Valenciaの記憶3
3.11
その時私はValenciaにいた。
日本の娘からメッセージが来た、タイヘンダ、地震だ!!とだけあった。折り返し電話をしたが繋がらなかった。
急に気持ちがザワザワしてきた、ちょうど母が遊びにきていたので母もまた日本にいる父に連絡をした、
繋がらない、
なんで?おかしい、大きな地震だったのかな?
そんなに大きな地震ならばここでもニュースになるかもだよ!テレビつけてみようよ、
つけた瞬間目を疑った、
画面右上に日本で地震とある、まさに津波の映像だ、
何処かわからない、田畑が津波に飲み込まれ民家も飲まれ潰されてゆく、人も車もどんどん飲み込まれてゆく、画面にはJapón の表示だけ、日本の何処なのかの情報がまだ無い。
母との久々の再会に喜んで談話していた今の今、私たちは抱き合って泣いた、
日本が波に呑まれてゆく、、ひたすらどうしよう、どうしよう、場所はどこなの?を叫びながら泣いた。
日本の家族と連絡が取れるようになったのはそれから丸一日が過ぎた頃だった。ようやく家族との連絡がつき無事であることが知らされた。同時に地震が起こり津波が発生した場所も知ることが出来た。
スペインに居ながらも次第に被災地の映像が増えてきた。
私たち家族親族には直接的な被害は無かった。しかし計画停電や燃料を求めて長蛇の列を待ったりこれからの果てしないそして見えない未来へとつづく。
それから間も無く私たちは帰国した。
ここでの仕事も強制的に終了した。
家族がバラバラに暮らしていたがこの日を機にそばに暮らすようになった。それから10年、大切な人を失った、娘が結婚した、新たな出会いがあった、島まで医療派遣で行った、戻ってきた。
今また陸続きで皆んなに会いに行ける事が大切と思える。高齢になった両親も一年一年大切に暮らしている。いつでも飛んでいける距離だ。
冒険だった10年間、これからの10年は安心、安定を心がけて生きたい。
つづく
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