月夜の下

月夜の下

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ローズクォーツ

 私は、その日まで妻の異変に気づかなかった。  外資の投資会社に勤めていた私は、当時、日本市場の伸張に意欲的だった取締役の判断で、東京支社の立ち上げを任された。栄転とは聞いていたが、そこはスタッフが10名ほどの小さな組織。支社長とは名ばかりで、電話番から掃除、果ては、ビジターの通訳まで切り盛りする”何でも屋”だ。とは言え、スタッフには恵まれていた。彼らのモチベーションはすこぶる高く、私たちは発足メンバーとして固い絆で結ばれていた。私の妻もその中の一人だった。  開業したて

    • ル・スーヴニール

      「このあたりの紅葉が見ごろを迎えるのは、もう少し先ですね」  そう女将が言っていた。それでも、コナラやクヌギの葉は秋色に染まり、僅かな風が吹いただけで、梢から手を離してしまいそうに見えた。 「少し前の私みたい」  彼はとうとう最後まで、ついて来いとも、待っていてほしいとも言わずじまい。昔からはっきりと自分の気持ちを言うタイプではなかったが、彼の本心は理解しているつもりだった。でも、それは私の自惚が生んだ勘違いだったのかもしれない。信じて待つと言えば聞こえはいいけど、彼から

      • スケッチブック

         ポケットから取り出した時計の針は2時半を指している。ランチタイムの慌ただしさが引けたホールは、穏やかな時間を取り戻していた。 「お客さまがみえました」  それまで談笑していたスタッフが即座に反応する。 「待ちなさい、君たちはそろそろ休憩の時間だ」  アルバートチェーンのついた懐中時計をベストにしまうと、給仕長は若いスタッフの肩をポンと叩いて言った。 「私がご案内する」 「お待ち申し上げておりました。本日は何になさいますか?」 「ヨークシャーゴールドと、スコーン……はあり

        • 反芻する人形

           短いクラクションの音でハッとする。前の信号は青に変わっていた。私は後ろの車に見えるよう右手を上げて、車を発進させた。  そのギャラリーは目抜き通りを少し入った小路にあった。予定の時間にはまだ間がある。私はコインパーキングに車を停めて少し歩くことにした。辺りは表の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っている。あたかも、夜を待ち侘びる街区そのものが息を潜めているようだった。猫がまどろむ店先のウインドウに、一枚の写真が飾られていた。  薄衣だけを纏った女性の写真だった。彼女は窮屈

        ローズクォーツ

          迎えに行きます

           時間はいつだって不平等だ。楽しい時は音速で飛び去るクセに、人を待つ時間ときたら、ぬかるみを歩くようにノロノロやってくる。相手が会いたくてたまらない人ならなおさら。駅前の時計台の針は動くことを抗い、握りしめたスマホは何度見ても、5分と経っていなかった。  このエリア一帯はかつて、世界都市博の開催予定地だった。それが中止になったことで、建設予定地を使った商業施設が暫定的にオープンした。当時は、近未来的な建築と広い空き地が織りなす独特の雰囲気の場所だった。日時と天候を選べば、ち

          迎えに行きます