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13_「わたしは行って、主が命じられたことを行います。」(1ニーファイ3:7)

従順でない兄について非常に心配していたニーファイは、主に熱心に祈り、彼らのために主に助けを願いました。主との交わりを持ち、特別な約束を得たニーファイは、天幕に帰って来ました。すると、そこではひとつの問題が起きていました。父リーハイは夢のなかでレーマン、レムエル、サムそしてニーファイの4人をもう一度エルサレムに引き返させるように主に命じられたのです。ユダヤ人の歴史とリーハイの家族の先祖の系図の書かれている真鍮の版を手に入れるためでした。

リーハイはそれをレーマンとレムエルに話しました。ところが彼らは、それが「難しいこと」だといって不平をもらし、エルサレムに帰ることを渋っていました。実は、よく考えてみますと、レーマンとレムエルが「難しいこと」だと渋った気持ちがよくわかります。エルサレムから彼らのいたところ、紅海のアカバ湾あたりだとすれば、その距離は約288km、東京からですと愛知県豊橋あたり、新潟方面なら新潟県燕三条あたり、東北方面なら宮城県白石蔵王あたりです。しかも、その道中は、新幹線も高速道路もない、徒歩(ラクダに乗ると言う手段があったかもしれませんが・・・)また、安全な道が約束されていたのではなく、いつ盗賊が出てくるかもわからないような危険な、灼熱の太陽がさす暑い不毛の地を通って行かなければならなかったのです。 どちらにしてもとてもしんどい道中だったと推測できます。

でも、そうした「難しい」願いを父リーハイがニーファイに伝えたところ、ニーファイは、「わたしは行って、主が命じられたことを行います。」(第1ニーファイ3章7節)と力強い主への確信と信頼に満ちた証を述べ積極的な態度を示して父の要望に応えようとしたことには大きな驚きです。

どうしてニーファイは、このような力強い言葉を語ることができたのでしょうか?もちろん、ニーファイは、幼い時から主が何かを命じられるときに主を信頼して喜んで従うなら,主はいつも道を備えてくださるということを教えられていました。昨日の記事にも書きましたが、ニーファイには、心を神様とイエス様に向けて導きを得ようとするパターンを持っていました。

ここでそのパターンについて考える時に、考えなくてはいけないことが一つあります。主の言葉を伝える「父親」に対する思いです。レーマン、レムエルは、父親を「幻を見る人」だと言ってつぶやきました。彼らの目には,父の決断は「心に浮かんだつまらない空想のため」に行きあたりばったりのように写っていたのでしょう。そのため,父親のことをあまり信じようとしませんでしたし、父親を単なる父親としてしか見ることができなかったのです。一方、ニーファイは、心を神様とイエス様に向けて導きを得ようとするパターンを行使しただけではなく、父親を信頼して主の御心を語る器として、主から召された預言者として、父親の後ろにおられる主であるイエス・キリスト様を実感していたのです。これは大切な要素だと思います。ぜひ覚えておきたいですね。


ちなみに、教会は2020年に青少年向けに "I will go and do" という曲を提供してくれています。主を信頼して前に進む力をいただけるとてもいい曲です。日本語版もあるのですが、英語版の歌詞の方がよりこの歌詞の内容をよく伝えてくれていますので、英語版で一度お聴きください。
https://youtu.be/zeGC8lS20d8

 

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