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ゲームからの逃走

自由からの逃走、だとあまりに倒錯的すぎてピンとこない。
でも、ゲームからの逃走、と考えてみるとなんだかわかる気がしてきた。


自由からの逃走、という本を読んでいる。

ナチスドイツという「自由からの逃走」とは何かを考察しようとする本だ。

フロムはドイツとヨーロッパを破壊し尽くしたナチズムについて、次のように端的に書いている。

ナチズムは純粋な政治的ないしは経済的な原理はなにももっていなかった。ナチズムの原理といえばまさにそのはなはだしい日和見主義であるということを理解することが大切である。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」

その前の章「逃避のメカニズム」にて描かれるのは、DVによる共依存で、つまりは自由を捨てることによって安心感を得る自傷行為である。

「愛着障害」や「ギャンブル依存症」を思い出させる悲惨な状況だ。

現代風に行けば、
リスカ、オーバードーズ、ピアスやタトゥー、
ガチャやスロットをお財布や口座が空っぽになるまで無限に回す、
もはや飲食する気もないのに暴飲暴食、
倒錯的な勤務(過小とか過剰とか)、
徹夜で楽しくもないのにゲームとかだろうか。

そうした日和見な運命を受け入れる自傷行為の儀式を集団で繰り返し、ナチスドイツは完成する、というわけだ。

そうは言っても、ここまで自傷行為の儀式をして投げ捨てたい自由という言葉は、ひどくあいまいだ。だからあまりに倒錯的すぎてついていけそうにない。

なので、ゲームという言葉に置き換えてしまえばいいんじゃないだろうか、なんて思ってみた。

そうすると、ゲームに参加したくないのに参加させられているという苦しみで、ちょっとわかってくるのだ。

誰もが無意味だと断じていたものの参加させられていたゲームの代表格は、成績ゲーム、もっとしぼれば定期テストゲームだろう。

ルールは単純で、他の人よりも秀でた点数を稼ぐことだけだ。僕をふくめ、ほとんどのみんなは学問であるという意味をなにひとつ理解しちゃいなかった。

でなければ、授業では睡眠学習、テスト前だけに睡眠時間を削って一夜漬けする、学問に対するインチキなんてしてなかったはずだ。

でも、テストを受けなきゃ学校では咎められる。

というわけで、自分がテストに参加しない言い訳をつくらなきゃいけなくなる。

それで、
授業を真面目に受けなかったりとか、
誰か教師や社会のせいにしてみたりとか、
もっと大切なものがあるとかうそぶくとか、

そういったことをやってみることになってしまうのだろう。まあ僕もその一派だったわけだけど。

こうしたゲームからの逃走やインチキで得られるのは、運命と一体感、なぐさめにもならない安心感だけなわけで、ゲームに勝ったとも言い難いし、経験値を得られたとも言い難い。学問を身につけられるはずもない。

だからといってどうすればいいのか?
真面目にゲームに参加しろ!なんて強制されて、
つまり勉強しろ!と言われてやりたがるヤツがいるはずもない。

それなら当然、自由を守れ!なんて強制されて努力できるヤツも期待はできなさそうだし、言われた通りにしろ!なんていずこかの権威だのイデオロギーだのから言われても頑張れる人間はほぼいないだろう。

人はそこそこ無気力なものだ。

僕らはこれからも、自由からの逃走はさておくにしても、ゲームからの逃走は続けるのかもしれない。

とはいえ、人間それぞれには全く似たような全身が与えられているわけなので、誰かが頭脳、誰かが手足、というのはどうにも成立しなさそうな気だけはしている。

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