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「ぼくらの漂流記」Vol.2 ヒーロー《前編》

《プロローグ》末廣優太くんについて
今年4月、僕は石川県加賀市にお邪魔していました。本来は、「ノトゲキ 」という企画で能登をリサーチしていたときに知り合った「とても偉大な」あやおさんの新居を訪ねて行ったはずなのですが、そこで出会ったイケメン夫と意気投合してしまい、、、。それが末廣くんだったというわけです。
 多忙なのに、突然のオファーにも全く動じることなく対応してくれた末廣くん。話を聞けば聞くほど、格好いい。彼の仕事ぶりだけでなく、生い立ちや生き様からも、学べることが多いはず!どうぞお楽しみください。

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——忙しい中、こんなわけのわからない企画に付き合ってもらって有難うございます(笑)。

末廣
いやいや、こうやって(前回会って)また次の機会に誘ってもらえるのは嬉しいことですよ。

——今日は、なんと呼べばいいですか?スエたん?

末廣
いやあ(笑)、最近なんて呼ばれてるかな。
 親しみを込めて「スエぴー」とか、「スエたん」とか?いや、でもスエたんは呼びにくいでしょ(笑)。

——じゃあ普通に優太で(笑)。優太は正直、既にいろんなメディアに出てると思うんだけど、意外とその人生について書いてあるものって少ないと感じていて。優太の人となりがわかるように深掘っていきたいと思います。

末廣
90分も深掘ってもらってありがたいです。

——盛り上がったらもっと伸びます(笑)

末廣
(笑)

末廣 優太(すえひろ・ゆうた)
NPO法人「みんなのコード」Hub div. マネージャー。石川県デジタルアーティスト発掘委員会代表。複数のITベンチャーで新規事業を立ち上げた後、石川県に移住。移住後は学習塾や教育委員会、NPOなど多種多様な立場から教育事業に携わっている。2019年には「全ての子ども達が気軽にテクノロジーに触れ、表現することを楽しむ」ことを理念に掲げた施設「コンピュータクラブハウス」を石川県加賀市と共に立ち上げ、館長を務めている。2021年、大阪大学大学院人間科学研究科に進学。「実践と研究」の二足の草鞋を生かし、「テクノロジー×子どもの第三の居場所」の全国展開を見据えた政策提言の準備を進めている。

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1. 「みんなのコード」

——前回は生い立ちを聞いた上で今の活動について話してもらったんだけど、今回は順序を逆にして、まず今取り組んでいる「みんなのコード」について教えてもらえますか?

末廣
「みんなのコード」は、「子どもたちがデジタルの価値創造者となることで、次の世界を創っていく」をビジョンに掲げた団体です。
 2020年から、全国で小学校からのプログラミングの必修化が始まって。ただ、それをやることは決まったんだけど、教えられる先生がいないし、当初は、強化学習、つまり、数学とか理科に絡めてプログラミングを教えてくださいね、という難しいオーダーが出ていた。それじゃあ無理でしょう、となって、各自治体にちゃんとプログラミングを教えられる中核教員をつくろうということを目標に、全国の先生に向けて「養成塾」研修を始めた。そういう団体です。

——ということは、直接子ども達にプログラミングを教えるというよりは、最初は教師を対象にした事業だったんだね。

末廣
そうそう。児童数なんて結局何十万といるから、全員に教えるのはすごく難しい。実際に教えることになるのは先生だし、しかもその先生全員に教えるのではなくて、いろんな場所に教えられる人をつくろう、という感じで始まりました。

——なるほど、優太はそこのHub div.にいるということか。

末廣
実は、僕は結構それがもう終わりかけたくらいからこの会社に入ったので、僕がやっている「コンピュータクラブハウス」とかって、言ってしまえばスピンオフというか。石川県加賀市って、まあ全国でも三本指に入るくらいそういう事が進んでるんですよ。

——へー

末廣
学校でプログラミングが出来る子が増えてきたけど、その続きをやる場所がないよね、続きが出来る場所を公教育の中で作ろうよ、という試みの中で、コンピュータクラブハウスの活動が始まったという感じです。

——初歩的なんだけど、そういう教育へのIT導入の流れって、どうやって生まれたの?

末廣
まず経済産業省が、世界各国と比べると日本のIT競争力は低く、2030年には最大79万人もIT人材が不足するという推計を出した。そういった状況を踏まえ、文科省がプログラミング教育必修化に向けて動き出したんだよね。そういう社会の変化に合わせた要望があって、エンジニアとかが実際に必要な世の中になっていき、初めて僕らのような存在が出てきた。
 今やってる「コンピュータクラブハウス加賀」なんて、10年前だったら間違いなく流行らないし、今の時代や学校教育の状況に合わせて生まれたっていうのはありますね。

——「みんなのコード」っていうのは、じゃあコンピュータクラブハウスを運営する会社なの?

末廣
そうだね、その母体。

——そこのマネージャーというのは具体的にどんな仕事?

末廣
マネージャーになったのは正式には今年からで、それまでは、「みんなのコード」から、一人だけ加賀市にいた、つまり唯一の地方社員だった。
 そもそも「みんなのコード」っていうのは東京にオフィスを構える会社です。なので、一人で特攻切り込み隊長的に事業を立ち上げたのが、この「コンピュータクラブハウス加賀」。

——ということは同じような境遇の社員はいなかったのか。

末廣
そうだね。で、2年間加賀でやって、やっと2箇所目を金沢につくり、3箇所目の目処も立ってきたので、僕は立ち上げから務めた館長を一旦退いて、全国の館長がちゃんと仕事出来るように、とか、実際お金の話も絡んでくるし、そういう全体のマネージメントをするのが今の仕事かな。

——ということは、館長を更にマネージする、つまり、、、大館長?

末廣
(笑)。某企業でいうと、スーパーバイザー的な感じだね。
店舗があって、それぞれに店長がいて、それらの店長をサポートするスーパーバイザーがいる。そんなイメージ。

——ひえー。すごい。

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2. デジタルとアート

——じゃあ、「石川県デジタルアーティスト発掘委員会」っていうのはなんですか?

末廣
そもそもコンピュータクラブハウスって、いろんな機材を子ども達が自由に触れる施設で。スペックの高いパソコンとか、映像機器とか、DJのターンテーブルやロボットとか。でも僕らは学校じゃないからカリキュラムを用意していないんです。自由に触ってもらって、それを後押しするっていう。
 それもそれでいいんだけど、体系的に学べるわけじゃないから、例えば映像分野を深める人とか、何かの道を極める人って、そこからは出てきにくい。だから、もうちょっと中長期で学べる場を作りたいな、と思って。
 で、せっかくなら石川県で出てきづらい分野でいこうと思って。そういう分野で、人材を育てられないかなって思って立ち上げたのが、「石川県デジタルアーティスト発掘委員会」です。

——それも、優太が立ち上げたってこと?

末廣
そうです、そうです。

——おおー。

末廣
これは説明するのが難しいんだけど、団体の立ち上げはどっちかというと後で、企画をまず立ち上げたわけ。「映像制作ワークショップ エキゾチックフューチャー」っていう。
 それをやるためにはお金が必要で、映像作家さんも連れてこないといけないし、スタッフ人件費も必要だった。
 会社の中でやる案もあったんだけど、アート分野って、不透明じゃないですか。収益になるのかとか、Tech系の団体だからアート分野には疎いし、決裁取ってる時間もないので、じゃあ、自分でつくって自分でやっちゃえ、と思って。そういう都合があったから団体を作ったんです。

——どうしてアートに着眼したのか、僕がアート界隈にいる人間なので気になるところなんだけど。

末廣
結構これ、僕自身に関わるかもしれないんだけど、僕は、本当はテクノロジーもアートもそんなに興味ない人間なんですよ。興味ないっていうか、ちっちゃい頃から親しんでこなかった。
 特に芸術分野って全然興味なくて。エピソードとして覚えてるのは、3年ほど前にアメリカのメトロポリタン美術館に行った時に、世界でも屈指の巨大な美術館なんだけど、たった10分で見終わったんですよね。興味ないから素通りするだけなんですよ。それくらい、アートに興味ない人間なんです。
 ただ、なんとなく直感的に、テクノロジーの分野に今関わっていて、技術を学ぶだけじゃどうにもならないな、最終的には表現して、世の中にアウトプットしないといけないな、というのは思っていたんです。その手段が広義の意味ではアートになるのかなって。
 それにアートって、結構家庭の影響が大きいなって感じていて。例えばお金持ちの家庭はよく美術館やコンサートに行くし、その子どもはピアノやヴァイオリンを習ってたりする。そういう分野って、すごく経済的、文化的な格差が出るので、なおさら取り組んでいきたいなって。そんな、いろんな理由が組み合わさって、アートをやろう、って発想になってます。

3. カルチャーショック

——出身はアメリカでいいのかな?

末廣
正確には、茨城県で生まれて、生後4ヶ月でカリフォルニア州サンノゼに引っ越したのね。

——親の仕事の関係?

末廣
そうです。

——何をされているの?

末廣
父親は当時、技術系の仕事をしていて、技術提供をしにサンノゼに出向したのかな。

——あ、じゃあテクノロジーには縁があったんだね。

末廣
そうだね。家にパソコンはあったし、なんか触ってはいたかな。

——アメリカにはどれぐらいいたんですか?

末廣
5年間かな。小学校入る前までなので。

——現地の文化に染まったりとかってありました?

末廣
うん、現地校にいたので。家では日本語だけどそれ以外は英語で暮らしていたし。
 母親から聞いたのは、日本の幼稚園や小学校で下駄箱を通り過ぎて、土足で中に入って怒られまくったりしたらしい。

——小学校入ってからとか、カルチャーショックはあった?

末廣
当時の記憶はあんまないけど、小学校からずっと感じてたのは、手を上げる、とか自己主張の文化が日本はないじゃないですか。そういうところで、なんであいつ手あげてんだ、みたいになる。
 あと、僕は高校1年生の冬まで英語嫌いだったんですよ。要は、小学校でも英語を話す機会があるじゃないですか。そういう時に発音が他と違うので、なんだあいつ、みたいな感じで見られたりとかして。
 だから、カルチャーショックでいうと、人との違いを認めない文化はあるな、とはすごく思いました。

——ふーん。

末廣
特に、僕が幼少期いたところは、4人並んだら4人種いる、みたいなところで、仲良い友達がフランス人、アメリカ人、中国人、みたいな。だから、違うのが当たり前な場所から、同じなのが当たり前、という場所に移った感じがして、当時ショックはあったのかなと思いますね。

——性格はどんな感じだったんですか?

末廣
小学生の時はめっちゃ内気でした。
 サッカー少年団とかには入ってたんだけど、圧の強いやつには怯むし、事なかれ主義で。自分から手をあげるなんていうのも、小学校高学年にはしなくなってて。
 だから母親からたまに、僕がFaceBookとかで講演してます、とか堂々としてるのを見るとびっくりするってメールが来る。

——アメリカ時代で記憶に残ってることはある?

末廣
衝撃的だったのは、「キスキスゲーム」っていうのがあって(笑)。4、5歳くらいの子ども達が鬼ごっこするんだけど、捕まえられたらキスをされるっていう。なぜかまだ覚えてるんだよね。しかも、鬼が全員女の子なの。なんだったんだろうね、あれ。

——羨ましい気もするけど(笑)。でも小さい頃ってそういうの嫌だよね。

末廣
まあ、そういう感情もないからね。でも、不思議に思ったのは覚えてる。

——おませな女の子が、、、

末廣
いたんだろうね、きっと。

4. なんとなくな街

——じゃあ、出身と聞かれたら茨城なの?

末廣
そうだね、高校まではずっと茨城にいるので。

——地元愛ってある?

末廣
地元愛ってすごく難しいな(笑)。あるにはあるんですよ、帰りたいな、とか。でも、何が好きなの、って言われると無い。全然。
 特に僕が住んでた那珂市って、ただの住宅街で、フランチャイズしかない、なんの変哲も無い町なんですよね。
 これって結構田舎に来て感じることなんだけど、どんな田舎であれ人口が少なくなってきたら、その余白をどうにかしようと躍起になって、そこにU・Iターンが入ってきて、個性のあるお店作ったりするじゃないですか。
 けど、僕の住んでた街って、そういう余白がないのかな、って。人を集める必要もないし、なんとなく人が集まって、なんとなく道が舗装されて、なんとなく過ごしやすい場所だから。時々帰省しても、行くあてがないというか、面白い人がやってそうなカフェとか探すんだけど、全然ないんですよ。 パソコン持って作業しに行けるところがない。

——なんだかなあ。

末廣
だけど、友達との繋がりはあるから、なんとなく好きで。でも、高校は隣の常陸太田市にバイクで通ってて、そこは人口が減ってて。寂れた商店街に美味しいケーキ屋が一つだけあって、みんなで試食しに行ったりとかはしてたから、そういうのが、僕は高校から好きだったなあ、と思います。

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5. 悪いのは若者か

——今の活動の原点みたいなものってあったりしますか?

末廣
僕は学生時代に都内のHRTechと言われる領域のベンチャー企業で働いてたんですけど、当時は自分の同期、もしくは上くらいの世代の人の就活支援をしてたんですね。
 面談をして、その結果や志望先を見て企業に紹介し、面接のマッチングをする。そういう人と人をつなぐ仕事と、もうひとつはそのアプリを作っていた。
 それで会社にヒアリングをする中で、今どんな学生が欲しいんですか、と聞くと、「独創的」とか「主体性がある」とかそんな条件を示される。でも学生と面談してたらよくわかるんですけど、そんな学生いないんですよ。自分はベンチャーでゴリゴリやってる学生だったから、最初は学生側の問題だと思っていた。やる気のねえ学生ばっかだな、と思ってて。
 ただ、振り返ってみると、主体性とか独創性って、個人の個性を大切にするような環境がないと生まれないんじゃないかと思って。それがまさに、自分がアメリカから帰ってした体験と重なるかもしれないんだけど。何か自分の考えがしっかりと認められて、それを日々の活動に生かしてもらえるシーンってなかったし、それを18歳位まで続けてたら、そりゃ主体性も独自性も無くなるな、って思ったんです。
 教育は全然変わってないけど、社会はどんどん変わっていて、社会と教育の乖離みたいなものをものすごく感じて、日本の教育やばいじゃんって思った。そこから、石川県珠洲市に引っ越して、教育委員会の仕事を始めた。
 何も教育のバックグラウンドがないから、現場を知らなきゃと思ったのが、このキャリアのスタートですね。

6. トントン拍子

——大学では何をしてたの?

末廣
公立大学の国際系の学部に進んで、3年生までやってたんです。そのあと1年休学して、その年の5月に石川県に引っ越して。

——じゃあベンチャーでの仕事はアルバイトなの?

末廣
うーん、まあベンチャーのスタートアップらしさというか、特に最後で働いてたところとかは、予算もらってこれで事業作りなさい、自分で給料も決めなさいって言われていて。
 最初は時給で働いてたんですけど、新規事業ってそもそも最初は軌道に乗らないし、どんどんお金が減っていくわけですよ。
しかも周りからすると、あいつただ机に座ってウンウン悩んでるだけで金もらってるみたいになって。そう見られるのもすごく嫌だったので、社長と相談して、僕が立ち上げる事業の、経費とかを差し引いた利益の10%を給料にしてくれって相談したんです。
 最初の4ヶ月とかはずっと給料ゼロだったんですよ。社員より誰よりも働いてるのに。一日18時間くらい働いてたんじゃないかな。終電で帰って始発で来るみたいな生活を続けて。で、4ヶ月目で50万円の利益が出たから給料が初めてもらえた。そこからはぐっと伸びて、最後はなかなか良い額の報酬をもらえるようになったって感じなので。
 インターンとか、バイトっていう建てつけではあるんだけど、社内では事業部の部長であり、マネージャーであり、全社の経営会議に参加するとか、かなり暴れさせてもらったな。

——そういう働き方って、全然身近じゃないんだけど、業界だと普通なの?

末廣
いや、ここまで振り切ってるのはなかなかないと思ってて。ただ、普通は基本給があって出来高とかだから、社員だとここまではできない。そもそも僕は学生としてはグレーですよね。バイトに対してだって最低時給があるはずだけど、僕はそこを取っ払って契約させてもらったので。

——どんな経緯でその職場に入ったの?

末廣
実は、企業経験としてはそこが3社目だったんですよ。1社目はさっき話した採用に関わる仕事をしていて、そこでの営業先の一つだったし、一緒にイベントもやったりした。そこで関わる中で、そちらの社員さんに話しかけてもらって、「何歳なんですか?」って。「大学2年生です」って答えたら、「え、君ちょっとうち来てよ」って言われて、でそのままスカウトしてもらって。僕は1社目で出来ることは大分だいぶやり終えたな、という感覚だったので、ぜひ、ということになりました。

——いやあ、なんかすごい格好良い人生だね。

末廣
いや、勢いだけで突っ走ってたらいろんな人に助けてもらえたってだけで。一歩振り切り方を間違えたらまずい、というか。

——第三者から聞いてるとめちゃくちゃ成功人生に聞こえるんだけど。トントン拍子というか。紆余曲折してないじゃない。

末廣
自分の中で失敗を失敗とも思わないんだよね。失敗っていうのは結局、そこで止まったから失敗なのであって、そこを修正していけば、その先に自分が納得出来る場所があるし、失敗って言われると、僕も正直よくわかってないんだよね。
 ついこの間も、大学で講演してる時に同じ質問されて、「すごい調子が良く今まで来てると思うんですけど、挫折とかないんですか」って。
 人が挫折っぽく思うエピソードは沢山あって、かなり深刻なのもあったんだけど。ただもう、振り返ると、僕にとっては全部が糧になっているというか。もし今度何か新しいことをするってなっても、悪い兆候に気が付けるから。

——いやあ、もう、ただ格好いいなあ。

末廣
(笑)。

(次週へ続く、、、。)

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次回予告(7/16更新予定)
今回は、現在の仕事から、そこに至る過程を話してもらいました。
次回は、何故挑戦を続けていけるのか、その生き方の根本や、ポジティブさの秘訣、さらには、パートナーのあやおさんとの出会いまで、とことん聞いていきます。次回も末廣節満載。お楽しみに!

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