『オッペンハイマー』は日本でこそ公開してほしい



クリストファー・ノーランの作品が好きだ。同じ時代に生きている奇跡、彼が映画監督として作品づくりを続けていることに感謝の念すら覚える。『インターステラー(2014)』など何度観たか分からないし、観るたびに何度でもマーフィと一緒に〝Heurēka!〟と叫びたくなる。

そして映画作品は必ずしも、史実に沿った中立的なものだけが正義ではないと理解はしている。『RRR(2022)』は映画としての〝最高〟が雨のように降り注ぐ作品、観たら踊り狂いたくなるような爽快な作品だった。ラーマ・ラージュもコムラム・ビームも実在の人物ではあるが、2人の活動場所と時期は異なっており、接点があったわけではない。最高の歴史〝ファンタジー〟なのである。(※1)

ノーランの作品が好きだ。中立的で〝正しい〟歴史を描いた作品だけが私にとっての「良い映画」ではない。それは理解している。

今ノーランの新作である『Oppenheimer(原題)(2023)』が全米で公開されている。予告を見ると、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマーの人生について描いた作品であることが分かる。

オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer)はアメリカの理論物理学者で、広島・長崎に投下された原子爆弾の開発者の一人である。後に水爆反対活動を行い、ソ連のスパイであるという疑惑を持たれ、公職追放されたという。

大好きなノーランの作品だが、日本では公開予定はまだ未定である。とはいえ、公開されたら観に行くのかというと、うん……どうしようかな……ずっと迷っている。

ただ、公開はされてほしい。日本でこそ。




アメリカ留学中に現地校で歴史の授業を受けていたのだが、原爆についての認識、特に被害についての認識が「落とした側」と「落とされた側」であまりにも違うことに衝撃を受けた。

2010年代、日本の高校1年生に相当する学年で授業を受けていた。だが級友たちの認識は『インディ・ジョーンズ/クリスタルスカルの王国(2008)』で描かれたような「冷蔵庫に入っていれば直撃しても生き延びられる」のままだった。

そんなわけないだろう。熱線に焼かれたら皮膚が剥がれ落ちる。指先から皮膚を垂らしながら歩くその姿をイメージでも何でもいいから見たことがないのか。
そう言っても「何それアニメ?アンデッドみたい」で笑いが起きるような環境だった。

笑い声を聞きながら、またそれを助長するような冗談を飛ばす教師(※2)を見ながら、尋常ではない不安に苛まれた。

一緒に授業を受けクラブ活動をして笑ったり泣いたりしながら過ごしてきた友人たちが、全員私の知らない何かに見えてしまった。世界最大の核保有国、そのボタンを押せる人間を将来的には選出するであろう人たちが、この認識だとは思わなかった。

と同時に、日本が侵攻した国への認識も「日本で習う歴史」と当該国では違うのだろうと思い気が遠くなった。

どちらが正しいとどう判断したら良いのだろうか、正しいとは何だろうか。恐らく歴史を捉える目線が違うのだろうとは思ったが、では今まで私が教わってきた「歴史」は本当に事実なのだろうか。そういえば日韓で歴史認識の違いが問題になっているとニュースで見たことがあるような……私も何も知らない。

高校生だから仕方ない。そうかもしれない。私も台湾からの留学生に無神経なこと(※3)を言ったことがあった。だから当時も、国によって歴史認識に違いがあることは分かっていた。分かっていたつもりだった。

最終的にクラスメイトには『ヒロシマ』という記事を突きつけて、ようやく真剣に取り合ってくれるようになった。(※4)
原爆被害への解像度は国によって違う。当時の私にとっては衝撃的なことだった。


それまで自分が日本人であることを意識することは、あまりなかった。だからといって不利益を被ることもなかったし、意識するとしたらパスポートを出す時と、グリーンティーに砂糖が入っていて絶望する時くらいだった。今思えば、周りの大人たちに守られていたのだと思う。

だが教室に守ってくれる大人はいない。この時初めて、私は自分が「日本人」であることを強く突き付けられたのだと思う。少なくとも私自身は、ナショナリティからは逃げられないのだと感じたのだ。日本人であることが誇りだとか恥だとかそういった概念的な部分ではなく、また流れる血が云々といったどうでもいい血統主義でもなく、ただ日本の文化の中で育ったという事実、その背景からは逃れられないのだということを理解した。



あの教室での出来事は、毎年8月になると思い出す。
クラスメイトは『ヒロシマ』の記事を熟読した後、「知らなかったのだ」と言った。「でも第二次世界大戦中の日本はもっと残虐なこともしたはず」とも。

その時に感じた埋まらない断絶を、毎年思い出すのだ。それが直接的な戦争を知らない「戦後」生まれの私にとっての8月6日であり、8月9日であり、8月15日だった。


ノーランがオッペンハイマーをどのように描くのかについては興味がある。

だが、アメリカで同日に公開された『バービー(2023)』と抱き合わせのファンアート(※5)やインタビューが流れてくる中にいると、どうしても、あの時の暗澹とした気持ちや、あの教室でのクラスメイトとの断絶を思ってしまう。

あれから10年ほどの間に色々あった。大統領が広島を訪問し、原爆記念館を訪問し、世界が再び核の脅威に晒されている。それなのに、原爆への認識のズレは10年前から何も変わっていないのではないか。


そういったことを確かめる意味でも、『Oppenheimer(原題)(2023)』は日本でこそ公開されてほしいと思う。

題材的に、自分の持つナショナリティのようなものを突きつけられるのは間違いないだろうと思うし、映像作品として楽しむ余裕は、恐らく持てないような気がする。もしかしたら、それが理不尽な感情であると理解はしながらも、ノーランが嫌いになるかもしれない。

それでも、日本でこそ公開されてほしい。日本で観るのと海外で観るのとではたぶん、劇場の空気からして違う。間違ってもバービーとの抱き合わせファンアートなんて出てこないくらいに。









(※1)『RRR』では植民地時代のインドの目線でイギリスの植民地支配の様子が描かれている。過剰に横暴で暴力的に見えなくもないので、そういった意味でも歴史認識的に「中立」ではないと思う。けれど考えてみれば、これまでヒット映画のほとんどはハリウッド映画≒欧米社会が作った作品であり、言うなればボリウッド≒インド社会は「やられっぱなし」「言われたい放題」だったのだと思う。なので、今度はこっちがこっちの認識で作りたい作品を作るから!よろしく!みたいなエネルギーを感じた。総じてすごく良かった。

(※2)担当教諭がひどい差別主義者であったのもあると思う。北西部の太平洋に面した都市で、アジア系がとても多かったにもかかわらず、授業の中で「アジア人は国に帰れ」と冷笑を浮かべながら言える人間だった。歴史認識が国によって異なることを説明せず、「合衆国ではこう」「それが正しい」を押し付ける人間だった。在米中、ほとんどの人が親切でフレンドリーだったので、居るんだなこういう大人……というのも勉強にはなった。

(※3)「へー!日系3世なんだ!おじいちゃんはどうして台湾に?」最悪すぎる。今でも後悔している。

(※4)これはこれで、結局彼らは自分と同じ属性の人間の言葉しか聞かないし信じないのかもしれないと失望したし、そのことを批判して喧嘩もした。なんにせよこういう時話を聞いてもらうためには、第一にしっかり英語が話せなければならないということも理解した。

(※5)バービーとピンク色のキノコ雲などが描かれていたり、バービーがオッペンハイマーにキスしていたりする。自分は二次創作に対して比較的寛容だと思っていたけれど、これは無理だと思ってしまった。無神経すぎて私には受け容れ難かった。絶対にお勧めしないが、元の画像などを見たいのであれば〝Barbenheimer〟で調べると良いと思う。


※初めて書いたのでベタ打ちで読みづらくてすみません……そのうち綺麗に整えます。

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