見出し画像

すべて真夜中のごみたち

小学生の頃、捨ててしまうものから作品をつくるのが好きだった。
ごみから生まれたブルドーザー型基地、ごみから生まれたオブジェ「夏」。
いまも思い出として残っているが、モノとしての末路は結局ごみになってしまったはずである。
自由帳に描いた漫画や迷路も、陶芸体験でつくった鱗が鉛筆のかたちになっている魚のオブジェも、ぜんぶ捨てられてしまったはずである。

結局私はごみになるものしか生みだせないのではないか。
思考は飛躍して、果てはすべての芸術品も捉えようによってはごみなのではないか。なんて思うこともあった。

油や顔料で塗りつぶされた布や紙
もえるごみ。

見ること以外に使い道がない何かをかたどった木、石、銅。
もえないごみ。

インキが載った紙を束ねたもの。
もえるごみ。もしくは資源ごみ。

音声や映像のデータがはいったキラキラした円盤。
もえるごみ。

でもそれらごみになったものがなかったとしたら、私の人生にはまったく色がなかったはず。

最後はごみになるものだとしても、それがないと生きるのはつらい。
最後はごみになるものだとしても、やっぱり生みだしたい。
最後はごみになるものだとわかったうえで、見よう、聴こう、触れよう。
最後はごみになるものだとわかったうえで、書こう。描こう。つくろう。

経済的な理由でいっとき実家に居を移したことがある。
引っ越し当日、こどもたちが自分のもちものを運ぶ。
彼らがつくった作品たちもその一部だ。
こどもたちには聞こえていないようだったが、実家の母はそれらを見て「ごみにしか見えない」と冗談めかして言っていた。
悲しいを通り越して怒りすら覚えたこのことを、きっと一生忘れない。
ごみにしかみえないものをごみと言っている人には見えないものを、見ていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?