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青い花と花粉症男

 世界から花粉症が消えた。
 人は花粉という自然の猛威をある日唐突に克服し、花粉が鼻先をかすめても、目がかゆくなったりくしゃみが出たりすることはなくなったのだ。
 その日は二月二十八日。世界はその日を記念すべき花粉症撲滅の日として、祝日になった。
 花粉症撲滅の日には、各自が花屋で花を購入するか、野の花を摘んでおく習わしとなった。そして当日の正午から、国連が生中継でセレモニーを行い、その最後に、事務総長の合図で一斉に花を食べることになっていた。
 だが、世界でただ一人だけ、花粉症から逃れられなかった男がいる。大和大吾。林野庁の森林整備部に所属する職員で、スギやヒノキを、花粉の排出が少ない品種に植え替える事業に尽力していた、いわば花粉の最前線で戦っていた男だ。その男が、花粉症根絶の恩恵に浴することができないというのは、なんたる皮肉だろうか。
 花粉症を克服したことで、林野庁の仕事も一変するはずなのだが、そこはお役所。方針転換を図るにも組織内の意思形成を図ったり、議会の承認を得たりしなければならないので、当面は事業をそのまま継続する方針で進められていた。
 だが、大和はそんな環境で働くことが馬鹿らしくなって、辞表を提出して仕事を辞めた。次の仕事の当てがあるわけでもない。事務屋だったから、林野に関する知識は多少持っているが、特別なスキルがあるわけでもない。パソコンだって人並みに使える程度だ。だが二十七という年が、何とかなる気にさせていた。これが三十を超えていれば、転職も難しいからと、現職に意地でもしがみついていただろう。
 大和は貯金を切り崩しながら生活していた。この日、奇しくも二月二十八日も、あてどもなく街をぶらぶらとしていた。そういえば花屋が増えたな、と盛況な店先をぼんやりとながめてポケットに手を突っ込んだ。じゃらじゃらと小銭を弄ぶ。
 転がっていた石ころを蹴とばすと、前を歩いていた角刈りの強面のお兄さんの尻に石が当たったので、大和は慌ててコンビニに逃げ込んだ。
 強面の男は通りを行きつ戻りつしていて、雑誌の立ち読みをしているふりの大和のこともガラス越しにじいっと見つめていたが、やがて姿を消した。
 その後パチンコに入ったが、結局一万円すってしまっただけに終わり、店の外の自販機で缶コーヒーを買うと、やけくそになってぐいと傾けて、喉を鳴らして飲んだ。
(ついてねえなあ)
 本屋に立ち寄ると、馴染みの店主が「まーたぶらぶらしとるんか」とにやにやしながら言うので、「ぶらぶらされたくなけりゃ、仕事をくれ」と言い返すと、求人情報誌が飛んできた。
「人間地道が一番よ」
 説教かよ、と腐り、文庫本を立ち読みして時間を潰すと、さすがに店主がはたきを持って出てくるので退散する。
(たまには花でも買って帰るか)
 軒先から店を覗き込むと、四人の中年の女性が若い女性店員を囲んで、談笑に興じていた。皆一輪ずつ花を持っているが、花に関する教養のない大和にはそれらがなんという花なのか分からなかった。大和が知っている花はチューリップと、自身の誕生花である竜胆だけだった。
「あ、いらっしゃいませ」
 店員が大和に気づくと、軽く会釈をした。女性たちも振り返って品定めするように大和を眺めると、それっきり興味を失ったかのようにぺちゃくちゃと雑談に興じ始めた。
「何かお探しですか」
 女性店員は駆け寄って来る。大和はつい指先を見てしまう。皮膚は荒れて赤くなり、あかぎれの痕が痛々しい。切り傷なども見られる。花だって生き物だ。生存のため棘もあれば、水を必要ともする。その世話をするのは、大変な苦労を伴うだろう、と感心してしまう。
 女性を見ると、まず指先に視線がいってしまうのが大和の癖だった。母親が苦労続きの人で、手のケアなんてする暇もないくらいだったから、皮膚はぼろぼろで荒れ放題だった。だから同じように苦労している女性を見ると、胸に温かいものがじいんと染み渡ってきてしまうのだ。
 女性はどことなく、若かりし頃のジョーン・フォンティーンに似ているような気がした。『レベッカ』で怯えていた彼女の姿がシンクロして、大和はなおのこと哀れを催した。
 花を、と言いかけて、大和は店の中に花粉が充満していることを敏感に察した。このままではまずい、出なければ、と考えたときには手遅れだった。思考と生理的現象では、後者の方が反射的に早いのは自明のことだ。
 はっくしょん!
 くしゃみをして、「やっちまった……」と大和は顔を僅かに前に突き出した姿勢のまま固まっていた。周囲の人間も唖然として固まっていた。
 だが、大和が花粉に反応した、花粉症の人間だと気づくと、四人の女性は悲鳴を上げ、「花粉症の男だわ! 助けて、助けて!」と叫びながら、まるで銀行強盗を見たような慌て方で店から出て行った。
「あんたはいいのか、逃げなくて」
 大和の言葉に、笑顔のまま硬直していたジョーン似の店員は動き出し、一瞬真顔になって、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「あの、わたし気にしませんから。きっとわたしが今日のための作業をして花を扱っていたから、花粉が飛んじゃったんです」
「今日のための作業?」
 店員は頷く。「ええ、だって今日は二月二十八日ですから」
 ああ、と大和も納得して、そういえばそうだったな。と頷く。
「でも、あなたには関係ありませんよね。お祝い、できませんよね」
「まあな。おれは祝わないけど、人が祝うのを邪魔するつもりもないぜ」
 そうですか、と残念そうに店員は俯く。見ず知らずの大和のために心を痛める、花のように優しい人だと大和は感心した。
 自分の周りにいたのは、確かに美しい花のような女たちだった。だが彼女たちは人工的な芳香を放ち、色づいた花弁も人為的なものだ。欺瞞に満ちた花、それが彼女たちだった。そのベールを取り去ってしまえば、色も香りも褪せているのに、花である傲慢さばかりが顔を出すのだ。大和はそんな女たちにうんざりしていた。
 大和は気まずくなって視線を泳がせた。すると、女性の奥に円柱型のガラスケースに収められた一輪花があることに気づき、「あれは何だ」と指さして訊ねた。
 女性は振り返ると、その白い花を一瞥し、すぐに大和の顔に視線を戻して言う。
「名前のない花です。ただ、この花を発見した人がノヴァーリスのファンで、ただ『青い花』と呼んでいたそうです」
 大和は首を傾げる。「青い花? 白い花にしか見えないが……」
「ええ。そうですよね。この花、実はまだつぼみなんです。花が咲けば綺麗な青い花が咲くことが分かってるのに、咲かせることができないんです」
 大和は腕を組んでガラスケースの中の花を覗き込む。「ふうん。随分気位の高い花だな」
「ええ。祖父に頼んで無理に一株譲ってもらったっていうのに」
「その祖父とやらは咲かせ方を知らないのか」
 店員は首をはっきりと振る。
「誰も知らないんです。今世界にある『青い花』はすべてつぼみです」
「でも、発見者がいるってことは、自然界の中で咲いてたんだろ。そこに何かヒントがあるんじゃないか」
「発見された状況も不明なんです。人工的な交配の結果生まれたのか、自然界に存在していた新種なのか」
 なかなか厄介だなあ、と大和は頭をぽりぽりと掻いて、困ったように笑った。つられて店員も困った笑顔になる。
「なあ、あんたのじいさん、会社の経営者かなんかなのか」
「ええ。でもどうして」
「希少な花を入手出来て、それを孫娘に気前よく譲ってやる。そんな気風のよさから想像しただけだよ」
 視線を逸らすが、逸らすと筒の中から顔を覗かせている花たちと目が合うので、鼻がむずむずとしてくる。慌てて店員の方に向き直ると、彼女は怪訝そうな顔をしている。
「祖父が経営者だと、何か」と店員は眉を顰める。
 いや、大したことじゃないんだ、と大和は肩を竦めておどけてみせるが、それだと居心地が悪くて、姿勢を正して直立し、頭を下げる。
「もしその『青い花』、咲かせることができたらじいさんの会社で雇ってもらえないか」
 ええっ、と店員は絶句してのけ反る。大和は相手の思考が落ち着きを取り戻す前に、自分の状況で畳みかけて泣き落としに出る作戦を組んだ。
「世界で一人の花粉症だろう。仕事にも就けなくて、職探しに困っていたところだったんだ。生活費も底をつきそうだし……。でも記念日だからお袋には花を買ってやりたくてさ、ここに来たんだ。これも何かの縁だと思って、お願いします!」
 店員は狼狽していたが、徐々に落ち着きを取り戻して、胸に手を当てて深呼吸していた。
「えっと、祖父に紹介するだけなら。雇うかどうかは祖父が決めることなので、そこの確約はできませんけど、いいですか」
 ぜひ、と大和は深々と頭を下げる。やめてください、と店員は慌てるが、大和は構わず下げ続ける。ここで上げたら、嘘っぽいからだ。
「まずは『青い花』のことが先です。咲かせられなければ、紹介はできません」
 そうだった、と大和は起き上がり、おもむろに『青い花』へと近づく。
 『青い花』は透明な花瓶に挿され、つぼみの状態であってなお、蛍光灯の光を反射してきらきらと輝いていた。花の素人の大和であっても、この花が尋常の花でないことは分かった。孫娘においそれと譲れるような代物じゃない。祖父の器量というものが窺えた。
 さてどうしたものかと考え込み、「ガラスケース外しても」と提案する。「取り扱いには注意してくださいね」と緊張した声で店員が言うので、神妙に頷いてケースを外す。
 ぶわっと甘く爽やかな香りが部屋中に広がったように感じられた。香りは風もない部屋の中を渦を巻くようにして舞い上がり、部屋の上方に漂った後、雨のように降る。降り注ぐ香りには甘さの中にほろ苦さがあるようなマイルドな香りになっていた。
 何となく、この花は自分を待っていたのだ、と思った。
 世界から花粉症が消えた。その日からこの花は咲かなくなったのではないだろうか。
 大和は両手を広げて、鼻から空気を目いっぱいに吸い込んだ。吸い込む空気に混じって様々な種類の花粉が鼻の中に入り込んでくるのを感じた。
 花粉に満ちた鼻は、無数の小さいこよりで鼻の粘膜を突っつかれているようなものだった。痙攣したように大和はのけ反り、息を吸い込んで、そして。
 へっくし!
 ため込んだ空気と花粉の塊が、口から鼻から飛び出して、『青い花』のつぼみを襲う。
 つぼみは空気の塊を叩きつけられてしなり、元に戻ろうとする力が働いて大きく揺れる。そうして揺れている内、頑なだったつぼみの先端が、少しずつ緩んでくる。
 はっと店員は息を飲んで両手で口を覆う。大和は鼻をずるずるさせながら擦っている。
 つぼみが緩やかに解けて、青い花弁が姿を見せ始める。無音の緊張感の中、花はそんなことを意にも介さず優雅に花を開いていく。そして開き切るとぴたりと静止し、その美しく深い青の花びらを惜しげもなく光の元に晒していた。
「咲い、た」と店員は唖然としている。
「咲いたな」と大和は晴れやかだった。
 何で咲いたかは正直大和にも分からない。空気による物理的な衝撃がかぎだったのかもしれないし、くしゃみの特定の周波数が有効だったのかもしれないし、大和に付着していた花粉のせいかもしれない。なんにせよ、根拠のない自信があった。自分ならできると。そんなこと、仕事でも感じたことなかったし、自信をもったことを成し遂げることが、こんなにも爽快感のあることなんだと、初めて知った。
 紹介はもうどうでもよくなっていた。どうでもよくないかもしれないが、今の自分だったら何でもできる気がした。
 花粉症男は、世界で誰もできなかったことをやってのけたからだ。
 店員は呆然としていたが、慌てて大和に駆け寄り、その手を取ると、「約束、守らせてください」と興奮した口調で言った。そして何かを思い出したようにはっとして、照れ臭そうに笑った。
「自己紹介まだでしたね。わたしは吉野千種です。一応この店の店長です」
 大和は『青い花』を見つめ、彼女はこの花に似ている、と思って笑みをこぼすと、顔を上げて名乗った。
「大和大吾。現在就職活動中」
 そして、世界でただ一人の花粉症男だ。

〈了〉

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