見出し画像

内臓露出狂と内臓を持たないジョン・ドウズについての個人的見解

太宰治の「人間失格」という作品は、【分かる】人間と【分からない】人間がいる。

この作品は主人公葉蔵が、自分の本性を知られないために道化をする、という描写から始まる。
人間は表の顔と、魂的な何かのふたつを持っているという仮説の元の話。

「取り繕う」という言葉があるように、人間は本心と違うことを言動として表現できてしまう。

人間失格という作品は、醜い本心を押し隠し道化を演じてきた人間にとっては【分かる】のであり、幸運にも本心と言動をさほど乖離させることもなく一貫した自己としての人生を生きてくることができた人にとっては【分からない】。

仮に表に現れる言動を「外側」、本心に抱えている思考や価値観を「内臓」と呼ぼう。

外側の定義
・外見的特徴
・社会適応能力
・社交辞令
・表情、発言、態度、感情
内臓の定義
・自己の内的世界
・本質
・価値観
・過去
・今の自分を作った体験

内臓は、「心」や「感情」とは別にしておきたい。
動的な思考運動ではなく、チリが積もるように人生という時間を重ねることで作られる静的な「内的世界」。これを内臓として定義しておく。

そして世の中には2種類の人間がいる。

内臓を有し内臓を開示することに喜びを感じる「内臓露出狂」と、人に開示できる内臓を持たない「ジョン・ドウズ(名無しの権兵衛さんたち)」だ。

内臓露出狂の発生起源

人間はデフォルト状態ではみんなジョン・ドウである。それは内臓露出狂にとっても例外ではない。内臓露出狂は内臓なしのジョン・ドウとして生まれ、体内に内臓を発生させて内臓露出狂となったのである。

内臓を発生させる原因となるイベントとは、「悲劇的逆境体験」、いわゆるトラウマのことだ。

文部科学省によるトラウマの定義はこうである。

地震や戦争被害、災害、事故、性的被害など、その人の生命や存在に強い衝撃をもたらす出来事を外傷性ストレッサーと呼び、その体験を外傷(トラウマ)体験と呼ぶ。トラウマ体験となる外傷性ストレッサーには、次のような出来事などがある。

1. 自然災害――地震・火災・火山の噴火・台風・洪水など
2. 社会的不安――戦争・紛争・テロ事件・暴動など
3. 生命などの危機に関わる体験―暴力・事故・犯罪・性的被害など
4. 喪失体験――家族・友人の死、大切な物の喪失など
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/002/003/010/005.htm

この定義でおよそ誤解はないが、ここではトラウマとしての「悲劇的逆境体験」にさらに次のような定義を与えておく。

・自己の存在価値がゼロになる出来事
・自殺願望や自分を押し殺すことを伴う
・毒親、いじめ、モラルハラスメントなど他者からの理不尽な加害を伴う

自己肯定感の瓦解、すなわち自分という存在の価値のゼロ化によって自我を再構築するとき、ジョン・ドウには内臓が生まれる。

そして彼らが内臓露出狂になるには、さらにいくつかの発動条件がある。

・「外側」に属する人間の言動や態度や感情表現はすべて「嘘」だという思い込みの強化
・自身の「外側」を誤解される体験
・自身の「外側」に属するコミュニケーションや外見への自信喪失

内臓露出狂は内臓=豊かな内的世界を有しているので、彼らの不得意な「外側」によって豊かな「内臓」を判断されるという事態は尚更耐え難い屈辱的体験となる。

渇かないジョン・ドウズと永遠に飢えた内臓露出狂

内的露出狂は、ジョン・ドウズを次のように判断している。

・自己主張をあまりしない
・周りの空気を読む
・八方美人である
・他人に合わせるので優柔不断である。
・自分がない
・渇望がなく感情が平たんである
・生きる目的がなく何となく生存している

これらはまるまる事実ではなく、「内臓露出狂にとってジョン・ドウズは~のように見えるリスト」であるという点には留意してほしい。

ジョン・ドウズの欲求は短期的で、日曜10時のドラマやゲームや恋人との時間がもっぱらの関心事だ。適度に仕事し、適度に飲み会に参加し、適度に人に合わせる。

一方内臓露出狂はずっとなにかを渇望していて、理解されない孤独に痛み、自分が何者であるかを突き止めようとしている。


ジョン・ドウズがこうしたその日暮らしの生き方を実行しても対してダメージを受けないのに対し、内臓露出狂が同じことを実行すると半身をもがれるような苦痛を強いられる。
生きている意味が分からなくなる。
端的に言って死にたくなる。

なぜなら、内臓露出狂は次のような観念に捉われているからだ。

・表出される言動や外見としての「外側」には価値がない(人は嘘をつく生き物である)
・自分を「外側」で判断されるのは恐ろしい(自分の外側は無価値で害のあるものだ)
・「外側」で判断された暁には自分は糾弾され攻撃を受けるだろう
・だから、自分は「内臓」を提出するし相手にも「内臓」を提示してほしい
・生きる意味が必要である

内臓露出狂にとっては、相手が何を考えているか分からない、あるいは相手が自分の内面を知ろうとしないという事態が一番怖い。内臓が見えないという事態は、憎まれているという事態と同義である。

そして、自分が傷つくよりも先に先手を打つ。

「あいつらは中身のない・何も考えていないジョン・ドウズである」と。

内臓露出狂と構造

我々はどこから来たのか
我々は何者か
我々はどこへ行くのか

ご存じのとおり、これらの問いは解答不可能だ。
生命は偶発の産物であり、生まれてきたことに価値もなければ意味もない。
存在証明などは不可能である。

ところが内臓露出狂は、「自分自身もまた空っぽなジョン・ドウであり無価値である」などということは到底信じることができない。

「自分には何かある」と信じたい。

内臓のある生身の価値のある人間であろうとすればするほど、空っぽ人間(ジョン・ドウ)である自己の輪郭はますます浮き彫りになる。

内臓露出狂の終わらない孤独

先に述べたように、内臓露出狂は性癖のために内臓を露出したがっているのではない。自らの恐怖に対する対抗策として、内臓を露出するという手段を取っている。そして内臓は「悲劇的逆境体験」に起因する。

内臓露出狂は自らがジョン・ドウであることを知り得るが、悲劇的逆境体験を持たないジョン・ドウズは違う。
彼らは自らがジョン・ドウであっても痛みを感じない。自己を取り繕いTPOに応じて様々の仮面をつけることに何のためらいもない。自分という存在に意味を探さなくても生きていける。

しかし内臓露出狂が同じことを行えば、待ち受けるのは死だ。
正確に言うと、自らによる自己の殺戮だ。

内臓露出狂が孤独なのは自らが本当はジョン・ドウだからなのではなく、
・自己を殺戮しなければならないほどの痛みの存在を無かったことにされる
・自己の殺戮に痛みを感じないジョン・ドウの群れのなかで自己の殺戮を強いられる
からなのだ。

内臓露出狂はどのようにして救われるのか

内臓露出狂は、悲劇的逆境と自己の内的探索により「外側」と「内臓」を乖離させてしまった者ともいえる。

自意識は肥大化し、いつも自分と他人を比べ、自分と他者の間に口を開けるあまりに深い海峡に絶望している。
社交辞令や仕事や日常といった、社会的動物として当然必要なコミュニケーションにも深い心の傷を負い、その度に何度も何度も自己の殺戮を繰り返している。
そして社会の中でホールネス(全体感)を失っている。

しかし、そんな内臓露出狂にも心の安らぐときが存在する。

露出した内臓が丁寧に受け止められ、相手も同じように自分の大切な内臓を提示してくれたときだ。

内臓の形は全く同じでなくてもいい。対話によって自分の内臓を伝え、相手が相手の言葉で伝える内臓の形を探求することで内臓露出狂は安心感を得るのである。
そこには『「外側」には価値が無いかもしれないが、価値がなくてもいい』という共通の価値観が通奏低音のように漂っている。

内臓露出狂が最も恐れる、
・「外側」によって本質が判断される
・「外側」がすべてである
・「外側」を上手くやれないやつは人間じゃない
などといった一般社会の不文法は存在しない。

内臓露出狂同士は『あなたは誰ですか?』という自己存在への探求を相互に交換しながら、同時に彼らは自己を喪失している。
・時間が早く過ぎ去っていく「フロー」の感覚
・マインドフルネスな感覚
を得る。
内臓露出狂たちはお互いの自己を探求することで、逆説的に自意識を消滅させることができるのである。

道義的に正しいことと、正しくなくても報われること

ここまでの議論で、内臓露出狂が救われる道がいくつか想起される。

・外側と内臓を一貫させるために介入や治療を行う
・内臓露出狂のみでコミューンを作り生きる

最初の方法は、道義的には正しいように見える。
病気を治療すれば困難は減り、内臓露出狂の人々の心も確かに「生きていける形」になるかもしれない。

でもそれは、本当に内臓露出狂の人々の望むことなのだろうか。内臓露出狂とジョン・ドウズが入り乱れる社会にとって都合の良い「生きていける形」というだけではないだろうか?


内臓露出狂の人々は生きづらさを抱えている。
しかし、豊かで美しい内的世界を抱えていることも同時に事実である。

内臓露出狂の人々を「治療」することは、彼らの美しい内臓を殺戮し壊死させることにつながりはしないだろうか?


思えば人類の歴史は、出る杭を打ってきた歴史だった。
魔女裁判やユダヤ人迫害、黒人迫害、ハンセン病者の迫害に至るまで、『「違う」ことは怖いから根絶やしにしよう』という感情が人間の遺伝子の一部に組み込まれていることは誰も否定しようがないだろう。今日でもなくならないいじめがそれを証明している。

だとするならば、内臓露出狂が外力により外側と内臓を一貫させる介入を受ければ、さながらロボトミー手術のように、生きていくのに必要だったはずの機能が削がれていくのではないか。
繊細な生態を持つ絶滅危惧種としての内臓露出狂は、『同じであれ』という優しい暴力に甘んじればそのまま衰退していく道しかないのではないか。


内臓露出狂が抱える内臓と外側の乖離は、確かに彼らの人生を複雑で困難なものにしている。しかしあらゆる人間の思考や機能のパターンは自己を害するためではなく、自分自身を守るために発現する。
ストレス反応は危険を知らせるために存在するが、慢性的にストレスを受け続ければ健康を害する。

内臓の発現もそれと同じだ。
外側の否定によって傷つくことを防ぐために、内臓露出狂は自分自身の代わりに自己の内臓を作り愛したのである。


そうすると、後者の「内臓露出狂のみでコミューンを作り生きる」という道はどうだろうか。

同じ価値観の人間だけで固まるというのは、「道義的」にはある種カルトめいたにおいがしなくもない。価値観が凝り固まればそれはまた新たな同町圧力へと変わり、排斥されていた側が逆に排斥を始めるというのはよくある話だ。

しかし「多様性こそが正しい」というのもまた、人間が創り出した観念であり偏った道義にすぎないということも忘れてはならない。そこでコミューン化することのメリットも考えてみたい。


コミューンの持つ性質は、内に向かう内臓露出狂の特性と相性が良い。

内臓露出狂同士で暮らせば、外側と内臓は一貫していなければならないというルールは必要なくなる。外側と内臓を乖離させたまま生き延びることができる。

何より自意識や観念は、消そうとすればするほどその輪郭がますます露わになる。
マインドフルネスの考え方に則れば、自他を加害する思想は消すのではなくそこにあるということをただ認識するだけで、攻撃性は失われる。痛みが消えなくても痛みに身をゆだねられるようになる。

カルト化を危惧するのであれば、コミューンにとって閉鎖性は必須ではない。
コミューンの外の社会とは緩やかに接点を持ちながら、準閉鎖的かつ治外法権の世界を作ればいい。

自己の本質を探求する旅

世界には思考や認知を歪ませる数多のバイアスや本能の命令や外的刺激が存在する。集団が真と信じているものを妄信する方が簡単だから、私たちは往々にして(それ自体は複雑性から身を守るためでもあるのだが)信じやすい事象を信じ、ときとして自分自身の方を殺戮する。

でも真実らしく見えるそれらは、本当に「そう」なのだろうか。

人間を愛さなければいけないのか。
孤独は本当に痛みなのか。
働かなければ生きていけないのか。
所有には本当に価値があるのか。

社会規範や本能に殺されず、自分の魂にとって確かに正しい本質や真実を見極めようとするならば、私たちは様々な概念を疑ってみなければならない。

それではじめて私たちの思考は本当の意味で自由になり、「何が欲しいのか」という問いにはじめてまっさらな自分として向き合うことができる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?