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これが○○をみた最後だった

私は本も読んだけど、同じぐらいマンガも読んだ。
本はばっと読んで「この人好き!」と思ったら次から次にその人の作品を「読み倒す」という読み方をした。遠藤周作にはまったときは、小説もエッセイもよく読み、エッセイの中には吉行淳之介や北杜夫の名前がよく出てきたのでその人たちの本も読んだ。全て新品を買うことはできなかったので、近くにサイクリングロードがあり20キロ先ぐらいまで続いていたので、果ての古本屋さんまで行き関係する本を探しまわり買って帰ってくるという週末を過ごした。ここの古本屋さんになくても次!と行けるほど古本屋さんがたくさんあった、私にとっては古き良き時代だった。

 本は中古だったけれど、マンガは新品を大人買いした。母が。母も本とマンガが好きなのだ。大人なので大人買いしていた。そんな母でよかった♥
エースをねらえ、北斗の拳、生徒諸君、王家の紋章(これは母のみ)、槇村さとる、小野ひろむ(字、失念)さんのダンス・バレエもの、稲中卓球部、スラムダンク、ゼロ、有閑俱楽部、ブッダ、アドルフに告ぐ、ガラスの仮面などなど。途中で付き合っていた彼氏が読んでいたジャンプやらマガジンの「将太の寿司」や「野口英世の物語(正式名忘れた)」など少年マンガもとにかく読んだ。

何度かこれに書いたが、生徒諸君は小学生だった私のバイブルだったし、槇村さん、小野さんのバレエ・ダンスものを読んでは己の体型と「ダンスの才能のなさ」を恨んだものだった(ダンス、やったことないけど)。高校の物理のテスト前は毎回エースをねらえを読破し、号泣することにより物理のつらさを忘れ翌日のテストに挑み玉砕した。この前テレビでうつっていたマグロのステーキをみて「将太が作ってたよ」(「将太の寿司」より)と言った私に「将太ってだれ?」と聞かれるほど普通に会話に登場した。どれもこれも、何度も何度も読み詳細を覚えているが、特に読んだのはガラスの仮面だと思う。

ガラスの仮面についてはもう少しとっておくことにして、作者である美内すずえさんの「妖鬼妃伝」というマンガ。これがすごーーく記憶に残っているのだ。
主人公つばさとお友達のたーこが買い物のためデパートにでかけた。たーこのお母さんの誕生日プレゼント(母の日だったかな?)を買うためだ。その日、デパートで行われていた催事は「人形展」。ふらっと寄った人形展だったが薄気味悪く早々に退散。ところがたーこがそこに忘れ物をしてしまったのだ(たーこのバカ!)。下の階に下りてきて忘れ物に気づいたたーこは「取りに行ってくるね。ここで待ってて」の言葉を残して再び催事場へ。

「それがたーこを見た最後だった」

というわけで、たーこは帰って来なく後日死体として発見され、デパートに謎があるに違いないと思った主人公つばさは探りにでかけて、そこで見たものは・・・というお話なのだが。
お話の内容も面白かったのだが「それが・・・・を見た最後だった」というフレーズがいまだに頭から消えないのだ。
友達と出かけて「じゃあまたあとでね」と言う度に「これが○○をみた最後だった」と頭の中で流れるし、子供とイオンではぐれたときも「あれが○○をみた最後だった」って言葉がかけめぐる。

とにかく、誰かと「じゃあね」と言う度にこの言葉が頭の中で流れるのだ。

今の所、幸い「○○を見た最後だった」にはならないのだが、この言葉、いい加減頭から離れてくれないと、そろそろシャレにならないお年頃なのだ・・・。

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