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野中広務 権力の興亡

 野中広務は90~2000年代、自民党の党人派政治家として活躍し、小渕政権・森政権において影の総理大臣とも呼ばれた人物である。本書は朝日新聞の月刊誌「論座」において90年代の政治キーパーソンに対して行われたインタビューをまとめたものである。

小沢一郎について

竹下派分裂のきっかけとなった、金丸信の政治資金問題の対応を巡り、小沢一郎(当時竹下派会長代行)と梶山静六(当時、自民党国対委員長)が対立する。小沢氏は徹底抗戦を主張したが、そのことが結果的に金丸氏を追い落とすきっかけになったとも言われる。これについて、「小沢一郎は恩師である金丸信を追い落とし、その威光を自分のものにしたかったのでは」という説がまことしやかに噂される。

ー小沢さんの意図は、金丸さんを政治的に葬り去ろうとしたのではないとも考えられます。いかがでしょう。
野中 確かにその後の展開を見ていろいろ思うところはあります。僕はそうストレートにとりたくないとは思う。小沢さんには、金丸さんが副総裁を辞めることで問題を短期間で収めたいという意図があったかもしれません。だけど、テレビの前で5億円の授受を認めさせるというのは、検察にしてみれば「こんなことをはっきり言われたのでは、とても黙ってはいられない」ということになるんです。それぐらいのことはわかるはずだから、僕は会見をとめたんです。にもかかわらず記者会見をした。しかも派閥の幹部がだれもいないときに闇討ち的に会見させた。だから小沢さんにはほかに意図があると僕は四段です。
―小沢さんがやったことは意図的な裏切りですか、それとも結果的な裏切りですか。
野中 結果的な裏切りですよ。ただし動機は知りません。

野中氏は小沢氏に対して心情的に極めて手厳しく、こんなエピソードも紹介している。

野中 小沢さんはよく涙を出す人です。金丸さんのところに来ては泣くんですよ。「オヤジ、私にまかせてください。私が命をかけてやります。宮澤さんと刺し違えてきます」とか言って泣くんですね。本当に涙を流すんですよ。それを僕らは隠れてみている。そんなことが何回もありましたね。金丸さんは「一郎、もういい、もういい」と言うてしまうんですね。
―小沢さんという人はなかなか実力のある政治家ですが、どこか欠点のある人ですね。
野中 そう思います。あれだけ次々と政党をつくっては壊していった人はいない。そして今は民主党のトップにおられますけれども、あの人ぐらい側近が逃げていった人はいませんよ。
ー人間関係を安定的に維持できないのでしょうか。
野中 長く付き合えないのでしょうね。そして、都合が悪くなったら隠れちゃうんです。自自連立のときもそうですよ。何か問題があると最後の判断は小沢さんがしなけりゃならないんだが、どこかに行方不明になって、おらへんのです。
ー判断することを避けるのですか。
野中 いやな局面になったら、いなくなってしまうんです。
ー攻めているときはいいけれども、具合が悪くなると説明できなくなるんですか。
野中 できませんね。これは学生からすぐに政治家になった人の宿命だと思いますよ。

阪神大震災での苦労話

自社さ連立政権で野中氏は自治大臣・国家公安委員会委員長に就任。この時期は阪神大震災とオウム真理教事件が重なり野中氏が対応にあたった。

(阪神大震災の援助について)
海外からの援助もどんどん来ました。特に困ったのはスイスの救助犬です。8頭派遣できるということだった。ところが、犬を扱う人にドイツ語やフランス語の通訳をつけなければならないわけです。現地が大混乱している中で、犬1匹ごとにドイツ語やフランス語の通訳をつけるなんて不可能なんですよ。さらに、現地では自治体の人も含めてみんな寒い中に野宿していた。便所もなかなか仕えない状態でやっているのに、犬を泊めるような設備があるわけがない。だから、「せっかくの申し出だけれども、お断りする」と言ったら、マスコミも含めて「せっかくの好意をなぜ受け入れないんだ」と、また非難轟々だった。仕方ないので2頭だけ受け入れ、ドイツ語とフランス語の通訳も探してつけたんだけども、結果として亡くなった人を見つけることはできたが、生存者を救出することはできなかった。

菅内閣も原発事故の際、海外からの支援を拒否したとして非難されていたが、概ね実情はこんなところだろう。

オウム真理教への破防法適用

野中氏はオウム真理教に破防法適用するよう、内閣を動かした。もともと野中氏はリベラルな政治姿勢で、国家主義的な政策を好まない。破防法自体にも野中氏は前向きではなかったが、法律がある以上、オウムに適用する必要があると考えた。

ー村山首相の思想信条からすると、破防法をオウムに適用するというのはある意味で信じられないような決断だと思います。野中さんは破防法適用に積極的に動いたわけですか。
野中 そうです。僕が適用すべきだといい出して、積極的に動いたんです。
ー野中さんの思想信条からいっても、破防法はあまり好きではないんじゃないですか。
野中 好きじゃないけども、そもそもなんのための破防法だと思ったんですよ。抜かずの宝刀なら意味がない。こういうときに抜かずしてどうするんだ。共産党だけを狙ってこの法律をつくったわけではないでしょう。国家転覆を狙った組織犯罪にこの法律を適用しないでどうするんだという考えです。しかも、この事件は宗教色を帯びていましたから、1回の検挙で根絶できるものではないという気持ちがありましたから、私は村山総理に直訴しました。そして閣議決定をしてもらいました。

野中氏をハト派・親中派で弱腰なイメージで語っている批評が多いが、本書から伝わる野中像は、弱者に対する気遣いを重視しつつ、内政・外交において必要なときはタカ派的態度を取る芯の強い人物に映る。

小渕政権で官房長官就任を要請される

小渕さんというのは「ジジ殺し」でして、僕が総理の執務室に入ったら、サッと床にひざまずいて「頼む。君が助けてくれないとどうにもならない」と言うんですよ。僕が「ばかなことしなさんな」と言っていると、そこへタイミングよく電話がかかってきたんです。小渕さんが出たら相手は竹下さんだった。代わってくれと言うから、僕が電話に出ると、「お前、運命だと思って手伝ってやれよ」と説得するんです。

このエピソードから分かることがいくつかある。一つは、野中氏は当時、経世会の中核を担っており、野中氏を党務でなく内閣のほうに取り込むことが小渕政権にとって非常に重要な課題だったこと。2つ目は小渕内閣の人事に竹下氏が深く関わっていたこと。そして最後に、当時力をつけてきた野中氏だったが、竹下氏の意向に背くことは不可能だったこと。

経世会の微妙な人間関係と、竹下氏が隠然たる権力を持ち続けていたことが示唆されていると思う。

自社さから自自公連立へ

ー橋本政権までは自民党は社会党と組んでいたわけです。しかし、野中さんは基本的に社会党とは政策が違うから、いつまでも連立政権を続けることはできないと思っていたわけですか。
野中 そうです。僕らは村山さんに総理になってもらったけども、結果的に社会等をつぶしてしまったなと思いましたよ。同時に、この連立は長く続かないと思った。
(略)
ー表では「自社さ」政権を維持しながら裏では公明党との連立を模索するという重構造の政権戦略は、野中さん1人では実現しないでしょう。野中さんと同じようなことを考えていたのは竹下さんですか。
野中 竹下さんと考えは共通していましたね。そして、竹下さんとはこの問題についてよく話をしていました。竹下さんの頭の中には将来の「自公連立」があったでしょうね。

小渕政権は発足当初、参議院が過半数割れしている状態で連立パートナーを必要とした。そこで公明党に目をつけたが、公明党からは2党の連立は急だとされ、座布団として自由党を含めた3党連立が提案される。それが自自公連立の発端となった。

小渕総理の人柄

小渕総理は冷めたピザと揶揄されたように、いかにも平均的な政治家の風貌だが、実は気性的に激しい側面もあり、梶山や加藤といった政敵に対し怨恨を強く持っていた。

野中 意外だったのが野田聖子さんの起用でした。私が「野田さんは本当にいいんですか?」と聞くと、「彼女は郵政政務次官のときよくやったじゃないか」というんです。「政務次官としてはよくやっていましたけども、直前の自民党総裁選では、対立候補の梶山静六さんを先頭に立って応援していたんですよ。そんな人を使うとみんな奇異に感じるかもしれません。ほんとにいいんですか?」と言うと「いいんだよ。できる人材はどんどん使うよ」と言ってました。

これも一見美談というか、小渕氏が融和に努めるようなエピソードだが、ポストで梶山グループを切り崩すために筆頭の切り込み隊長だった野田氏を大抜擢して、自身の寛大さを見せつけることで梶山氏を潰す狙いだったのだろう。

また、総裁選出馬で経世会が割れないよう、候補者を梶山氏に一本化する案が出た際は、「総裁選出馬を取り下げるくらいなら議員辞職する!」と言ってまわりがその剣幕に飲まれたという。

加藤の乱

小渕氏が倒れ、野中氏は森政権の発足に深く関わる。野中氏は自民党幹事長に就任する。森政権時の野中氏の働きとして外せないのが加藤の乱鎮圧である。

森政権でも冷や飯を食わされた加藤紘一氏は盟友の山崎拓と組んで倒閣運動を行う。しかし加藤氏の見込みは甘く加藤派の多くが切り崩され、加藤氏の政治生命が終わった。山崎派は離反者を出さなかったため引き続き政治的影響力を保ち、山崎氏は翌年幹事長に就任する。野中氏は加藤の乱を切り崩し、森政権を守った。

ーこのとき、加藤さんは内閣不信任案否決のための多数派工作を展開した野中さんの前で身動きできなくなってしまいました。
野中 あのころ加藤さんはインターネットに狂っていましたよ。僕は加藤さんに「なんでそんなことを考えるんですか。一党の幹事長をやった人が、あるいは官房長官までやった人が、倒閣運動の先頭に立つなんてことはとんでもないことだ」と言ったら、「君ほどの人間が、今の世の中がわからないのか。私のホームページに入ってくる書き込みはすごいぞ。毎日、万を超える書き込みが入ってくる。あなたはそうした国民世論がわからないのですか」と言うんだ。僕は「あなたは何を勘違いしているんだ。ネットの世界の書き込みを国民の世論だと思ったら大間違いだ。そんなばかなことに惑わされてはならない」「情報社会より、国民の目線が大事です。それから政権は今すぐあなたの手に渡るわけじゃあない。もう少し時期を待つべきだ」といいました。しかし、加藤さんは「君は今の情報社会をわかってない」と言って聞かなかった。

本書の教訓

58歳で衆議院議員となった野中氏は中央政界デビューは遅かったが、当選5回を数えた93年ごろから国家公安委員会委員長、幹事長代理と政府・党の中枢を担う活躍を見せた。初当選から17年で自民党幹事長となった短さは、安倍晋三の12年ほど短くはないが、当時としてはかなりの出世スピードだろう。

出世の背景には、現実主義的で実直な野中氏の姿勢が評価されたことに加え、竹下氏という巨人の肩の上で汗をかき、小沢に人材を引き抜かれた経世会で中核を担ったのが大きい。

このように独立独歩で出世するのはまれで、有力な庇護者の下で汗をかき実力派として重宝されることが、将来の自立のためにも役立つ

本書の教訓②

インターネットで自分のHPに寄せられる森政権打倒の声を国民の声と勘違いした加藤紘一氏がどうなったかは、承知の通りである。国民の間に森政権への不満がなかったではないにせよ、それは反旗を翻し敗れ去った加藤氏を復権させるほどの世論ではなかったし、事実小泉政権になると自民党への不満などどこ吹く風となってしまった。

ネット世論は国民世論の声のようで、実は全く違う。というか、世の中の実態を現したものではない。

例えば「男が育休を取ろうとしたら、会社から理由を聞かれた」みたいなブログにネットでは共感(会社の都合に関係なく、男も自由に育休をとってよいという賛同)が集まりやすい。しかし現実社会では「変わった人 面倒くさい人」認定されるだろう。(そういう風潮を私が肯定しているわけではない)

要するにネット世論は先鋭的だったり一部が全体を語っているような話で、それを世の中の標準として捉えたら痛い目に合うのである。


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