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高瀬川のこと

「そこには楽園がある」

オヤジが言った言葉にオカンは顔を顰めた。

「子供になに言うてんねん」

20世紀が終わろうとしていた1999年、二十歳を越えはじめてその街に足を踏み入れた。

オヤジが言った言葉のとおりそこには“楽園”があった。「五條楽園」。
あの時、オカンが顔を顰めた理由も理解できた。
多くの京都人がひっそりと通ったであろうこの街は平成になって幕を閉じた。

そこは昭和の“楽園"だった。

五条木屋町沿いにあるお茶屋だった“本家三友”。三友はここが京都最大の色街だったことを今も悠然と語る。そして地域に愛される“梅湯”。この橋の手前に“五条楽園”と看板があった。五条木屋町には“efish”があった。1999年にオープンし2019年に惜しまれつつ閉店した。よく行ったお店だった。

三条〜四条界隈

五條楽園を上がるにつれ、この川を中心にしていくつもの飲み屋が集まる。

京都最大の歓楽街”木屋町”。
御多分に漏れず二十歳そこそこから入り浸るようになった。
そこに自分にとっての“楽園"ができた。
夜な夜な酒を飲んでは潰れ、夢の実現のために創作活動に邁進し、適度に女の子とも楽しむ。家に帰ることは少なくなった。
楽しくてしょうがなかった。
毎日通った。
まさに“楽園"だった。

夕暮の木屋町通。数百の飲食店に灯りが徐々に灯され、人が集いはじめる。地元住民も観光客も関係なく暖かく迎えてくれる

高瀬川と映画と

この川は江戸時代に作られた人工の運河だ。
様々なものが大阪湾から船で運ばれ、都から様々なものが各地へと運ばれて行ったのだろう。
その際に使われた舟が「高瀬舟」。小型〜中型の舟。その舟の名がこの川の名の由来。
森鴎外の作品にも登場したこの川には、映画という近代芸術もやってきた。
日本映画発祥の地でもある。
当時の文化人たちはこの高瀬川に“楽園"を見ていたのかも知れない。

唯一残る一之舟入には復元された高瀬舟がある。川沿いには桜が植えられ春は花見を楽しむ散策者も多い。現在工事中の元立誠小学校の正門前には“日本映画発祥の地”の案内がある    

いまも趣を残す

今も高瀬川は流れている。
令和を迎えオッサンと呼ばれる事に抵抗がなくなった今日も、また高瀬川を越えて“楽園"に向かう。

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