コラム:ヨルシカの言葉遊び(漢字編)

漢字編と言っているけれど、このシリーズが続くかはわかりません。

日記に書くことがないので、今日もコラムを書く。日記を毎日書かないのってあんまり意味ないよなぁと思いつつ、コラム書いてる方が楽しいし。とりあえず、文章を書くこと自体が重要なのだということにして。

ヨルシカというアーティストは、歌詞に巧みな工夫が施されていることで有名である。1番と2番で助詞をひとつだけ変えることで大きな意味の違いを持たせたり、同じ音をひらがなと漢字で表現し分けることで別のニュアンスを表したり、文学作品から表現を借りて歌詞に用いたり。それらは作詞作曲を担当するn-bunaの深い教養から来るもので、そんな彼の工夫を知るたびに俺は感嘆したりするものだ。真に教養のある人間がやる遊びは本当に美しい、と俺は思う。その一例を出そう。

「君の胸を打て 心をわすれるほどの幸福を」(左右盲)

おそらくお気づきだろうが、「わすれる」の正しい漢字表記は「忘れる」である。「亡れる」を「わすれる」とは読まない。ではなぜこのような表記にしたのか。

「忘」という漢字は、「亡」と「心」からできている。語源的には「心」から「亡くなる」こと、つまり「忘れる」ということらしい(誤情報だったらすみません)。これを歌詞に照らし合わせると、「君が自分の心を忘れてしまうほどに胸を打たれるような、そんな幸福を君に与えたい」、つまり君の意識から君自身の意識が抜け落ちるほどの幸福を、ということになる。つい自分が自分であることを忘れてしまうようなってことかな。西田幾多郎の純粋経験みたいな。まぁとにかく、心から心が亡くなっているので、「忘」という漢字から「心」が抜け落ち、「亡」という表記になっている。

面白いよね。聴いてるだけじゃ絶対気づかないようなところまで作り込んでいる。歌詞をよく見た人だけがそれに気づいて、思わずニヤリとするような。神は細部に宿るとはよく言ったものだと思う。その意味でヨルシカの音楽には神様が宿っている。

もうひとつだけ例を出したい。これも洗練された遊びだ。

「いつもの通りバス亭で、君はサイダーを持っていた」(あの夏に咲け)

これもすぐ気づくだろう。バス「停」じゃなくてバス「亭」。これも一般的にはしない表記だ。この理由も語源から見ていこう。

「停」の字は「亻」(にんべん)と「亭」からできている。言わずもがな「亻」は人をことを指しており、「亭」とは建物のことを意味するらしい。まぁつまり「停」とは人が建物にいる様子を表しているわけだ。
それならば歌詞における「バス亭」とはどういう意味を持つのか。もちろん、そこに人がいないということである。バス停には人がいない。だから「停」から「亻」を取って「亭」。まぁロジックとしてはシンプルだよね。

しかし、歌詞を見ると「バス亭」には「君」がいることになっている。「君」はいつもそこでサイダーを飲んだり泣いてたりしていて、物書きである「僕」はその様子を書いている。「君」がいるのに、どうして「バス亭」なのか。
それは、「君」が人間ではないから。
俺が思うに「君」は既に亡くなっていて、幽霊なんじゃないか。だから「僕」は「君」に触れられないし、「君」と同じバスには乗れない。「君」がバスに乗って夏に消えていくのを、ただ見送るしかない。そういうことなんじゃないか。だから「君」がいたのは、「亻」のない「バス亭」なんじゃないか。

実をいうと、バス停で出会う人間と幽霊の話はもうひとつある。2021年盗作ツアーで配られた掌編では、ある女性をバス停で待つ幽霊の男性と、彼に出会った生身の女の子の話が書かれている。彼が言うに待ち人の女性は彼の想い人であり、その女性が生まれ変わったらここに来るはずだということらしい。
『あの夏に咲け』のふたりって、この話の男女の前世なんじゃないか。『あの夏に咲け』の『僕』は幽霊の「君」に出会い、恋をした。そして「君」は「僕」のもとから消え、やがて「僕」も亡くなる。「君」への未練を残した「僕」は、今度は自分が幽霊になってあのバス停で「君」(の生まれ変わり)を待つ。「君」がまたここに来ることを信じて。

これはあくまで自分の解釈にすぎないし、まったく別の解釈もあるのだろう。俺の解釈が正解である保証もない。もしかしたらただの妄想なのかもしれない。でも、この「亭」というたった一文字の表現だけで、ここまで解釈が広がったのは事実だ。小さな工夫でここまで作品を広げることができるのはn-bunaの卓越した技量やセンス、深い教養の賜物であり、それは疑うべくもないだろう。

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