらい、それを全て受けきる練習をしたり・・・そんな中学生時代を過ごしていました。

 

その結果、誰からも危害を加えられる事もなく、また、危害を加える事もなく、無事卒業することができたのです。

 

本格的に武道の道に入る高校以降になっても、基本的に「強さ」に対しての渇望は消えることなく、大学在学中は勿論のこと、京都府警察官の頃、茨城県警察科学捜査研究所鑑定員の頃、そして、現在の仕事である武術指導を始めた頃も「強くあらねば」という想いは消えることはありませんでした。

 

日常生活の中に武術を組み込み、歩く時も、立っている時も、座っている時も、そして、寝る姿勢まで、武術の要領に則った行動を心掛けていました。

 

そんな僕がここ数年で徐々に変わってきました。

何が変わったのかというと、長い間、自分に課していた

「強くあらねば」

という事を手放し始めたのです。

 

「強さ」とは何か?

 

この事を深く追求しているうちに、腕っぷしの強さが全てではないと感じ始めたのです。

 

社会生活の中でストレスに害されることなく、

この社会を自分らしく生きていく知恵と力。

他人を思いやれる大きく広い心。

人を惹きつける人間力。

 

闘争を全てと考えるのではなく、

「自分の人生をどのように生きるか」

をテーマに考えると、そのようなチカラこそが人間にとって本当に必要なものなのだと、今は思っています。

 

そして、それらのチカラを手に入れる為のエッセンスが実は

「武術の修行」

の中に全て入っていることを知りました。

 

強くなる為の武術の修行が、

体と頭と心を使って、

強さと賢さと愛情

を学ぶことに繋がるのです。

 

周りに振り回されることなく、

他人との豊かな繋がりの中で、

自分の人生を生き生きる。

 

そのような生き方への一つの道として「武術」はあります。

 

私自身まだまだ修行中ではありますが、

私の歩んできた道の中での気付きが、

どなたかの生きる道での「小さな矢印」になれば・・・

 

そのような想いで、これからしばらくの間、

「練武知真(れんぶちしん)」

とタイトルを付け、武の気付きを記します。

 

「武を練って、真を知る」

武術家の見る世界へようこそ。

 

 

 

2024年2月7日 小幡良祐


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