写楽は確かにその時そこにいた。

東洲斎写楽という浮世絵師は、
江戸時代中期に約10か月の短い期間、役者絵その他の作品を版行したのち、
忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られております。
その極端なディフォルメは、当時あまり人気が無くて売れず、
後年、海外で評価されたことで有名になった絵師のようです。

その絵は、一目見たら忘れられないほどインパクトがあり、
わしなんかは凄く好きですが、
当時、役者さんのブロマイドとして版行されたことを考えると
個性的すぎて人気が出ず、
役者さんの評価も低かったのは無理もない気がします。

写楽が人々の興味を引くもう一つのポイント、
写楽が誰でどんな人物なのかという点ですが、
昔からたくさんの人がいろいろな説を唱えています。
最近では、
阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であった、
という説が有力です。

誰か?という答えには当たりませんが、
写楽がその時その場所確かにいた、
という事がわかる面白い話があります。

「大童山土俵入」という写楽作の浮世絵があります。
大童山は1794年9月に6歳にして初土俵を踏んだ子供力士です。
当時、6歳にして身長120センチ71キロの巨漢だった事で、
見世物の色合いも強かった相撲の興行のひとつの出しものとして、
土俵入りを披露していました。
大判3枚のセットで、土俵入りする大童山と
土俵下両側で見まもる力士たち、
大関谷風とか伝説の最強力士関脇雷電為衛門の姿がかかれています。

画像1

この大童山の姿を描いた写楽の浮世絵ですが、
実は、出版されなかった版下絵10枚が存在し、
大童山の他に19人の力士が描かれています。

それまで役者絵を描いてきた写楽ですが、
新たに相撲絵を描くということで、
相撲興行を見に行っているはずですよね。
現場で写生をしたかもしれません。

ところで、
大相撲の興行というのは、仔細に記録が残っていて
実はネットで閲覧することができます。

大相撲星取表
http://sumo-hositori.com/kensaku.html

写楽が実際に大童山の土俵入りを見に行って、
また、土俵に登場した力士を描きうつしたとしたら、
描かれた20人の力士が全員登場した日を調べてみることが
できるのではないでしょうか?

実は、寛政6年(1794年)冬場所の二日目(11月17日)にのみ
この20人全員揃うのです。

寛政6年11月


2日目、休み(や)の力士は登場しません。
この場所は、江戸の本所回向院で開催されています。
今も両国にある回向院ですね。

写楽の力士絵10枚が出版されなかったのは、
この翌年、1795年(寛政7年)2月27日に
ここに登場していた、大関谷風が急死してしまったからだといいます。
死因はインフルエンザと言われています。

いずれにしても、
1794年のこの日、東洲斎写楽という浮世絵師は、
両国の回向院にいて、
相撲取りたちの姿を写生していたのでしょう。
写楽が誰かはわからないけれども
その時たしかに写楽はここにいたと思うと
面白いですね。














この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?