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今年もまたこの場所に帰って来られた

ピンと張り詰めるような冷たい空気の中、和釜の上に置かれた甑(こしき)からもうもうと白い蒸気が上がり、天窓に吸い込まれていくのを寒さに震えながら見ていた。

寒い。酒蔵は底冷えする。
ポケットの中のカイロを手で探りながら、白い蒸気を見つめる。
朝9時半。もうすぐ酒米が蒸し上がる。少しずつ蔵人が甑のまわりに集まってきて、蔵の空気が動き出す。
いいな、この瞬間。

ご飯が炊ける時のような少し甘い匂いを嗅ぎ、胸の奥と目頭が熱くなっていくのを感じていた。

やっぱりこの景色が好きだな、と思う。
また今年もここに帰って来られた、とも思う。
この4年間は毎年「今シーズンで最後かもしれない」という不安をぬぐうことができなかった。
今年もそれは同じだ。むしろその不安は強くなっている。
最後かもしれない。だけど、とにかく今年もここに帰って来られた。今はその喜びの方が大きかった。

もうすぐ酒米が蒸し上がる

「酒蔵萬流」という雑誌の記事のため、岩手県の某酒蔵を取材。(本誌が1月発行のため社名は伏せておきます)
火曜日から岩手へ来ていた。伊丹空港から仙台空港へ飛び、そこから車で90分という長旅。体調が不安だったが、なんとか薬で痛みを抑えられていたし、気分の高揚もあってか、いつもより元気だった。

今シーズン初の酒蔵取材だったこともあるが、それ以上に今回の取材には特別な想いがあった。
この記事が掲載される号で、創刊号からちょうど10年になるのだ。
始めた時に「10年続けましょう」とクライアントの社長に言われ、私自身も「10年」を目標に頑張ってきた。この10年の間に、がんの告知、手術、抗がん剤治療、再発、痛みとの闘いと、いつ中断してもおかしくないような出来事が多々あったが、なんとか「10年」までたどり着けた。
最近は特に痛みが続いていたから、取材に行けるかどうか、実際に飛行機に乗ってみるまで不安だったが、取り越し苦労だったようだ。私はまだまだ動けるし、ちゃんと取材もできる。

1日目は飲食店を取材し、終了後はクライアントの営業さんとカメラマンさんと一緒に、ホテルの近くの焼き鳥屋へ飲みに行った。
およそ1か月ぶりのお酒。1年365日のうち「アルコールを抜くのは5日くらい」だった、自他共に認める酒飲みの私が、だ。
おちょこに今回取材する蔵の酒を注いでもらい、そっと口をつけた。

ああ……
自然に吐息のような声が漏れる。
いいお酒だ。主張しすぎる華やかな香りなどなく、味わいも穏やか。水が軟らかいのか、口当たりが軽い。すっきりしているけれど、淡麗なのではなく、ちゃんと米の旨味は感じられる。甘味や酸味の自己主張が弱いが、その分、長くだらだらと飲める。悪く言えば「地味」だけど、こういうお酒が一番料理を引き立ててくれるのだ。好きなタイプのお酒だ。

やっぱり日本酒が好きだな、おいしいなと思う。
そう思うけれど、結局2時間かけて1合弱しか飲むことができなかった。
「あの私が、もう1合も飲めないのか」という残念な気持ちと、「こんなに弱っていても、まだ1合くらい飲めるんだ」という嬉しさとが入り交じった複雑な気持ちで店を出た。
だけど、こういう「飲みの場」が久しぶりで、仕事仲間とあれこれくだらないことを話しながら飲むのは楽しかった。懐かしさすら感じるほどに、その空間と時間が愛しかった。

そして、翌朝、酒蔵へ。
小規模で古い設備しかないが、若い杜氏さん(製造責任者)が工夫と努力で少しでも良い酒を造ろうと頑張っている、とても素敵な酒蔵だった。今年はいろいろなコンテストで賞を受賞し、結果も出している。
蔵人は30~40代が中心で活気があり、皆が楽しそうに働いているのも印象的だった。

きれいな最新の設備がある酒蔵もいいが、こういう昔ながらの酒造りをやっている蔵が私は好きだ。
10年目の記念すべき記事がこの蔵でよかったと思った。取材の途中で、もう自分が「いい記事」を書けることはわかっていた。取材しながら頭の中でどんどん文章が組み立てられていく。このゾーンに入った時の私は強い。
ライターの心をかきたてるような蔵であり、そういう杜氏さんだった。

やっぱり私は酒蔵の取材が好きだな、と思う。微生物の神秘に魅せられてから、もう何年経つのだろう。
随分前に取材した蔵の蔵元さんが「酒造りは神さんごとだから」と言っていたことをよく思い出す。
「神さんごと」、すなわち「神事」ということだ。
人間や設備・機械ができることは限られている。人はただ、微生物たちがうまく働いてくれるように環境を整えてあげるだけ。酒を造るのは「人」ではなく「微生物」なのだ。それは、「菌」という概念もないような昔の人にとったら、まさに「神さんごと」だっただろう。
ただ、化学的にいろんなことが解明され、蓄積されたデータや数字でおいしい酒が造れるようになった今も、やっぱり酒造りは「神さんごと」だと言う言葉に、妙に納得してしまう。
酒蔵にはそんな神秘的な空気が漂っているのだ。
そして、私はその空気が好きでたまらない。

今回の出張は移動も長く、帰りはさすがにへとへとだったけれど、もう行く前のような不安はなくなっていることに気づいた。
大丈夫だ。やれる。今シーズンもちゃんとやれる。そんな自信が生まれた。

もしかしたら、今シーズンで最後になるかもしれないけれど、「10年」やり切った。あとは書くだけだ。そう思うとホッとしたし、嬉しかった。
もうすぐ、私の何にもない人生で、たったひとつでも「誇り」に思えることができる。
1月号が発行されたら、その時は頑張った自分を思い切り褒めてやりたい。
その日はお祝いに、吐いても倒れてもいいから、おいしい日本酒をうんと飲んでやるつもりだ。

さて、来週は徳島だ。
これは4月号に掲載の記事。11年目に突入だ。

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