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ビルマ社会主義計画党(BSPP)第1回党大会におけるネウィンの歴史的名演説

わが国の歴史に残るべきこの意義ある日に当たり、直ちに行動を必要とする3つの大きな課題について述べたい。すなわち①固く結束した党の建設②国内諸民族の統一の達成③新憲法の起草である。もちろんわが党は他に多くの課題を抱えているが、本大会はさしあたり今述べた3つの課題に議論を集中すべきである。私がこの3つの課題に特に言及するのは、その他の課題は、この3つの課題を達成して得られた積極的成果を基礎としてのみ、成功裏に遂行できるからである。

1.固く結束した党の建設

私が党の結束を強調しなければならないのは、それが重要な役割を果たすからであり、党の結束の欠如は党の不幸を招くのみならず、国家全体に不幸をもたらすからである。それゆえ私は党に完全に固い結束を保ち、明確で正しい考えを持って働かねばならないことを繰り返したい。

党が強力であるための前提条件は党内部の結束である。これなくしては、われわれが将来取り組む課題は成功しないであろう。たとえ成功したとしてもわれわれの行動は遅いものとなるであろう。であるからわれわれは党内結束を達成しなければならないし、このために党員は広い度量と先見性を持たなければならない。党員は正しい判断を下し、正しく考え、正しく行動しなければならない。

この点に関し、過去においてわが国の政党が広い度量と先見性を欠いたために、分裂し分解してしまったことを私は指摘したいと思う。このような結果になったために国が被った損害は計りしれない。だからこそ私は、過去の政党の誤りから教訓を十分に引き出し、彼らの犯した過ちを繰り返さないために、確固たる基礎の上に正しい路線に沿って、党を建設しなければならないと言うのである。かつて政党の党内結束は、分化的な考えと行動に蝕まれていた。この分派主義の亡霊にビルマの過去のすべての政党は憑かれていたのである。

それゆえ私が党員各位に訴えたいことは、党内に派閥を作るのは止めよということである。しかしこれは、結束のために妥協すべきだということではない。もしもわれわれが当然の議論もせずに、すべてのことにただ頷くだけであれば、わが党は“イエスマンの党”になり下がるであろう。

われわれは党内民主主義を最大限に実行しなければならない。われわれは党内民主主義を良き目的のために行使するために、われわれ自身を訓練しなければならない。私は党員各位が自らを訓練して、正しく行使すべき民主的権利の重要性というものを、これまで何度も繰り返し強調してきた。党内結束を実現するためには、自分の意見を表明する自由がなければならない。他人の不興を買うことを恐れて、なんら発言も批判もしないという極端に走らないように注意する必要がある。結束を取り繕うためだけに妥協すべきではない。

われわれは、このように固く結束した党を建設つしつつあり、既に成功しつつある。しかしわれわれはこの結束をさらに強固にするために努力をしなくてはならない。重要なことは党を能率ある強力なものとすることであり、党員一人一人が自らの技術と力量を磨くことに努めることである。以上が第一の課題である。

2.国内諸民族の統一の達成

第二の課題に移ろう。もしもビルマが一個の国家として存続していくべきであるのならば、国民の統一が必要である。すなわち、単一の考え方の上に立つ連邦内諸民族の統一である。ここでわれわれは、われわれの過去の誤りと欠陥について学ぶために歴史を振り返ることにしよう。国民の統一を実現するためには、このような誤りと欠陥を繰り返してはならない。もしもわれわれあーが忍耐強いのであれば、その方法を必ず発見できるはずである。

過去の歴史を4つの時期に分けて検討してみよう。第一はビルマがイギリスに支配される前の時期、第二はイギリス支配の時期、第三はーーこれは別の機会に取り扱うことにするがーー自由獲得闘争の時期、そして第四が独立の時期である。

①イギリスに支配される前の時期

第一の時期においては、交通の困難のために国内諸民族は互いに孤立していた。支配階級の頭にあるのは、利己的・封建的な考えだけであった。またその頃は家族が一族の狭い利益がまかり通っていた。そういうわけでもっとも進歩的で文化的だったはずのビルマ族を代表するビルマの王やその朝臣たちは利己的で狭量であった。ビルマ族とその他の諸民族の関係は極めて薄く、かつ対等ではなかった。

これら他の諸民族は、用語上でも原始的と呼ばれていた。私はこのことをただ歴史的事実として指摘しているに過ぎない。当時の支配者たちは、遠隔の地域との間にこのような誤った関係を作ったのみならず、彼らが到達できる地域は剣をもって支配した。同胞であるビルマ族の間においてさえも、これら封建的支配者たちは搾取し、威張り散らす無法者の態度をとったのである。一言で言って、彼らの行った支配は、国の統一をもたらすようなものではなかった。要するに、彼らは国の統一の必要性をわかっていなかったのだ。他の諸民族圧迫し搾取することだけが、彼らの欲したすべてであった。こういうわけであるから、この時期には国の統一などできるはずもなかった。言い換えれば、これら封建的支配者たちは国の統一を達成する代わりに、彼らの誤れる支配をもって国の統一を壊していたのである。

このような悲しむべき状態を作った責任の所在を分析するならば、ビルマの諸民族の中でもっとも進歩的で文化的であったビルマ族に最大の責任があると言わざるをえない。支配者層、すなわち王や貴族やその手の者たちが、この責任の大半を負わなければならない。またこれらの王たちに見習ってビルマ族自身も他の諸民族を見下す態度をとっていた。こんなことでビルマ族と他の諸民族との関係が円滑友好的でありえようか。こんなことで他の諸民族がビルマ族に愛情を持ちえるだろうか。かくて不満が根を下ろした。要するに、国の不統一については、ビルマ族に大きな責任があると言うべきである。

②イギリス支配の時期

やがて第二のイギリス支配の時期が来た。当時わが国の辺境は明確には確定されておらず、そこでイギリス人たちは、「ビルマ本土」と「辺境地域」に別々の行政組織を作った。その結果イギリス人たちは、①ビルマ族が辺境地域の住民をなおざりにしていたこと②彼らに教育らしきものは何一つ与えていなかったこと③ビルマ族と彼らとの関係は極めて薄いことを発見したのである。

イギリス人たちにとっては、ビルマを長く支配できればできるほど有利であった。イギリス人たちはビルマを永久に搾取することを欲した。そして幸運にも彼らはその目的を達成するために非常に有効な武器を手に入れたのである。それはビルマ族の間違ったやり方で育んでいた諸民族の不和を煽る分断統治であり、彼らはこれを彼らに最大の利益をもたらすように使ったのである。

イギリス人たちは、辺境の住民をキリスト教の布教と社会事業を通じ、さらにビルマ族に中傷を加えることによって組織化した。この中傷の材料には事欠かなかった。ビルマ族は、これらの辺境との諸民族の関係で賢明ではなかったからだ。イギリス人たちのこの陰険のやり方は相当の成功を収めた。彼らがどんなに成功したかを知るには、後世になっこれら辺境諸民族の心の中に、ビルマ族に対する愛情、理解、尊敬のひとかけらも残っていなかったという事実を考えさえすればよい。このことは、後述するようにビルマ独立のためのイギリスとの会談の際の経験で極めて明白になった。

さてイギリスによるビルマ再占領の時期、第二次世界大戦直後について述べよう。ビルマの独立のために、われわれがイギリスと交渉した時期である。イギリスは、ビルマの諸民族の分裂状態を保つために綿密な計画を立てており、それなりに成功した。われわれが独立のために交渉を始めた時のイギリスの計画は、「ビルマ本土」には独立を与えるが、「辺境地域」には別個イギリス支配下に置くというものであった。われわれが交渉を行っている一方で、「辺境地域」のイギリスの役人たちは、その計画を実現すべく奔走していた。工作の目的は、ビルマ族に対する不信感を植え付けることであった。われわれがイギリスに対し一つの国家としてのビルマの完全独立を要求し始めたのは、1945年、大戦終了直後であった。その時からパンロン会議に至るまでの期間、イギリスは不安の種を撒き、分裂の現状をさらに悪化させるために全力を尽くしていたのである。

イギリスのこの企みはほとんど成功するかに見えた。しかしアウンサン将軍の誠意・外交手腕・善意は、辺境、住民の信頼を勝ちえて、パンロン会議の開催とその成功をもたらしたのである。この会議で各諸民族の意見が一致。この会議があったからこそ、完全統一された自由独立の「辺境地域」の包含したビルマ連邦が実現したのである。

ここで私は、イギリスの役人たちの陰謀の結果が起こったある事件について話しておきたい。

アウンサン将軍が、イギリスで独立獲得の交渉を行っている最中に、シャン州の土候たちがイギリス政府に電報を打ち、アウンサン将軍はシャン州を代表するものではないと申し入れたのである。これは今私が述べたイギリスの役人たちの一部の者の仕業であった。つまり、彼らは自己に不利大勢に不満を持っていた封建領主の土候たちを焚きつけたわけである。この電報がイギリスに到着したため、アウンサン将軍と同僚たちは、はなはだ困惑した。イギリス政府は、アウンサン将軍たちに「あなたがたは全ビルマの代表としてここに来られたと言われるが、シャン州の代表ではないという電報が届いている」と告げられたからである。

しかしこれを知ったシャン州の進歩派たちは、この電報は取り消さなければならないと、シャン州住民大会を招集した。そしてアウンサン将軍は自分たちの代表であるとの決議を直ちに採択して、この旨をイギリスに打電した。これで初めて在ロンドンのビルマ代表団の仕事は円滑化した。この事件からでもイギリスの役人たちの懸命な妨害がわかるというものである。

しかし私は、公平な立場から、イギリス労働と政府は、われわれの独立獲得の努力に対し立派な態度をとったことを述べておきたい。

パンロン会議が開かれていた時でも、シャン州の土候たちはこの会議をつぶすことに全力を傾けていた。そして彼らの分離主義的活動を指導したのは、他ならぬ「辺境地域」のイギリスの役人連中であった。その同じ時、イギリスでは保守党に代わって労働等が政権の座に就いており、そして同政権の考え方は政治的に非常に進歩的であった。労働党はイギリスの植民地制度は時代遅れであると信じていた。労働党政府の代表団がビルマに到着した時、これらのイギリスの役人たちは「辺境地域」の住民たちは、ビルマとともに独立するのを欲していない、むしろひとり立ちしたいと希望していると意見を述べた。しかし代表団はこの意見を否定し、ビルマにはビルマ全土の独立が与えられるべきであると宣言した。この代表団は、同じイギリスの役人たちの底意ある主張には耳を傾けず、本国政府に対し、ビルマは完全な一つの国家単位として独立を与えられるべきと進言した。ビルマが一体として独立を勝ち得たのはこのおかげである。

かくてビルマは独立を獲得した。これは当時のビルマ人の熱意によるものであるが、しかし「辺境地域」の指導者たちは、この事態の変化には少なからず不満であった。これらの者を満足させるために、多くのことがなさればならなかった。憲法に彼らのための特権を規定しなければならなかったのである。しかし当時の喫緊の課題は独立の獲得であり、憲法を起草のために使える時間はんあまりなかった。一方ではその時間を制限しようとする人々があり、他方「辺境地域」には騒いでいる一部住民がいる。憲法をすべての点で完全に満足できるようなものにするだけの十分な時間は、得られなかったのである。

イギリス政府の方では、独立は憲法が出来上がったときにのみ与えられると言っていた。このような事情の下では、憲法の起草者としては、与えられた状況の下で最善を尽くす以外に手はなかった。肝心なことはできるだけ速やかに憲法を持つことであった。後で問題が起こり得ることがわかっていた若干の条項も、その時の状況下では憲法に挿入しなければならなかった。「辺境地域」の指導者たちが、明らかに一つの魂胆を持って参加していたからである。

このように独立は獲得したものの、国家の統一は完全に満足には具現されなかった。ここでわれわれは、独立後の時期とも言うべき第四の時期に入ることになる。

④独立の時期

第四の時期は二期に分けられる。第一期は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が団結していた時期、第ニ期はAFPFLが分裂した後の時期である。

AFPFLが団結していた時は「ビルマ本土」の指導者と「辺境地域」の指導者は大変仲良くやっているように見えた。彼らは手をつないでいるように思えた。しかしこれは表面だけのことであり、真の友好ではなかった。シャンの土候たちは絶えず陰謀を巡らしていた。AFPFLがまだかなり強く団結していた時、既に両者の関係は悪化し始めていた。小さな誤りが言葉の上、あるいは行動の上で犯された時、カチン族とチン族は懸念を持ち始めた。彼らは新体制への信頼を失い始めたのである。

AFPFLが強かった時は、シャンの土候たちは本心を隠していた。しかしAFPFLが弱体化するや、土候たちは久しく抱いていた不満を表し、政府に圧力をかけ始めた。彼らの不満が事実その通りであれば、われわれも文句の言いようがなかったであろう。われわれ自身が喜んで彼らの言い分を支持したであろう。しかし実際はそうではなかった。

私が言いたいのは、土候たちが要求した権利や特権は、民衆のためというより彼ら自身のためのものであったということである。土候たちは彼らがイギリス人の下で享受していた封建的権利や特権が引き続き保護されることを欲したのみならず、特権の追加さえ要求したのである。彼らの貪欲には際限がなかった。

土候たちが求めるものを得られなかった時、彼らとAFPFLの指導者との関係は真に悪化し始めた。AFPFLが強力で結集していた時の表面上の民族的団結は、AFPFLの分裂によって破れ、土候たちは彼らの要求をむき出しにし始めたのである。かくて1962年までに情勢は非常に悪化し、たとえビルマの国土が寸断されなかったとしても、少なくとも「ビルマ本土」と州領のニつの両断されてしまうところであった。

これらの両断状態が起こったとしたらどうなっただろうか自分の要求を持ち出す時は団結しているかに見えた各州も、一旦分離されれば、まもなくバラバラになっていたであろう。一旦権力を握れば、これらの州が団結を失うことは目に見えていた。

私がこんなことを言うのは、われわれ軍人はこれらの州で起こりつつあることを非常によく知っていだからである。チン丘陵を例にとろう。ハカ、テイディム、ファラム、カンペトレの人々は団結していただろうか?旧来の偏見は容易にはなくならず、地方的な偏見は今日まで続いている。カチン州でも同様で、アジ、マル、ラワン、リスー、ジンパウの各民族も同様の問題を抱えている。しかもそれぞれの民族の中にも、さらに方言が違うという分離的要素が存在しているのである。

シャン州にも、パラウン族とパオ族がいる。パオ族のほうが数は多いが、パラウン族のほうが分散的に住んでいる。さらに彼らは多くの小部族に分かれている。ところがある時、パオ族がわれわれに対し、シャン州から分離したいと告げたことがある。もしもこのような分離が実現していたとすれば、パオ族が今度はその仲間同士で戦いを始めたことは確実である。このような異和と分裂は、誰の利益にもならない。すべての者にとって有害である。

ここで私は過去における考え方について一言述べたい。過去においては、自分が繁栄すればそれで良く、自分の属する民族集団が繁栄すればそれで良いということであった。しかしこの考え方でいくと、民族の団結は得られない。団結が得られないからビルマ族が先頭に立って支配を行うということになる。われわれがもし欲すれば、このやり方はできたであろう。しかしわれわれそうしてはならないことを知っている。それは正しくないからだ。われわれが欲するのは全民族の団結である。われわれが民族的団結を欲するならば、トリックを用いたりしてはならない。一つの民族を他の民族と争うように仕掛けて分裂を起こさせ、両方に君臨するような態度をとってはならない。われわれはイギリス人がしたようにビルマ族と「辺境地域」の住民を分割し、支配するようなことをしてはならない。われわれにとっては、「辺境地域」の住民は国土をともにするわれわれの同胞である。だからわれわれは仲介の労を取り、彼らの間の不和の克服を助けねばならない。争いあう彼らをさらに引き離すような近視眼的態度をとってならないし、彼らが弱体化したからといって、それにつけこんで彼らをいじめるようなことをしてはならない。こういうことをしてはならないとわれわれは知っていたから、それをしなかったのだ。われわれがやればできることを知らなかったのではない。われわれはそういう機会を持っていたが、それをしなかったのは、ひとえにそれをしてはならないことを知っていたからである。それをよく知っていたわれわれは、なんとか手を打たねばならなかった。これらの「辺境地域」出身の人間たちは「ビルマ本土」からの指導者たちに極めて友好的な態度を示したが、これは陰謀のための巧みな芝居であった。その頃を行うべきであったことは、これらの人々にその誤りを悟らせることと、彼らよりずっと政治的に成熟しているはずのビルマ族の指導者たちが、彼らを教育することであった。しかし指導者たちはそれをしなかった。

指導者たちはそれをしなかったが、われわれ軍人はできるだけのことをした。われわれは「辺境地域」、特にシャン州の民衆に接触することに努めた。しかし土候たちは、われわれが民衆に接触して彼らを教育することを欲しなかった。土候たちはビルマ族の指導者たちに対し、軍が「辺境地域」で良くないことをしていると訴えた。これら土候たちの中には、社会主義に転向したと称して社会党に接近する者がいた。その頃、閣僚はすべて社会主義者であり、勢力があったから、軍が実施しつつあることを止めてもらいたいという彼らの頼みは容易に聞き入れられ、軍は手を引かざるをえなかったのである。

しかし土候たちのビルマ族指導者たちとの親近関係は表面上だけのものに過ぎず、誠意に欠けていた。ビルマ族指導者たちは、土候たちが術策を弄していることを知りながら、彼らを正気に戻すことをしなかった。さらに悪いことに、AFPFLが結束していた時には国民の間に団結と理解を促進しうる非常に良い機会があったのだが、彼らはこれをなおざりにしたのである。彼らがこういう態度であったから、1962年の初めにいわゆる「連邦計画」その他の要求が次から次に持ち出される至り、「辺境地域」の指導者たちは、彼らの地域の住民の支持をあてにして、その要求の貫徹を図るようになった。

このような事態になってきたので、われわれは、介入せざるをえなかったのである(1962年3月のネウィン革命のこと)。私が前述したように、彼らの要求というのはビルマの国土を少なくともニつに分断し、場合によっては寸断するものであった。われわれは介入を余儀なくされた。しかし良い気持ちではなかった。われわれは良心に翳りがあった。その時以来われわれは、国家権力はその正当な持ち主、すなわち国民に回復すべきであると信じてきた。この信条の下に、この目的に向かってわれわれは一貫して働いてきた。われわれの努力の結果として、今直ちには国家権力を国民の代表に返還できないにしても、ビルマの国民の少なくとも相当の部分を代表するわれわれの党には、今日から移譲することができる。今私が概要を述べたビルマ王朝の時代からAFPFLの時代に至る歴史的背景の中で、国家の団結・統一を図る真面目な試みがなされたことは、一度もなかった。あったのは逆に破壊、ただそれだけであった。それゆえ各民族は不信感を持ち、猜疑心は今日まで残っている。これがわれわれが過去から学んだ教訓である。前述したように、われわれとしては、国家全体・民族全体が、場合の如何を問わず固く団結しなければならぬという信条を徹底しなければならない。

過去に起こったことは良くなかった。それゆえ過去の誤りを正すために何をなすべきかを考えるのが、わが党の義務である。民族間に、指導者の間のみならず民衆の間にも、正直、率直、公平な取り扱いを促進することが大切である。交通通信、その他の要因が改善された時にはこのことは実現するであろうが、しかしわれわれは今スタートを切らねばならぬ。特にわがビルマ族が行うべきことは、われわれビルマ族が惹起した不信感を払拭することである。われわれはそのための犠牲を惜しんではならない。われわれは、彼らがわれわれを利用して不合理な要求をすることを許すことはできないが、われわれももっと寛大でなければならない。できる限りの譲歩を行い、彼らがわれわれを理解するように努めねばならない。

このようにして、われわれが信頼と理解を回復した時に、わが国の民族的団結は必ずや達成されるであろう。民族の団結がなければ、いかにわれわれが努力しようと、いかにわれわれがたくさんの計画を作ろうと、進歩は遅いであろう。たとえわれわれが完全に失敗はしないとしても。

3,新憲法の起草

最後に第三の課題、憲法の起草について述べよう。ビルマ社会主義計画党は、同志の党たる地位から国民の党に移行した。党は憲法の起草については率先的に努力しなければならない。党員の見解や提言を集めるための措置も行わなければならない。憲法の詳細については後に譲るが、ニつの点にだけは触れておきたい。その一は人による人の搾取ないし一つの民族による他の民族の搾取の禁止であり、その二はすべての国民の基本的人権の保障ということである。このニつの点は注意深く新憲法に入れる必要がある。社会主義経済であるとか社会主義制度であるとかいったような事柄は、後で細かく取り扱うことができる。

私が繰り返し強調したいことは、人による人の搾取があってはならないのみならず、一つの民族による他の民族の搾取もあってはならないということである。この点を強調するのは、このような搾取が今まで実際に行われてきたからである。イギリス統治以前においてすら、ある程度搾取は行われていた。後のAFPFL政権の時代には、搾取というほどのものはなかったけれど、民族間の関係は幸福なものではなかった。それは単に人による人の搾取だけのためではなかった。私がこれを言わなければならないのは、わがビルマに存在してきた独特な状況のためであるが、一つの民族による他の民族の搾取は絶対にあってはならないという点も、特に銘記しなければならないのである。

以上私が述べた三点、すなわち、党の結束強化と民族間の団結の達成、そして憲法の起草は、われわれが今直ちに実行しなければならない課題である。党員各位はこの目的に向かって学び、準備し、率先して実行しなければならない。

党内の結束のため我々は努力せねばならぬが、民族間団結はわが党だけでは達成できない課題である。これは全民族の課題である。憲法の起草もまた、わが党のみでなしうるところではない。憲法は全国民受諾されないものであっても、大多数の国民に受諾されるものでなければならない。したがって全国民は憲法の起草に参加すべきである。私は全国民に対し、私が今述べた三つの課題の遂行のために、わが道のもとに馳せ参じてもらいたいと訴えつつ、私の話を終わる。

参考文献

「ビルマという国ーーその歴史と回想」鈴木孝著(PHP研究所)

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