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『十字架』の話:すきなものの話#3

十字架という言葉で、一番に思い起こされるのはなんでしょうか?
キリストの十字架や教会などを思い浮かべる方もいれば、十字架を背負うという慣用句を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。
僕と同じく、重松清さんの『十字架』を思い浮かべる方は、どのくらいいるのでしょうか。

『十字架』との出会い

僕は昔から、自分の読書経験を人と共有するという活動には消極的でした。(読書感想文ですら苦手意識を持ち、これまでも周囲に読書が好きであることをあまり公言してきていません。)
僕が気に入っているものは、人に見せずに僕の中にだけいてくれればそれでいいや、という考えで、外に出すのが億劫というよりは、内に置いておきたいという思いがあります。

さて、そんな僕ですが初めて、いつかこの本についての思いを言葉にできる日が来ればよいなと感じたのが重松清さんの『十字架』です。
初めて読んだのは、高校2年生の終わり頃です。学校生活やプライベートで様々な問題が重なっていた時期、あらすじも何も知らず、タイトルだけを見て書店で手に取りました。そんな本の買い方もしばしばです。
簡単なあらすじはといえば、いじめを苦に自ら命を絶った中学生の少年とその周囲の人々を描いた物語です。遺された家族、遺言の中でいじめの加害者として名前をあげられた少年、いじめていたのに名前をあげられなかった少年、好意を打ち明けられた少女、覚えは無かったが親友だと感謝された少年。様々な人々の遺された時間が描かれます。
この本を手に取った当時の僕が、大事な人を亡くしたばかりだったことや、主な登場人物が中高生だったこともあり、初めて読んだ時から僕の心の中にずっと残り続けている一冊となっています。

抱えるのは”罪悪感”、背負うのは”十字架”

7章構成の本作、すべてをあげませんが各章のタイトルとして「いけにえ」「見殺し」「告白」といった題が並んでいます。先に述べたあらすじと合わせると、この物語の中で語られるものの”重さ”のようなものを感じることができるのではないかと思います。
誰しもがこれまでの人生の中で覚えがあるはずの後悔と罪悪感。自らの行動を省みて深く心に残るものが罪悪感であり、それに対して本人の意思にかかわらず、重くのしかかり時には手枷足枷としてその人の心を縛るものが十字架なのではないでしょうか。
いじめを苦にして自殺をした少年を中心に展開されるこの物語では、罪悪感と十字架(本人の自覚の有無)が対比的に描かれているように感じます。
置かれた立場や状況が異なる登場人物たちが、それぞれの感情とどのように折り合いをつけていくのか、そこで発生する葛藤や苦しみが切々と感じることの出来る作品です。

感情を伝えることの難しさ

この作品を読んで一番に感じたのは、登場人物たちへの感情移入とそこで感じる苦悩はもちろんですが、なによりも自分の内にあるものを表現して伝えることの難しさでした。
冒頭で、僕は自分の読書経験を人に伝えることが苦手だと書きましたが、読書経験に限らず、自分の感情を他の人に伝えるということについても苦手意識があります。自分が感じていた他者へ伝えることの難しさに輪郭を持たせることができたのは、この作品を読んだことにも影響されていると思います。

人には誰しも感情があり、自分でも知らない思いを感じながら日々を過ごしています。ですがそれは外から見ただけでは分からず、鏡を見たところで自分の内にあるものを客観視することは出来ません。
昨今の時世的にも、オンラインでの人とのかかわりが主流になりつつあり、対面での伝え方とは異なって気にしなければいけないことも増えています。

自分が抱える罪悪感を、十字架を背負いながらも伝えようとする登場人物たちの姿は、人のあるべき真摯なコミュニケーションだと思わざるを得ません。人の感情について考えるとき、僕はこの作品を思い出します。

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