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当たり前がルール化する

たまたま気づいたから、落としたものを取ってあげること、ペンを探してそうだったから、貸してあげたこと等、良かれと思ってやってあげたことは、一度や二度ならずあるだろう。

こういう一時的な行為自体は、あまりなにも考えずにやれることだ。ただ、最近は子供が泣いていても声をかけて逆に不審がられても困るし、泣かせたと思われても困る。面倒ごとに巻き込まれるならスルーしよう、ということも多くなったらしいが。

それはそれとして、嫌な時代…。と時代で括ってしまっていいのか…。

このことはまたのちほど。一時的な良かれと思って、はその時で完了して特になにも後腐れはないだろう。じゃあ、なにが問題なのかというと、例えば、北海道はこれからの季節、必ず景色が変わることがある。それは、雪が降ってくること。雨と違って勝手に流れていってくれないし、寒くなるとどんどん積もっていく。家の前に雪が積もると雪かきを行うのが北国の生活だ。じゃあ、どこまでやるのが正解か、というと。

「そんなもん、雰囲気やん」

ということにしたい。自分自身がどうのこうのあったわけではないが、たまに聞く話としては、「私は一生懸命道路もキレイに雪かきをしているのに、お向かいの人は一切やらない」なんていうことがある。だからといって、道路のちょうど半分だけをきっちりやるという話も聞く。なんだか世知辛い話やな〜と思う。

大体のところはそこそこやってたら、さほど問題もないし、雰囲気で全然大丈夫。

「ほな、ええやん」

ということなんだが、結局は、何度か繰り返しやってもらうことによって、良かれと思ってやってることが何故か『ルール化』するということがなんか多いな〜と。仮に雪かきをいつもやってくれているとする。体調が悪いかなんかで、やってない日があるとした場合、「なんや今日やってないんか」となる。これはおかしいことだと思うが、話を聞いているとこういう話を普通に言ってくる。好意でやってあげていることはなにも問題ないのだが、『当たり前がルール化』すると義務感がすごい。

以前読んだ本の中で、お金の使い方の中で一番幸福度が高いのは寄付だということだ。ほんまか!と思うが、実際にそうらしい。ただ、人に促されたり、諭されたり、他の要因が少し入って義務感が増すと一気に幸福度も下がるらしい。やってあげることが当たり前だったのにルール化されてしまうと気持ちが萎えるのもこれに近いのではないだろうか。

昔は、隣近所との関わりも多く、コミュニケーションを取っていたのが、隣の家の人の顔も分からないということも増え、ギスギスすることが怒っているのかもしれない。ただ、あまりにも干渉されてしまうと当然しんどくもなる。人が暮らしやすいのはある程度の寛容さと適度な干渉だということだが、めっちゃむずいな、その距離感。

さっきの泣いている子と同じだが、普通に声かけて助けようとしたところに人が集まってきて、解決してあげるのが当たり前になってほしいな、と思った。なんかめっちゃ取りとめない話をしてしまった。

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