懺悔です。「好き」ってなんですか。横槍メンゴ先生の短編集感想
「好き」ってなんですか。
四年にわたる同棲生活の果てに年上の彼女から逃げたクズたる僕は訊ねる。横槍メンゴ先生の「一生好きってゆったじゃん」と「めがはーと」で精神を縛り付けられ、罰せられ、悶絶しながら。
クズなりに「好き」とは何かを考えてきたつもりだった。
かつての余裕しゃくしゃくだった時代を思い出す。
フィクションの世界で苦しみ、絶望し、諦めたように微笑んで消えていった子に、「生きていていいんだよ」って言いたかった。そのためだけにすべてを書き換えたことだってあったのだ。
クズはオリジナルのフィクションの助力を借りてこう書いた。
懺悔しよう。
僕はこのときはまだ、そしていまも、「好き」の意味がわかっていなかったんだと。
同棲生活の四年間もまた、自分の煩悩に囚われていたような気がしてならない。「好き」という言葉を悪用していた、クズなのではないだろうかと。
民間療法、スピリチュアル、反病院の金ばかりかかる精神を自立の証だと甘やかし、その見返りに自分の煩悩を受け止めてもらっていただけなんじゃないかとすら思う。そのくせ、結婚もしなかった。
だから登場人物たちのあまり感心できない行動が、クズの自分に突き刺さる。
彼女の自立は、結局は孤立だった。彼女のために自炊せず、掃除せず、洗濯もコインランドリーで済ませる不規則な生活のなか、それでいて変わり映えしない静かな僕の日常のなか、たくさんの本を読んだいまならわかる。
かといってどうすればよかったのか。それはいまだにわからずじまいだ。
自分の周囲の人々を信じられず、自分の保護者を信じられず、果ては自分を真っ先に救えるかもしれなかった病院を筆頭とする社会を信じられなかった彼女。社会をつなぐ最後の砦、金がなければ真に孤独となってしまう者。
現実の世界で苦しみ、絶望し、諦めたように微笑んで消えていこうとする子に、「生きていていいんだよ」って言うべきだった。そのために、なにひとつ正しいことは果たせなかった。
僕は自らの煩悩を棚上げにし、黙って断罪し、そして切り捨てた。世の中にはすでに、彼女のような人が少しずつ増えている。僕はそうした地獄をつくりだした責任の一端を抱えている。いつか僕に、報いがもたらされるだろう。
こうした人を信頼できない孤立した者たちの地獄がどういうものか。下流志向という少々鼻持ちならない本に、僕を断罪する記述がある。
彼女がどうなったのか。別れたあと、僕は怖くて聞けていない。
僕はこのふたつの作品の各話ごとに、本を閉じ、目を硬くつむる。自分をごまかした「好き」という言葉の意味がわからないまま。そして「好き」という言葉の重みをどうすればいいかわからないまま。
自分のしてきたことに、深く後悔をする。出会うべきではなかった。いいや、もっと本気で向き合うべきだった。相手の両親をひっぱりだしてでも、一緒に乗り越えるべきだった。
「好き」という言葉を使ってしまったのだから。
債務から逃げ、利子で膨らんだこの罪を、もはや彼女へ償うことはできない。僕を罰することのできる法も規範も、いまこの社会には残念ながらない。
だがら、少しでも社会へ返していくしかない。自分の日々の行動のなかで。いまみえる場所のなかで。すこしずつ広げながら。
いつか素敵な人に出会ってしまった時、また「好き」をごまかして使うかもしれない。そうならないよう、横槍メンゴ先生のこのふたつの本を書架に置き続けようと思う。
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