見出し画像

昼間に小説の話をする

 弱者や敗者のためにこそ小説がある、はずなのである。
 そうでなければ、どうして人間が生きていられようものか?
 とにかく存命を続けるには弱者が小説を描かねばならないのである。

 小説を書くときに気にかけてることが結構あるだろうし、
皆、それぞれ、色んなお話を描いていることだろうから、
正直、人間として想像力豊かになってしまうのはよくわかる。
 皆、小説を大事にしているから、なかなか本音などはでてこない、
というより、本音というものを持ち合わせていない、
人間が絵を描く時も、小説を書くときも、とにかくそうだが、
責められたら相手に反抗するのが基本であって、
本音は責めの姿勢も伴うのであまりやらないことの方がおおい、
で、と、みんな色々と抱えているのはたしかだが、人間として、
多くの考えをもって、話をしていても伝わるのはごく一部。

 そう、小説も話を伝える工夫が自然と必要になるので、
どうやっても、自分を抑えて描くという行為に没頭しないと、
いけなくなる、これは本当に健康に悪い、

 実を言って、小説に欠けているのは、
僕らの弱い精神や、弱者や敗者である。
 どうしても強者の物語を書くことに没頭してしまう、
それゆえに、弱者はほおっておいてしまう、皆、そういう風にする。

 だから、自然と描くには、弱者をもっと山のように、
描く精神が必要になってくるのだ、それが精神の輝きにつながる。

 僕らは強者じゃない弱者だ、弱者を描かないと話にならない、
僕らは勝者じゃない敗者だ、敗者を描かないと話にならない、
何といっても、敗れ去った人間が、未だに存命している理由は、
この世界の本当の主役は弱者だからだ。

 皆、強者に憧れを抱くので、自然と強い子を描いてしまう、
それが癖になっているし、皆同じように倣ってそれを描く、
だけども、どんなに流れに刃向かっても、強者を描いてしまう、
そんな、型にはまっている、僕でもそうだ。

 それは本当に弱者であることに飽き飽きしてるからなのか、
それとも弱者をこの世界から排除したいからなのかわからない、
なんにしても、皆、弱い人を倒して勝利を気取るもので、
そんなことしても何の価値も無いのに、好き勝手してしまう。

 そう、強者が自由な時代だ、だがそれも終わりを告げるだろう、
どれだけ、強者が強力に社会を締め付けて、再起不能に、
弱者や敗者を追いこんでも、弱者が死ねば社会は滅びる、
簡単にだ、故に、この格差の大きな社会で、
弱者が手に入れた武器は全て使って生き延びなければならない、

そうでなければ、人類は滅びる、弱者の死によって。

 死んでいったものは皆、敗者であり弱者であった、
僕もまた弱者である、語ることを失った弱者である。






おしまい

いただけるなら、どこまでもおともしますとも!