「視線」

地下へと降りる階段。

その先にはドア。
多少の違いはあれ、ライブハウスはだいたいどこも同じような作りだ。
僕には見慣れた風景。

入り口付近には沢山のチラシが貼ってある。

ドアを開けると会場前というのにもう何人か来ていた。
受付を済ませた僕は荷物を置き、ステージの様子を見にいった。
いつも自分のバンドで演奏している自由ヶ丘の店よりは少し狭い。
(あまり動けないな)
と、思って見ていると
「おう、お前プロになったんだってな。」
学生の頃、よく居酒屋で奢ってもらった小林先輩が声をかけてきた。
「いやぁ、ほとんど学校の講師ですよ。」
「楽しみにしてるよ!」
そんな会話をすでに到着していた何人かの先輩や同期の連中と交わした。

良祐はやはり仕事の都合で来られない。
久しぶりの馬鹿話を楽しみにしていた僕は少し寂しかった。

開場時間を過ぎると人が増えてきた。
僕は後ろのほうに座り、たばこを吸い始めた。
同窓会といってもサークル全体なので、知っている人は約半分。
残りは初対面の先輩と後輩。

ミュージシャンは人とのつながりが大切な仕事だ。
一緒に演奏するミュージシャンをはじめ、エンジニアさん、照明さん、スタッフ、そしてお客さん。
ほとんど初対面という場合も少なくない。
しかし僕は学生の頃から初対面の人が苦手だった。
そんな時はどうも演奏以外のことで神経をすり減らしてしまう。
講師をやるようになってだいぶ慣れたが、今でも初めてのクラスで大勢の生徒の前で話をする時はドアの前で深呼吸してから教室に入る。

その日も少し緊張しながら座っていると
「あの私の娘、中学生なんですけど音楽やっていて、将来音楽学校行きたいって言ってるんです。」
葉子だった。
「あ、そうなんだ。楽器は何をやってるの?」
「歌です。来年高校受験なのでまだ先の話ですけど。音楽学校のこと知りたいな、と思って。」
「俺が教えてるところのことしかわからないけど、それで良かったら。」

そこまで話した時、昔から仕切り屋の大平先輩の開会の挨拶が始まった。
そして乾杯の後すぐに最初のバンドの演奏が始まった。
知らない後輩のバンドだったが、曲は聞き慣れたものをやっていた。
僕の出番はもう少しあとなので、先ほどと同じ後ろの席でビールを飲み始めた。

演奏が終わり、次のバンドと入れ替わる。
2番目は葉子が歌うバンドだった。
バンドメンバーの中には昔何度か一緒に演奏した奴もいる。
(あいつら、上手くなったかな?)
昔のことを思い出しながら僕はビールを飲み続けた。
演奏が始まった。

と同時に僕はじっとステージの中央を見つめた。
僕が大学を辞めた後、入れ替わる形で葉子は入ってきたのでつながりは良祐のアパートで一度会ったきりだった。

僕が大学を辞めてから30年以上経っている。
つながりのあった一つ下の後輩でさえ、中には顔を見て名前がすぐ出てこないやつもいる。
ましてや女の子ならなおさらだ。
にも関わらず、僕はたった一度しか会ったことのない、葉子の名前を覚えていた。
当時、良祐と彼女がどういう関係だったのかはよくは知らない。
でも手の早い良祐のことだ。
だいたい想像はつく。
(だから覚えてるのか?)
などと思いながら彼女の歌を聴いていた。

僕はなぜかじっと彼女を見つめていた。
というよりも何かに引き寄せられるように彼女から目を逸らすことができなかったという感じに近い。
他のメンバーを見ようと頭では思っても視線を外すことができない。

そして僕はなぜかだんだんと心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。
(なんだ?)
(どうしてこんなにどきどきするんだ?)

とりたてて彼女の歌は上手いというわけではない。
アマチュアとしては並のレベル。
歌に引きつけられたわけではない。
というより歌は途中からほとんど耳に入ってきていない。
にも関わらず、僕は視線を彼女から逸らせずにいた。

「上手くなったじゃん!」
という声で我に帰った。
火をつけたばかりだったたばこは灰皿の中で灰になっていた。
気付いた時にはもう彼女のバンドの演奏は終わり、次のバンドが準備を初めていた。

(なぜ彼女ばかりを見てしまったんだろう?)

ビールを飲むことさえ忘れ、カラカラに乾いた喉を潤そうとグラスを空け、それから先ほどの葉子との会話を思い出した。

(どうして普通に話せたんだ?)

仕事に関係することとはいえ、葉子と話をしたのは初めてだった。
にも関わらず、少しの緊張もなく話をした自分を思い出した。
そしてその前に、なぜ一度しか会ったことのない人の名前と顔を覚えていたのか?

(なんでだろう?)

僕は少し混乱していた。黙ったままビールを飲み続けた。
はっと気がついた時には自分出番の一つ前のバンドの演奏中だった。
無言のまま僕はギターを取りだし、準備をそそくさとし始めた。


演奏は最悪だった。
他のメンバーはアマチュアだったから、ということではない。
ステージに上がってもまだ混乱していたのだ。

なんとかやり終えてステージを降りると見知らぬ先輩から声をかけられた。
「いやぁすごいね。話には聴いていたけど。」
「ありがとうございます。」
そんな声を背に僕はとギターをケースにしまった。

そしてまた後ろの席に座って、ビールを飲んでいると小林先輩がきてビールを奢ってくれた。
なんだか懐かしい感じがした。
お互いの現況などを報告し合いながらふと見ると、葉子がすぐ隣に立っていた。

小林先輩との話が終わるのを待って話しかけてきた。
先ほどの話の続きをした後、僕は聞きたかったことを彼女に尋ねた。
「今まで話したことあったっけ?」
「無いですよ。でも誠也さん有名でしたから。私もギターやってたし。一度学祭の時、来てギター弾いてくれましたよね?」
「あ、あの時いたんだ?ベロベロに酔ってて何弾いたか覚えてないけど。」
やはり彼女と話したのはこれが初めてだった。

僕はまた座って先ほどのことを考え始めた。
(なぜさっきずっと彼女ばかりを見てしまったのか?)
それはまるで何かの引力に引き寄せられるような感じだった。

それだけではない。
話している彼女の眼は何の戸惑いもなく真っ直ぐに僕を見つめていた。
まるで蛇ににらまれた蛙のように動けなくなってしまった僕は
「また来年」
というのが精一杯だった。

最後まで僕の中には理解できない疑問符が浮かんだままその日は終わった。


つづく

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