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民主主義ゲーム: 原神プレイ日記そのn

原神でガチャり、財布の痛みで泣きながら生まれる日

僕は今日も積み上げた本を置いて、
ブランニューワールド原神にサインインする。

そして、広大すぎるマップを歩き回り、途方に暮れる日々。
引いてしまったエウルアやディシアの素材を集めるために歩き回るのだが、新しい場所に行くまでも遠い。

正確には地上を走ると遠回りになる。
反対に無茶な山登りをするとすぐにキャラたちが力尽きてしまう。

デスストランディングの旅が永遠に続いているかのようだ。

そうして僕は、昼休みに同僚たちから流し込まれた夜蘭の話を思い出す。
「凄まじい走行スキルで、原神の探索が変わる」
「1凸すれば、走行スキルを二度発動できる」

あまりにもビジュアルがいいのは認めよう。
しかし僕のパーティーには、すでにエウルアやディシアがいる。
おまけにすでに47,070円は投入している。

これから僕はアーマードコア6でもう一度ACに乗るんだ。
そのための予算は、ちゃんと確保されていなければならない。

引きはするが、あくまでストーリーを進めた報酬の石でだけだ。
この誓いは、決して破れることはないだろう。


気づけば夜蘭を引けるまで回してしまった。
結局天井に辿り着き、結果4万円かかった。
一万円札が4枚、燃えている。

「ろうそくみたいできれいだね」
機動戦士ガンダム水星の魔女、4歳となったエリクトのセリフが、僕の脳裏をよぎる。
そうして聞こえてくる、今際の父の声に応じた、無邪気な声のバースデーソング。

これにて、原神での出費は累計9万円の出費となった。
僕は身を削がれるような痛みに泣きながら原神の世界で生まれる。
 はっぴばーすでぃとぅーみー……

左から、スパイというより走り屋の夜蘭。
5凸猫系トリックスクーターことリネット。
すりぬけ二連続となった、1凸達成つよつよシマづくりディシア。
武器ガチャも相まって覚醒した物理バーサーカー、エウルア。

冒険者ランク28の旅人の僕にはもったいないメンツだ。
おまけにトリックを使えないほうのベネットが6凸もいる。

(トリックが使えるほうのベネットについてはこちら)

なんで僕はこんなお金の使い方をしてしまったんだろう?
僕はいろんな人たちにぼやいた。
みんなは半ば呆れて笑いながら、わからない、と答えてくれた。

だが、ふと帰り道に気がつく。

ガチャをしていた僕は間違いなく、ゲームに参加していたのだ。
それも民主主義ゲームに。
そんな無茶なレトリックを並べ立てるのが、今回の記事だ。

民主主義ってなんだろう?

戦後、文部省が出した民主主義の教科書は、素敵な文から描かれ始める。

多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の表われであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。

文部省「民主主義」

なるほど。
そう思いながら読み進め、ここで僕は困惑する文章と出会う。

民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。すべての人間を個人として尊厳なものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。

文部省「民主主義」

これをどう解釈すればいいのか、毎度わからなくなるからだ。

すべての人間を個人として尊厳なものとして取り扱おうとする心。言うのも実践するのも、結局のところ難しいものだ。

僕はきょうも誰かを偏見の目でみるだろうし、自分自身にすらもその偏見の目を向けている。

そういうわけで、たとえばこんなふうになる。
戦闘機ものの作品を書きたい。
だが、バカな僕には戦闘機を理解するのは無理だろう。

戦闘機の本や、電子戦の本、さらには電磁気の本まで、無造作に家に積み上げられている。実に600冊ある本たちは、夢の廃墟だ。

そんな有様なのに、どうやって自分を含む、すべての人間を個人として尊厳なものとして取り扱おうとする心を抱けばよいのだろうか?

民主主義ゲーム

ゲームにおいて勝者になる方法には、いろいろある。

運か、奪うか、恐喝するか、乞うか、資本か、時間をかけるか、空想するか。

サラリーマンの僕はガチャることで、つまり資本で、ゲームにおいて勝者になるルートを踏んでいたというわけだ。

学生時代の僕はガチャるお金がなかったので、時間をかけつつ空想して正解のルートを探すことで、ゲームにおいて勝者になるルートを踏み続けてきた。家庭用ゲーム、つまりコンシューマーゲームで覚えてきたやりかたでもある。

実際原神のストーリーを追いかける時間は、コンシューマーゲームと同じようなものだ。色々困ることもあるが、やはり面白い。

現実の世界でも、そこそこ同じようなものだ。

サラリーマンの僕は大量の本を購入することで、つまり資本で、ITシステム開発運用で勝者になるルートを踏んできた。民主主義のルールの中で、正しいやり方で正しく勝つことで、適切なシステムアーキテクチャを起点に、様々な人の意見を取り入れてよりよいものをつくってきた。

そんな資本の暴力を振るう僕も学生時代はお金がなかったので、高専の図書館でたびたび時間をみつけては気になった本を冒頭だけ読むようなことをしていた。あとは高専を4年生でダブっていたのでその時間で復習を受けるという時間をよぶんに預かり、どうにかいまのサラリーマンの自分と繋がっている。

正しくないやり方への対抗措置

勝者になる方法。
運か、奪うか、恐喝するか、乞うか、資本か、時間をかけるか、空想するか。

どれを選んでも勝てはする。だが、ゲームを公平なものにするなら、選べるのはこれだけだ。

運か、資本か、時間をかけるか、空想するか。

ここに至るには、公正であるためのルールが必要だ。そうでなくては、競争として成立しない。それが法と呼ばれている。

ゲームを無意味にする簒奪者、チーターはBANするしかない。人をゆすり、恐喝する集団も同じくBANするしかない。だが事実関係は丁寧に調べなきゃいけない。だから国の権力は行政だけじゃなくて司法が分かれている。

ルール作りを行い、ゲームとなる立法は、そうした犯罪者に対抗するため、そして円滑で誰もが平等な機会が提供されるようゲームづくりをするために必要だ。

誰だって、自分にもチャンスがあるんだと信じてゲームをしたい。

だからといって勝利を物乞いするだけの者に、ゲームの参加者が協力することはほとんどない。知人友人家族であろうとも、不平不満を言って周囲に生命の危険を予告しながらゲームに参加する人々には、協力しようがない。

そのあたりの厳しい現実については、スイス政府が編集した民間防衛という本が面白くて、「自由と責任」のところに端的にこう書いている。

自由はよい。だからといって、無秩序はいけない。

スイス政府編「民間防衛」

民主主義ゲームは、ガチャゲームは、クソゲーなのか?

不正が仮に逮捕されて刑が決まって隔離されたとして、勝者になるルートはこのあたりだ。

運か、資本か、時間をかけるか、空想するか。

これらに関してたまたま書店でみつけたのは、この「人生がクソゲーだと思ったら読む本」だ。

この本に関する僕の感想としては、
たしかに「人生はクソゲー」かもしれないが、
「民主主義はクソゲー」にせずに済むかもしれない、というものだった。

運ですべてが決まってはならない

運の要素が強い問題で考えると、「人生はクソゲー」だろう。

それはまるで、初回ガチャという救済措置の結果が人に相対的な力を与えないだけでなく、暴行されたり本来の権利が無視されるという話だ。
これではゲームにならないし、参加したいとは思えない。

黒人に生まれたというだけで、あらゆることが否定されるという話を、僕は知っている。

黒人排斥、たとえば距離がありすぎる黒人用トイレとか、黒人用図書館とか。公民権運動を映画Hidden Figures, 邦題ドリームをみてゾッとする展開があまりに多すぎる。

そうした公民権運動に繋がったあらゆる地獄はまだまだ続き、遺恨が残っているのを、大統領になったバラク・オバマおじさんは回顧録に書いている。

だからこそ、彼はこんな言葉を書く。

私は、執念深くのしかかってくる過去の重さと戦っていた。無気力や、運命論や、過去がもたらす恐怖心と戦っていたのだ。

バラク・オバマ「約束の地」

運命論との戦いは、別に黒人と白人のハーフであるオバマおじさんだけのものじゃないし、黒人だけのものじゃないし、アメリカ人だけのものじゃない。僕はそう思うので、運ですべてが決まってはならない、と考える。

資本と時間は永遠に不平等

たまに資本とか時間が平等に与えられるべき、みたいなことが言われることもあるが、これは正直僕は疑問だ。

中学生までの義務教育以上をつくるにしても、どうすればいいのか全く思いつかないからだ。文科省や教師の人々の協力を得られたとしても、妥当な救済措置がみつからない。

というのも、僕はITエンジニアで、ITエンジニアを教えることが多い。それは同僚だけじゃなくて上司にもだし、なんなら会社以外の人にだって教える。

可能な限り平等に同じ内容を教えようと思ったら、もう正直手に負えないのだ。

コンピュータハードウェアからソフトウェア、そのソフトウェアの綿密な関連性や、下手をすれば電磁気学や量子力学に至るまでの知識まで使いうるのがITエンジニアなわけで、僕は工業高校と大学の中間、工業高専にてそれを教わったがさっぱりわからなかった。後追いで本を買い直してどうにかわかったくらいだ。

そうして資本と時間を投下しまくれば確かにどうにかなるが、高専卒のものたちがみなこの選択をしたわけじゃない。少なくとも高専生一世の親父は僕よりかは明らかに家で本を読んでいない。

原神でも同じように、二年前から時間を投下しまくった学生の妹は僕なんかよりもずっと強いキャラクターたちがたくさんいるし、僕なんかよりも課金額は少ないか、ゼロに近いらしい。

そうした資本と時間にまつわる選択が各々に委ねられているので、同じ機会の平等があったとしても、結果は平等になりようがないのだ。

では、どこに平等はあるのだろうか?
ぼくはそこに、空想という可能性を信じている。

空想の機会の平等

もしも世界を自由に歩き回っていいのなら。
もしも違う自分になっていいのなら。

そうして空想の世界を楽しめるRPGはとても経済的だし、素敵だと思う。

小説や映画などのフィクションはかつてからそういう役目はあったのかもしれないけれど、それがゲーム画面でリアルに描画されていくその様は、まるで明晰夢だ。

たしかに得られる結果はここまで書いたように不平等かもしれない。
人は毎日観光できる無責任さを求めるだろうし、勝ちまくりモテまくりのことしかすぐ考えつかない。

そこからさらに飛翔して、ジャンプで連載に至り人気を博する人もいるだろう。

けれど、空想の機会は平等に提供されている。思考と表現が自由であるということは、この民主主義ゲームをよりよくしていくためにも必要な思考実験の場ともなる。

民主主義ゲームは、確かにいまも不平等かもしれない。でもそれでは、プレイ人口が増えず、僕たちは結果としてそれよりもっと粗悪な人生というクソゲーに戻らなきゃいけなくなる。

長者や、貴族や、領主が強いだけで終わるゲームで、楽しいゲームになるはずがないのだ。

だから誰もが空想の機会を得られる、RPGからはじめよう。
原神はおすすめだ。ストーリーを進めていけば、いつか素敵な人たち、エウルアや夜蘭にも会える。僕はストーリーで会えるのがたのしみだ。

もしも原神をしているのなら、ぜひ同じ旅人たちと話してほしい。広大な大地を歩いたときの経験を、誰かと分かち合うこともできるし、マルチプレイによって手助けもできる。

僕もいろんな旅人たちに助けられながら、原神をしてる楽しさをわかちあえるのが、とても楽しい。あの楽しさを表せる語彙が、僕には思いつかないほどに。

僕たち旅人は原神のようなRPGを通して、やっとこの民主主義の根本に辿り着けるかもしれない。

民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。すべての人間を個人として尊厳なものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。

文部省「民主主義」


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