「詩歌を詠むということ-その方法-」

僕は、14の頃から詩を書いている。詩集こそ刷っていないものの、人生の三分の一を詩人として過ごしてきたことになる。この事には、僕自身が一番驚いている。何というかそんなに書き続けていたのかというよりも、純粋に時の流れの速さに対して。最近は、詩集に加えて歌集も読むようになった。自分で歌を詠むことさえ未だないものの、僕の今の言語感覚に変化の兆しがあるのは確かだ。

詩歌の類を詠む時の言語感覚と小説の類を書く時の言語感覚は、確かに異なる。

詩歌を詠むというのは、若い内に心という池に言葉という稚魚を放流し、いざ詠もうという時に養殖しておいた魚を釣り上げるような営みだと僕は思っている。そのため、日頃の読書を怠っていると雑魚しかいない些末な池ができるだろうし、良質な読書は潤沢な生態系をその人の中に産むだろう。又、釣りの方も練習をしなければ、池の中には泳ぐ魚の群れが透いて見えるのに、幾ら時間があっても釣り上げられないといった事態に陥りかねない。だからこそ、若くから詩歌を詠むことは大きなアドバンテージになるだらし、詩歌は小説と違って根本的な言語感覚に基因する部分が良くも悪くも多いので、矢張り早熟な人も多いし、短歌や俳句の類であれば慣れている人は、五分十分風呂を沸かしている間にポンポコと詠みあげてしまう。しばしば、人はコレを才能と言ってまるで不可視のモノのように扱うがその実態は、極めて単純な養殖釣り堀なのだ。

この様に捉えると、一方で小説を書くということは、鮪やら鯛の様な魚を放流しておいて海流と共に戻って来たものを一本釣りする様なものかもしれない。だからこそ、根気が必要だし必ずしも帰ってくるかもわからない不安もある。今迄積み上げてきた膨大なものが泡沫となることだってありうるのだ。

そう思うと釣り池程度で済む歌は手軽だし、川沿いをブラブラする詩も気楽でいい。それでも、稀に激流に飛び込んだまま帰って来ない奴もいるが。

又、小説や詩歌の領域を行ったり来たりするのも降海型の魚の様で面白い。

ここまで散々釣りに見立てて語ったが、僕は余り釣り自体は好きではないし、どちらかというと酷く船酔いする方だ。



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