なんでもない凡人の創作遍歴~小学生から今まで~
※ヘッダーの写真は中学の美術で作ったカイロスのお皿。卒業制作だった気がする。
中学2年生の時、国語の授業で作文を書かされた。それも説明文を。
作文のテーマは自由だが、自分の通したい意見を根拠などを記したうえで書いてみましょうみたいな授業だった。
私はそこで「ポケモンの最初の三匹は、水タイプを選ぶべきである」という作文を真面目に書いた。
理由は、波乗りや滝登りといった高威力のひでんわざを覚えられる上に、当時発売されていたサン・ムーンまでの全てのジムリーダーと四天王のタイプを踏まえて、水タイプだと有利を取れることが多いから、みたいなことを書いた。
ゲームの話とかして良いのかな、、、とか内心ヒヤヒヤしながら提出したものの、これを笑いつつも真剣に受け取ってくれた国語の担任の先生には今でも感謝をしている。
そのおかげなのか、私は文章を書くのが好きになった。
小学5年生の頃、クラスメイト何人かで漫画を描いていた。
1冊の自由帳にそれぞれが漫画を描いては別の人に回し、描いては回し、、、を繰り返して、1冊のマンガ誌を作り出していた。
その名も「青年シャンプー」
少年ジャンプを文字ったネーミングだ。我ながらセンスが有るなぁ。。。あれ?
当時は銀魂に丁度ハマり始めていた時期だった。
私が描いていた漫画は基本的にはストーリーの欠片もないような作品で、たまに銀魂で好きだったシーンをまんまぶち込んだギャグ漫画を描いていた。
コロコロと銀魂とギャグマンガ日和の影響がとても強く出ていた作品だったが、うんちとかちんちんとか不本意な殺人で笑いを取っていなかった(気がする)当時の私を褒め称えたい。
図工の時間に描いた銀河鉄道の絵が何かのコンクールでクラス代表として選ばれる程しかない私の画力と、根っからの飽きっぽい性格では、当時掲げていた「漫画家になる夢」は叶えられるはずがなかった。そもそもコマを定規で引いていなかった。
この経験のおかげで、ギリ相手に伝わる程度の画力が身についた。
別にうまくないけど、何描いてるのかはわかる程度の。
だから絵しりとりがくそつまらなくなった。
高校に入学してからは軽音楽部に入り、ギターを弾いた。
人前に出る機会が増えて恥をかくことに慣れた。ここでいう恥とは、ギターソロをミスったりギターを弾くために必要なピックを落としたりする程度のことだった。
この経験から、人前に出てもハッタリで大抵のことはやり過ごせるということを学んだ。楽譜は最後まで読めなかった。
高校3年生の時、英語の授業で「映画の予告」を作ってみようみたいなことをした。
英語の時間なのでもちろん英語で動画を作成しようねというものの、それ以外の縛りは特に設けられていなかった。
くじ引きで決まった6人くらいのグループができた。
さぁ、私の時間だ。
もちろん動画制作なんてしたことない。技術もあるわけがない。
ただ好奇心だけをぶら下げて台本を作り、演出を考え、カメラを持ち、編集をした。
この授業(動画)で大切なことは、あくまで「映画の”予告”」を作ることだった。
予告なのだから、そこにオチを用意してはいけない。
ただし、予告しか作ることができない授業なので、起承転結ははっきりと見せなければただのよくわからない映像のつなぎ合わせに成り下がってしまう。
そこで私は次のような予告を作った。
他の班がアイフォンの標準で搭載されている編集アプリのテンプレで予告を作っていたのに対して、私は無駄に映像の速度を変えたり画質をいじったり映像を切り抜いてくっつけたりしていた。無料アプリで。
ただ楽しかった。同級生からは、「編集上手いねぇ」と「カメラワークが良いねぇ」しか言われなかった。我ながらイタイやつだ。
大学に入学して程なく、ミラーレス一眼を購入した。
カメラ時代の突入である。
これは特に言うことはない。
ただ構図力が身についた。
何でも写せばいいってもんじゃないという引き算の大切さも身についた。
それでもパワーポイントみたいな資料は未だにうまく作れない。
コラージュみたいに、足し算で何かを置くセンスが絶望的にないことを大学で痛感した。
そうして大学3年時から、このnoteをはじめた。
絶賛文章時代なのである。
飽きっぽいがゆえにあらゆる表現をうすーーーくかじっている私。
ゲームの体験版みたいな感覚でいろんな物の表面だけすくってそれっぽい面をしている。
ただ自分の頭の中にあるものを吐き出したい欲みたいなものがずぅーーっとあるんだろうなとは思っている。
その種だけが頭の中にわらわらと存在している。
いつかこれらを芽生えさせられる媒体を見つけるまで生きてたら良いな。
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