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つらい経験を創作活動に活かしたい方へ

こんばんは、びねつです。
私は2020年から活動を続けているピクセルアーティストです。

今回はつらい出来事を創作活動に活かした3つの経験です。実際に起きた出来事に私がどう対処して先の創作活動に繋げたかを書きました。

どれも自分の中でわだかまりの解消ができており、現在の創作活動に転化できています。一時の感情を長期的なモチベーションへ変えるための方法も含めて書いていますので、読まれる方のなにかの役に立てればうれしいです。

早速書いていきます。

びねつさんの絵って何もないよね

びねつさんの絵って何もないよね

と言われた経験
びねつとは別名義で活動していた頃、いろんな人と合同誌を作っている人に言われた一言です。

私はこの経験を通して作家性を確立しました。


当時は絵を始めて少したち、件の発言をした方を始めとしたいろんな作家さんと会うようになったばかりでした。
知り合った方々はみんな個性的で、そんな中では絵を始めたばかりの私なんて無個性で、とても稚拙であったことは間違いないですね。

その後、私は作家としての個性、いわゆる作家性を活動の軸に置くためにいろいろ考えました。その結果たどり着いたのが審美眼の獲得です。

絵を始めてから今まで採用しているドット絵は、身体に起因する技術に依存せず、その良し悪しは作家の判断力に寄るところが大きいのが特徴です。
大事なのは判断に必要な価値基準で、ひいてはそれが作品に表れているか客観的に判断するための審美眼なのではないかと考えました。

そこからはTwitterでウケている絵をざっくりと見て、ドット表現と組み合わさることで確立できる個性はないか考えていました。

ストーリー性、複雑性、要素、描き込み、彩度、コントラストなど、全体的にこれらの要素が極端に高い(多い)作品が多いのを感じました。
その逆をつくものならニッチでも一定の需要がありそうだと思って始めたのがいまの2色で描く絵です。既存絵の鑑賞と2色構成で絵を描くことを通して審美眼を養うこともできました。

いまもなにもない絵かもしれないと思うときはありますが、なにかのある/なしは二元論ではなくグラデーションで、各々が知覚できる範囲で物事を組み立てるのがよいのではないかなというのが、確かに何かを手にした私の考えです。


「上手い事需要とハマった人」呼ばわりされる

創作って上手い事需要とハマった人じゃないと続かない
私はもう創作やめるとこまできてる
自信のある作品が適当な作品に抜かれるのが嫌で嫌でしょうがない

当時ほぼ毎晩一緒に作業していた方が私をフォロー解除した後のツイートに書かれていたことです。

私はこの経験を経て人と積極的にコミュニケーションをとるようになりました。

先に書いたびねつさんの絵って何もないよねエピソードで、私が世の中の流れを読もうと奮闘していたことはこの記事を読まれた方には既知の事実なのですが、この人はそれを「上手い事需要とハマった人」の一言にまとめました。

おもしろいですね。

これを受けて私は
・他人がなぜその選択に至ったのかは目で見えるものではない
・特定の方から見たら特定の側面しか見えないのは当たり前
→ もっと意識的に自分の考えを伝えなくては…!と感じました。

言いたいことや確かな考えがある中で、そもそも伝えようとしなかったり、伝える場や伝えること、伝え方などを適切に選べない、それが元でコミュニケーションの機会を逃し、たがわなくてもよい仲をたがわせてしまうのはとても悲しいことです。

私は自分のコミュニケーションにおける怠慢で誰かとの縁を切りたくないので、絵でも対人でもわかりやすい表現を心がけました。また人の意見を取り入れられるように創作ではイベントでファンと交流したり、アンケートでの需要調査をやるようになりました。これらの行動の是非は今の私の状態を見れば明らかかと思います。


仲良くしていたグループから抜けたこと

これは読んでそのままのことなんですが、当時交流があったグループから抜けました。
理由はグループの主要人物に嫌われてしまったからです。
私はこの経験でひとりでも創作活動が続けられる自信を得ました。

一から十まで書くと現在のそのグループの方々にも迷惑がかかってしまうので私に関することのみ書きます。

私は前の名義の頃からあるグループと交流がありました。
日々、絵を描きながら通話をしたり、イベントごとには一緒に行ったり、節目には集まって遊んだりと、それはもう仲良く過ごしていました。

グループの中にはAさんという方がいました。
私はこのAさんから嫌われることでグループを抜けることになります。Aさんは仕切り上手で言動はつらつとしていて、グループ内のイベントの企画やお出かけの用事など様々なことはAさんが中心になって行っていました。

ある日、私はAさんに告白されました。私は当時恋愛をできるような状態になかったのでお断りしたのですが、このことが元でその後Aさんからいろいろなことをされるようになります。

Aさんと私との間でされたことについては言いません(ここで一方的に言うのはフェアではないので)。
他の人も関わることに限っていうと、Aさん主催のお出かけイベントに呼ばれることがなくなりました。
だいたいは他の方がAさんから誘われて、近日中にイベントが開催されるくらいになってから「そういえばびねつさんも来るんだよね?」と他の方から聞かれる形でみんながイベントに行くことが明らかになります。
そういったことが2年続きました。

私がグループを抜けるまでにも大小いろんなことがあったのですが割愛します。
グループを抜ける直前はAさんの私に対する態度はグループの知るところとなっており、それでもそれらはAさんのキャラクターとして認められているので、私を擁護する方やAさんへ異議を唱える方はいませんでした。
そんな状況だったので私はグループを抜けました。

グループを抜けて気づいたのは創作に仲良し関係はいらないということです。

一緒に創作する方がいなくなったさみしさはもちろんありました。が、同時に、なあなあで傷を舐め合える関係よりも、いいところも悪いところも言い合える、本当にその人のためになることとはなにか?を優先して発言できる関係を充実させることが絵で身を立てるためには必要だと思いました。

『人間は、自分が傷つかないで済むように、常に現実の認識を歪めて生きている』という事です。いわゆる岡目八目というやつです。自分の描いたものはよく見えるし間違いには気づきづらいものです。

https://note.com/abfly/n/n04a315114fcd

先日読んだ上の記事では上のようなことが書かれています。
自分では自分の間違いには気付きづらいものです。絵だったら鏡で反転したり、逆さまにしたりしてデッサンの狂いを確かめるわけです。その検証を怠たるのはよろしくないですし、事情を知らない他人に任せるのも難しいと思います。
人間関係もそれと同じで、おかしいと感じたところは確認して、自分の事情を話して、相談する。そうして話し合える関係が健全な姿だと私は思います。

自分以外の人間が評価する絵において、自分と(が)同一化された視点を信頼することは何も価値をもたらしません。この事実があるからこそ私はひとりでも創作活動が続けられますし、同じ視座を持った頼れる友人に頼ることも出来ています。


まとめ

出来事を映画や漫画のように楽しかった、悲しかったといった感動するだけの娯楽と捉えるのが良いならそれはそれでよいですが、それだけ感情の動くことを創作の推進力にしないのは表現者としてもったいないです。

怒りや悲しみといった感情の反応は幼い子どもでも起こることで、人間としても珍しいことではないのですが、感情を飲み込んで物事の理解に踏み込めるかは人間としての成熟度合いに関わってくることです。

出来事→反射的反応(感情・身体)→頭での理解→行動の変化

これは私の考えたもので何も根拠はないのですが、ざっくりとこういった流れで出来事が自分の行動へ繋がっていくと考えています。

私の観測範囲では感情の反応があまりにも強くて、理解に繋げられない方をよく見ます。一時の感情を長期的なモチベーションへ変えるためにも、心や体で受けたことのほんの一部でも頭に送って、今の衝撃をこれから先の未来に繋いでいただければと思います。

あなたの創作人生が幸多からんことをお祈りしています。


続きがあります。

終わり

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